第11話 再会

滅茶苦茶に両腕両足を振りまわし、ほとんど四つんばいに近い形になって、長身の女は真っ直ぐこちらへと向かって来る。三人が地面へ降りた彼女の姿を認めた時には、やっと声が届く程度の距離だったものが、尋常ではない速さで距離は詰められ、ほんの数秒足らずの間に、風を切る音と共に彼女は、三人の目前へと辿りついた。


「おい走っとるぞ、こいつは」


ライフル銃を構えながら言ったそれが、篠原の発する最後の言葉となった。恐山が金棒を走らせ横なぎに振るった一撃を、物ともせずにすんなりくぐってみせた彼女は、そのまま大地を力強く蹴りこむと前方へ右ひざを突き出すような形で跳躍し、哀れ、ただぽかんと見ているだけの篠原の顔面へとそれを叩き込んだのだ。


パキョ


頭骨の割れる、世にも恐ろしい音をさせながら、篠原はそのまま後方へ吹っ飛ぶ。後頭部から首をあらぬ方向へ曲げて着地し、そのまま身体ごとゴロゴロと転がっていくその姿には、一目見て魂の不在が見て取れた。その女の留人の姿を間近に見た恐山は、どんな思惑があってか、その手の金棒を手放してしまった。篠原の死体と留人の後姿を交互に見る恐山の顔には、さっきまでの闘争心はなく、怒りとも恐怖とも違う、空虚を掴むような表情が浮かんでいた。


一方の熊谷は、自身の立ち位置が篠原とは逆で、たまたま殺されなかっただけであるという恐怖がその身を包み込もうとする中、怒りを原動力にして無理矢理己を奮い立たせた。声にならぬ叫び声を上げ、ライフルの銃底を肩口に付けると、今しがたしとめた獲物に近寄ろうとする女の後姿めがけ弾を撃ち込む。


パゴォオォン


弾は、その鼓膜を麻痺させるような乾いた音と共に、女の左二の腕辺りに吸い込まれた。筋が切れたのか、上に下に忙しかった左腕がプランと力なく垂れ下がる。しかし、相手が獣であれば、その燃えるような激痛にもだえ、ひたすら逃げ惑うのだろうが相手は魂なき死人である。痛覚の無い彼女にとっては、身体のバランスを少し崩される程度のことでしかなかった。


「くそったれい!」


熊谷がボルトを引き二射目を撃とうとするが、そんなわずかな間を彼女が許すはずがない。彼女は、留人らしくない、まるで反射的な動きをみせるように、着弾と同時に素早く熊谷に身を向けた。頬が裂け歯までむき出しになったその表情は、まるで笑っているようにも見える。予備動作もなしに、自身に危害を加えた熊谷に向かって駆けたその刹那、彼女は横からの強い衝撃と共に、その身体を宙へと浮かせた。


ぐるぐると回る景色を見ながら、魂を持たない彼女は何を思ったのだろう。4、5メートル程も飛ばされながらも、全く何事も無かったかのように両手両足を使い、スタッと地面に着地すると、自身がさっきまで居た場所に立ち、右手のひらをこちらに向けている恐山その人を認めた。


「今すぐ公民館へ走れ、熊谷ッ!」

「待て、今」

「いいから走れッ!」


これまで、町の誰もが聞いたことのない程の大声で、恐山がそう熊谷に告げる。ボルトを引き終わり、二射目を撃たんとしていた熊谷はためらいを見せたが、初めて見る恐山のその気迫に負け、何度も振り返りながらも公民館へと走っていく。


「すぐに来いよ、恐山!」


「まかせい!」


その一言だけを交わし、ついに恐山は一人になった。軽く深呼吸をし、遠くから、銃声を聞きつけてこちらへ向かって来るおびただしい数の留人達を遠めに見やる。その間、不気味にもその女は、両の足で立ち上がると恐山の方を向いたまま微動だにしなかった。スラっとした長身で、肩まで伸びた髪が血でくっつき顔を覆っている。


知能があるとは言え、留人は留人。彼等の考えを読むことは不可能に近い。ゆえにこの先どのような行動に出てくるのかは、様々な留人を見てきた恐山にも分からなかった。次の動きを決めあぐね、いつまでも見つめあっているかのような永遠のような一瞬、その均衡を崩したのは、意外にも恐山の方だった。彼は、くるりと敵に背中を見せると、全速力で駆け出したのだ。


