第1話


ケース1『新婚夫婦』


 お腹を痛めて赤ん坊を産んだ。初めての子供だ。

 出産は苦しかったけれど、嬉しくて涙が流れた。


 私は妊娠するまで、長かった。

 子供が出来ないなんて、女としての機能を備えていないんじゃないの? なんて、義理母にはずっと嫌味を言われ続けてきた。

 不妊治療をして、ようやく出来た子供。私の可愛い赤ちゃん。


「お母さん、あなたに告げなければならない事があります」


 出産を終えたばかりの私に、医者は口にした。


「ダウン症です。障害を持ってます。この子は将来、大きくなっても幸せになれません」

「えっ」


 医者は容赦がなかった。

 我が子が障害持ちだという事実に打ちのめされてしまった私に、追い打ちを掛けて来る。

 そんな事を言われるなんて思わなかった。これからは子育てに悩まされながらも、普通の家庭を作っていけると信じていたのに。


「お母さん、安楽死させてあげた方が、良いかもしれません」


 ――せっかく生んだ子供だ。

 仮に長く生きられなかったとしても、それが何だ。

 精一杯生かしてやるのが、親の使命じゃないか。


「馬鹿にしないでちょうだいっ! お腹を痛めて産んだ我が子を、殺す訳がないでしょっ!」


 そう大声で医者に告げる。

 医者は極めて冷静だった。私の罵倒に動じている様子はない。


「落ち着いてください、お母さん。私は別に、どうしても殺せと言った訳ではありません。そういうのも一つの選択肢だと、提示したのです」

「絶対にやらないわっ!」


 断固として断って、話が終わる。

 その後、分娩室から病室に戻された私は、スマートフォンでこっそりネットに接続して、ダウン症を調べた。

 21番目の染色体が、3本ある事による疾患。 

 発達障害。先天性の心臓疾患など。

 調べれば調べる程、重たい事実が圧し掛かって来る。


 この病気なのが、見知らぬ子供の話ではない。

 自分の子供なのだ。

 泣きたくなった。泣いてしまえば楽だった。

 でも、泣いてなんかいられない。私の赤ちゃんを守れるのは、私しかいないのだ。



 赤ん坊が生まれた事で、義理母の態度は一変した――かのように思えた。

 病気だと聞くまでは、優しかった。

 病気だと知ると、『まともな子供も産めないなんて、あんたはそれでも母親かっ!』と、嫌味を言ってくるようになる。

 誰も私の味方をしてくれない。

 旦那は義理母の肩ばかり持つ。


「母さんも年だから、僕ぐらいが味方してやらないとさ」


 母親を大事にするのは良い事だと思うけれど、限度がある。

 自分を守ってくれない旦那。嫌な義理母。生まれたばかりの赤ちゃんは障害持ち。

 私の中でストレスが蓄積され、爆発した。

 これ以上は耐えきれなかった。


「この子は私一人で育てますっ! あなたとは離婚よっ!」


 旦那は文句を言ったけれど、お金はいらないから好きにさせてと言い切り、強引に話を進めた。

 退院後、私は旦那が三年前に買った一戸建てには戻らず、安いアパートの一室を借りてそこに住んだ。

 生きていれば、お金は掛かる。

 今後の事も考えて、家賃は安いところを選んだ。

 築五十年のボロアパートだ。


 子育ては大変だった。妊娠前まで共働きで、会社員をやっていた頃に蓄えた貯蓄が、どんどん減っていく。

 赤ん坊は放っておけない。些細な事でも死んでしまうので、目が離せない。

 ついには貯金が底をついた。

 仕事を出来ない私は、生活保護を申し込んで、認可される。


 ギリギリ、何とかやっていける生活。

 それで三年間、必死に耐えてはいたけれど、歪みが出始める。


 喋られるようになる年齢。歩けるようになる年齢。

 個人差があるのは分かっている。

 いつまでも自分で歩けない我が子。言葉をほとんど喋れない娘。

 私は分かってしまった。

 娘は大きくなるにつれて、周りの子供に付いていけなくなる。

 今でさえ、これだけ差があるのだ。

 その差はどんどん大きくなるだろう。

 医者の言った通りだった。

 この子は将来、成長してもイジメられる。

 娘がイジメられるのが分かっていて、苦しむのが分かっている。

 それを放置しろと言うのか。

 私には、見過ごす事が出来なかった。

 その日、私は決断した。



 一見すると、外からでは病院にしか見えない施設。

 ここを訪れる者は、帰って来ない者も多い。


『安楽死施設』


 私は誰も居ない待合室で、三歳になった娘を抱きかかえる。

