第2話
ケース2 『認知症の介護』
妻が脳腫瘍で倒れてから、十五年。
六十で会社を定年になり、時間が出来るから、これから旅行などに行こうと話し合っていた矢先の出来事だった。
半身不随となった妻。命を助かった事に泣いて喜んだが、そこから地獄の始まりだった。
右半身が動かなくなった妻は、家事が何も出来なくなった。
言語障害を伴うらしく、言っている言葉も分からない。
『高次脳機能障害』
一人で当たり前にやれる事が、当たり前に出来なくなった。
トイレでだって、付いて行ってやらなければならない。
近くに住んでいた上の息子が、奥さんと子供を連れて来て、最初の数年は介護を手伝ってくれた。
とても助かったのを覚えている。
十五年――長い月日だ。
生まれたばかりの赤ちゃんだって、高校生になる。
子供の高校受験があるから、忙しい。親父がお袋を守ってくれ。
あまり顔を見せなくなった、息子夫婦。
今では、一年に一度来てくれれば、良い方だ。
久しぶりにやって来た息子夫婦。
「親父、大事な話がある。ちょっと外に出よう」
「分かった。聞くだけ、聞こうじゃないか」
その日、息子の奥さんが家内を見てくれて、俺は息子の案内でおでんの屋台に辿り着いた。
他の客が座ろうとすると、店主が追い払う。
訳が分からない俺に、説明してくれる息子。おでん屋の親父を指差して、
「ああ、こいつは高校時代のツレなんだ。今日は真面目な話があるから、貸し切りにしてもらった」
「言っておくが、金の無心なら無理だぞ。介護で毎月の家計は、火の車だ」
病院に連れていくだけでも、一苦労だ。
年金だけでは、とてもじゃないが暮らしていけない。
社会人時代の積み立てを崩して、何とか生活していくので精一杯だ。
それもいい加減、底を尽きようとしていた。
「いや、金の話じゃない。お袋の話だ」
店主におでんを頼みながら、最初に頼んだ日本酒を口にする息子。
「親父、鏡で自分の顔を見たことがあるか? 窪んだ目、やつれた顔、ボサボサの髪。俺からするとお袋より、親父の方がよっぽどやばそうだ」
自分でも、随分と老いたと思う。
昔は若作りしているとよく言われたが、随分と老け込んだものだ。
「親父、このままだとお袋と共倒れだ。だからさ」
息子は再び日本酒を口にしてから、
「安楽死施設、利用してみないか?」
そう、言った。
俺に妻を、殺せと言ったのだ。
かっとなって頭に血が上る。
「病気になったから、死んでくれってかっ! 馬鹿を言うなっ! お前の実の母親なんだぞっ!」
「分かってるっ! そんなの分かってるよっ! 俺だってお袋に死んで欲しいと思っている訳がないだろっ! 俺、マザコンだったんだぞっ!」
大きな声で、変な事を口走る息子。
息子は泣いていた。大の男が、目から涙を流していた。
でも、そうだったな。小さい頃は母さんの後を付いて、離れなかった。
本心では死んで欲しいなんて思ってないに違いない。
息子も真剣に、色々と悩んだ結果なのだ。
「普段は酒を飲まないのに、今日はよく飲むんだな」
「こんな事、酒の力を借りなければ、俺だって言えねえよ」
妻に、死んでもらう。
真剣に考えてしまう。
生きているのに……半身不随以外は、何処にも悪いところなんてないのに。
「親父、真面目に考えてみてくれよ」
息子は真面目な顔だった。
家に帰ってから息子夫婦を見送り、虚ろな目でベッドの上で寝ている妻に話しかける。
起きている時であれば、絶対に言えない台詞だ。
「息子がさ……これ以上介護をすると、親父が死んじまうってさ。だから、お前を安楽死施設に行かせないか、提案してきた」
なんて馬鹿げた話だろう。
「俺は怒ってやったぞ。馬鹿を言うなって。だけどよ、息子だって本当に死んで欲しい訳じゃなかった。俺の為を思って言ってくれたんだ」
辛い日々。これからも続くと思うと、希望はない。
挫けそうになる心。
「家庭を持ってる立派な男に成長したのに、泣いてたんだぜ。おかしいよなぁ」
俺は寝ている妻に問い掛ける。
「なあ、死にたいか? 馬鹿な質問だよな。死にたくなんか、ないに決まってるよなぁ」
俺だって殺したい訳じゃない。
寝ていると思ったら、妻は起きていた。
何か喋っているけれど、聞こえない。
言葉にならない。
ただ、両目から涙を流す妻を見て、申し訳なさそうな顔をする妻を見て、俺の覚悟は決まった。
腹を括った。
親父とお袋が亡くなった。
お袋が死んで一カ月。後を追うように亡くなった親父。
俺が勧めたのに、親父は最後まで、安楽死施設を利用しなかった。
お袋の介護は大変だった筈なのに。
俺なんて最初の数年間で嫌になって、何かと理由を付けて行かなくなったのに。
お袋が倒れてから二十年。親父は介護を続けた。
俺では到底、考えられない。
ここ最近の記憶は、親父が辛そうな顔をしていた事しか、思い出せない。
もっと行けば良かった。
助けてやれば良かった。
全て、親父に押し付けてしまったのだ。
最後は家の中で、ベッドの中で眠るように亡くなった親父。
お袋の葬式の日も毅然としていて、何かをやり遂げた男の顔だった。
「これから、親父の人生が始まるんだ。親父、楽しめよ」
「ああ、分かってる」
俺の言葉を聞いているのか、それとも、聞いていないのか。
上の空で返答する親父。
葬式が終わった後の、実家での会話。
こんな会話が、親父と最後に交える会話になるとは思わなかった。
親父は俺の甘い言葉に騙されず、逃げなかった。
元々は飲んだくれの親父で、会社だって出世を嫌い、平社員だった親父。
会社から離れて妻の介護に勤しんでいた親父は、近所の人だって疎遠となっていた。
歴史上には有名な奴らが居る。信長とか、一万円札の福沢諭吉とか。
きっと凄い事をしたんだろうけれど、親父よりも凄いとは思わない。
葬式の式場で、棺桶に入っている親父に、俺は届かないと分かっている上で、声を掛けた。
二十年間、ほとんど一人で頑張り、介護を続けた男に。
「親父が誰よりも凄い奴だって事、俺は知っている。親父、今までご苦労さん」
無表情な死体だったのに。
死後硬直で、今更死体が動く訳がないのに。
親父の顔が、微笑んだような気がした。
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