後ろから、そんな恐山の背中を追う足音が聞こえる。恐山は、下駄の音をカツカツと鳴らしながら大通りを抜け、砂利のあぜ道をひた走り、何を考えているのか自宅へと向かった。昨日飛び出していってから、開け放たれたままになっている玄関に飛び込むと、そのまま左手の下駄箱を開け、仕事道具の収まったベルトを引きずり出す。それと同時に、玄関の引き戸に身体をぶつける音がした。恐山はとっさに振り向いたが、同時に左肩に鈍い衝撃が走った。


それは、恐山と同じ程の足の速さを持つ彼女が、残された右腕を使い、掌底を当ててきた衝撃だった。玄関の石畳に強く頭を打ち付けた恐山が、うううと呻く。手に持ったベルトは、仕事道具と共に散らばり、金属の音をさせた。


そのまま恐山に馬乗りになるような形で彼女は覆いかぶさると、首に向かって齧り付こうとする、しかし寸出のところで恐山は両手を突き出し、彼女の顔を両からはさむようにして掴んだ。カチカチと、肉を噛めなかったむき出しの歯が虚しく宙を噛んだ。すさまじい力で押される恐山は、そこから動くことが出来なくなってしまった。しかし、それは彼女の怪力だけが理由ではなかった。


あろうことか、この町で最も強く、寡黙な男のその目にはいつの間にか涙が溢れ、その雫はぽろぽろと次から次、目尻から首筋を伝って落ちていた。もはや恐山の目には、血肉を求める恐ろしい死人の姿は映っていなかった。


そこに恐山が見たのは、在りし日の一人娘の姿だった。


「き、清香きよかぁ……。」


長い髪が、恐山の手で押さえられ、あらわになる。そこには、鋭い切れ長の目が覗いており、血に濡れていない真っ白な肌が、その死によってさらに青白くなり血管が浮いていた。口元は裂け、喉が切れているせいか、ヒューヒューと声にならない音がしている。しかし、恐山には分かる。分かってしまう。それは、愛情表現の苦手だった二人の、十数年ぶりのあまりにも惨い再会だった。


「なしてこんなことに、なしてじゃ」


恐山のかける声も虚しく、尚も彼女は右腕を滅茶苦茶に振り、何とか恐山の両腕を払いのけ、その血肉を得ようとしている。片親で育ち、しかも送り人の家系で、望まずとも人ならざる力を持って生まれ、幾度も苦労をかけた我が子。喧嘩をしたまま家出同然で町を出て以来、お互いに和解することが出来ず、気付けば歳を取ったのだろう、いつまでも小娘だと思っていたその子の目尻に刻まれた皺を見て、次々零れ落ちる涙が止まらない。


終わらせたくない恐山と、終わりのない存在になってしまった娘の決着が着くはずもなく、それはどちらかの意志が折れるまで続くことは明らかだった。そして、その天秤が傾く方向も既に明らかだった。恐山は、もはや戦う力を無くしてしまっている。街が酷い事になっているというのは想像出来たが、それを考える事はあえて止めていた。彼には守るべき町があり、守るべき人がいたからだ。しかし、目の前に忘れようとしていたそれを突きつけられるとなると話は別だった。今ここには、頼もしく強靭な送り人ではなく、子を失った老人が一人居るだけだった。


徐々に恐山の腕力に限界が近づく。無言のまま、見つめ合う一人と一体。しんと静まり返る家の中。鳥がいつものようにさえずる音が聞こえ、遠くではタタタンタタタンと規則的な音が聞こえている。やがて顔と顔が触れ合うぎりぎりの距離にまで追い詰められた恐山は、ついに生きる事を諦めてしまった。


その時、開け放たれた玄関から人影が覗いた。


「爺ちゃん、大丈夫かッ!?」


若い声が、古民家の中に響く。それに反射的に反応し、ぐるりと振り向いた彼女は、恐山の上から跳ねると、その声の主である我が子へと飛びかかった。


ズプリ


そんな音がして、力無く膝から崩れ落ちたのは彼女、ただの遺体に戻った鈴原 清香だった。恐山は咄嗟に地に落ちたハリガネを手に掴むと、後ろから抱きしめるような形で下あごからそれを突き刺したのだ。崩れ落ちる娘と共に、その父は一緒に床に腰を落とすと、我が娘の頭を膝に抱え込むように抱きしめ、大声を上げて泣き出した。


「母・・・さん・・・?」


ただ呆然とそれを見るケイ。

その背後には、やっと到着した都兵達がタタタンタタタンと銃を鳴らす音が響いていた。

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