 人が居ないけれど、すぐには呼ばれなかった。考える時間を設けているのかもしれない。

 三十分程が経過して、ようやく医者に呼び出される。


 この子の未来に絶望しかないのなら、安楽死させてもらおう。

 苦しまずに殺してやりたい。

 だけど、一人では逝かせない。

 寂しい思いをさせない。

 私も一緒に逝くから、我慢してね。



 医者に娘がダウン症である事。

 私自身も人生に疲れてしまった事。もう生きていく事も嫌になったと告げると、一枚の書類が渡された。




―――――――――――――――――――――――――――――――――



 安楽死に関する同意書


 これが最終的な書類です。

 この書類に安楽死させたい者の氏名をご記入下さい。

 意識がある者に対しては、本人にも最終的な意思確認を行います。

 よく考えてご記入ください。



―――――――――――――――――――――――――――――――――




 その下には名前が書く欄があって、私は悩んだ末に自分の名前と、我が子の名前を書いた。

 ぽたぽたと落ちる涙。もう、限界だ。

 私と娘は、真っ白なベッドの上に寝かされた。


「あなたはよく頑張りました。もう、休んでも良いのですよ」


 医者は注射を持っていた。あれには強力な睡眠薬が入っている筈だ。

 私には頼る者がいなかった。

 交通事故で死んだ二人の両親。

 私の親が生きていれば、結果は違ったのだろうか。


「今行くからね、お父さん、お母さん」


 医者が注射を私の右腕に打つ。

 遠のいていく意識。 

 二人の死から立ち直らせてくれた旦那の顔が、最後に浮かぶ。


「あなた、ごめんなさい……」


 謝罪の言葉を最後に、私の意識は途絶えた。




 目を覚ますと、病院のベッドの上だった。

 なんで生きているのだろうか。私は死ぬ筈だったんじゃないのか。

 虚ろな目で室内を見回すと、窓のところに別れた筈の旦那が立っていた。


「ん、どうやら起きたみたいだな。どうして生きているんだって顔してる。実はだな」


 私と旦那、両方を知っている旧い友人が、私が安楽死施設に入っていくところを見かけて、旦那に一報を入れてくれたらしい。

 あいつには感謝しないとな、そう微笑む元旦那。


「お前がこんなに悩んでいるなんて、俺は知らなかった。もう母さんには何も言わせないっ! 生きる理由だって作ってやるっ! だから、死ぬんじゃないっ!」


 本当は怖かった。死ぬなんて嫌だった。

 幸せに、なりたかった。

 とめどなく溢れて来る涙。ようやく身体も動けるようになって、私は元旦那に抱き着いて、大泣きした。

 娘も無事だった。



 その後、私は元旦那と寄りを戻して、再婚する。

 義理母は頭を下げて謝ってくれた。ただ、根っからの頑固な人だったんだろう。

 再婚してからの、義理母が死ぬまでの五年間。後にも先にも、頭を下げたのはこの時だけだ。

 障害持ちの娘との暮らしは、死んでいた方が幸せだったかもしれない。そう思うぐらいに、苦労した。


 娘は他の子供に比べると成長は遅いけれど、ゆっくりと育っている。

 それで良いと思う事にした。人より成長が遅いぐらい、どうだと言うのだ。

 幸運にも合併症などの症状は、今のところは出ていない。

 私は症状が出ない事を祈るばかりだ。 



 あれから七年。今年で娘は十になった。

 人並みよりちょっぴりと下かもしれないけれど、幸せな日々を送れていると思う。

 仏壇で微笑む、義理母の写真。

 鬼のような姑だと思い込み、一回目の結婚の時は、顔色を窺っている日々を過ごした。

 再婚してからガツンとぶつかると、話してみれば普通の人だった。

 困ったときは、『そんな事も知らないのかい。無知な嫁だねえ。こんなのと再婚するんだから、うちの息子もボンクラだよ』と、口では愚痴を言いながらも、助けてくれた。

 仏壇で手を合わせて、冥福を祈る。

 

「義理母さん、私達を見守っていてくださいね」


 さてと、娘は小学校でいないけれど、やらなければならない事はたくさんある。

 掃除に洗濯、洗い物に風呂掃除。昼からは近所のスーパーに、短時間だけどパートに行かなければならない。

 座っていた私は立ち上がって、家事に勤しむ事にした。



 主婦は、やらなければならない事が満載なのだから。

 


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