第10話 地獄の中で

 夜が明けても尚、終わらない悪夢を見続ける木帰町にも新しい朝がやってきた。顔の傷に似合わない、どこまでも安らかな表情をした山本の遺体を後にして、三人は公民館へと向かう。二人きりになってしまった叉鬼衆は、どこか神妙な面持ちのまま、言葉少なに歩き続けた。しかし、昨日流した涙を引きずるような顔はそこにはなかった。二人の年寄りは、それぞれ友の死を受け入れ、無駄にするまいと必死に目の前の現実に立ち向かうことを覚悟した。人は年齢に関係なく、前へ進むことが出来る可能性を持っている。


一晩の間に留人達はどこかへ散ったらしく、表には数える程しか残っていないようだった。一行は下手に彼らを刺激することは避け、静かに通りを進んでいく。今日も木帰町は晴天で、手をかざしながら見上げると、まるで神か仏が空から地上の地獄を笑っているんではないかと思ってしまうくらい、いつもと変わらない穏やかな空が、そこには広がっていた。


もしかすると、留人達は獣にでも釣られて山の方へ消えてしまったのではないか。あまりに群れが町にいなかった為、そんな楽観的な考えが三人の頭によぎった頃だった。公民館まであと少し、最後の難所である大通りを横切ろうとした際に、彼らがここまで留人達を見かけなかった理由が判明した。


大通り沿いにある3階建ての真新しい建物。定年後に、都から移住し、田舎での暮らしを選んだ変わり者の夫婦が住んでいたその建物が、すさまじい数の留人に囲まれているのだった。窓からは、旦那と思われる痩せ身の男性が顔を出している。彼は、一体何を考えているのか、電気スタンドやストーブ等を、階下の留人の群れに向かって落として、叫んでいた。


「さっさとウチから離れんか!このゾンビ共が!」


恐山達が、唖然としながらその様子を見ていると、どうやら向こうもこちらに気付いたらしく、手を振って大声で助けを求めてくる。その声に釣られて、また留人達がわらわらとその建物に集まって来ているのだった。夫婦が住んでいるのは、都でもあまり見かけないような、コンクリート製の立派な建物なだけあって、留人達はただ建物を囲う以上の手出しは出来ていないようだった。


「馬鹿なやっちゃな~、どうせならあそこで引き付けといてもらうか?」


ライフル銃を手でぽんぽんと叩きながら、半笑いで熊谷がそう言った。恐山は、ただあっけにとられたようにそれを見つめている。留人を相手に、まるで犬を追い払うようなおかしな仕草をするもんだな、などと思っていたら、建物の中からキャンキャンと犬の鳴き声も聞こえた。どうやらあれも彼らを引き寄せる要因になっているようだ。この町では昔からの風習で犬は繋がないことが普通である為、室内犬を見かけること自体が少なかった。


自分達が、まだ気付いてもらえていないとでも思ったのか、部屋の奥から嫁さんも出てきて、彼らは滅茶苦茶に声を張り上げ、こちらに向かって助けを求め始めた。助けるにしても、まず彼らを黙らせなくちゃならないが、こっちがそれを伝えるとなると、その声で留人達の注意を引いてしまう可能性が高いだろう。何と言っても地上にいるのはこちらなのだ。下手なことをして、大通りを覆わんばかりになっている群れを呼び寄せるような、馬鹿な真似をする訳にはいかなかった。


何とか夫婦を黙らせた後、猟師二人が町外れの田んぼに出て、猟銃の音で留人を散らすという案がまとまりかけた時だった。渋い表情で黙っていた篠原が、何かとんでもないものを見るような目をして、並ぶ二人の肩を叩いた。


「おい、おいっ、あれ、あれなんだ!」


そう言ってうろたえる篠原が指差す先を見ると、彼らの目には常識的に考えられない光景が映った。群れに囲まれた建物。その玄関の前に、いつの間にか、一際背の高い女の留人が立っている。そいつは、まるで当然といったようにドアノブを握ると、その鍵のかかったドアノブをガチャガチャと回し始めたのだ。


「たまげた、知能があるのか・・・」


熊谷は、ぽかんとした顔でその女を見ている。


ガチャガチャガチャガチャガチャガチャ


この距離から聞こえる程に大きな音。力任せにドアノブを回す無機質な音が、聞こえてくる。恐山は、その異様な光景を目の前にして、知能を持つ留人を見た驚きとは別の、何か得体のしれない不安が胸の奥からこみ上げてくるのを感じていた。3階の窓からは、相変わらず夫婦が顔を覗かせて、大声をあげている。


ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ


バコンッ!


三人は、それをただ見ていることしか出来なかった。


長身の女の留人は、無機質な音を止めたかと思うと、次の瞬間身体全体をドアに押し付けるような動きを見せ、あろうことかそのままノブをしまったのだ。


キィィ、と玄関を開けると、何事もなかったかのように女は中へ入って行く。それに続くように、数え切れない程の留人の群れが、建物の中へと雪崩れ込んでいくのが見えた。


「おいっ、恐山!どうするんだ、おいっ!」


自身の脳の処理容量をとっくに超えた現実が、更なるイレギュラーを目の前に突きつけてくることに動揺した篠原は、ただ恐山に次の指示を出してもらおうと必死になった。一方恐山は、黙ったまま今起きていることの意味をただ考えていた。普通、人間が死んで転化すると、そこに知能というものは存在しなくなる。人の魂は、自我と共に霧散してしまうというのが常識だった。ゆえに、人間らしい行動をする留人というものは、ある例外を除いては存在することはなかった。


建物内からは、生きたまま地獄を味わう人間とペットの、悲痛な叫びが聞こえていた。思わず耳を塞ぎたくなるようなその絶叫を、聞いていられないといった風に、熊谷と篠原は顔を背ける。


「おい。来るぞ、前ぇ向いとけ。」


恐山は、緊迫した声で二人にそう告げる。気付けば地獄の中で唯一頼りになる恐山が、ただならぬ様子で身構えているではないか。二人が、その目線の先を追うと、長い黒髪をした、すらっとした背丈の女が、3階の窓から身を乗り出している様が見えた。直前まで何かを咀嚼していたのか、口元は血に濡れ、生前着ていたであろう白いブラウスが、鮮血に染まっている。


ドサッ


その鈍い音を、恐山は沈痛な面持ちで、二人の猟師は、恐怖に震えながら聞いた。その女は、下にいた数体の留人達をクッションにするようにして3階から飛び降りると、真っ直ぐにこちらへとのだ。

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