第4話 見張り役としての意地

「やばい、ゾンビ、沢山だから逃げて!」


さっき店を出ていったケイ坊が、すぐに血相を変えて戻ってきた。焦った様子で、声をやっとの思いで搾り出すように、こちらへ死人の群れがやって来ていると言う。最初は何の冗談かと思った木梨も、ケイのただならぬ動揺ぶりに、それが真実であることを悟った。すぐに店の前に出ると、姿こそまだ見えないが、街の方角から風に乗って腐臭がしてくる。いかん、これは一刻を争う事態だと、すぐに頭を切り換えた。


「落ち着け坊主、一体どれだけいる?」


「分からない、見える範囲でも40から50体はいた!」


50体と聞いて、我が耳を疑った。そんな数のゾンビが一度に出たというのはこれまで聞いたことがない。自分で落ち着くように言っておきながら、ケイ坊と同じように動揺してしまっている。


「坊主、お前んとこの爺さんに今すぐ知らせてこい。」


ケイ妨にそう投げつけるように言うと、途中で人に会ったら公民館へ逃げるよう伝えろと付け足した。公民館は集落の中では一番高台にある上、大通りからも離れている。とりあえずはそこへ逃げるべきだ。都道に沿って来ているならば、奴らは既にこの町に気付いていると考えていいだろう。隣町まで逃げるにしても、道のりはかなり遠い上、隠れる場所もほとんどない。疲れを知らないゾンビ共から、パニックになったこの町の年寄り達が逃げ切れるとは到底思えなかった。


「爺ちゃんに伝えたら、お前もすぐ公民館に来い、あそこに逃げりゃあ大丈夫だからな。」


そんな大量のゾンビ達を前にして、あんな小さな公民館へ逃げ込んで何が大丈夫だというのだろう、そんなことは木梨自身にも当然分かっていた。あそこは緊急時の避難場所とはいえ、ゾンビに対する機能は極めて限定的だ。人が大勢住む街の方とは違って、こんな田舎にゾンビの群れが出るなんて事は、始めから想定されていないのだ。覚悟、その二文字が脳裏によぎる。


「分かった、木梨さんも急いで!」


それだけ言うと、ケイ坊は自分の爺さんの所へ裸足のまま駆けていった。走りながら、大声でゾンビが来た事を町中に伝えているようだ。馬鹿坊主め、あんな大声出したら奴らを引きよせちまうだろうがと思ったが、それをケイ坊に注意している暇すら無さそうだった。今、自分に出来る事をするべきだと、木梨商店の店主は慌てて二階へと向かう。



――



木梨商店が木帰町の端、ちょうど町に来て最初に目に入る位置にあるのは単に偶然ではなかった。というのも、木梨家は元々、この集落の見張り役の家柄だったのである。見張り役というのは、かつて都から人不足の地方へ役人が派遣されていた時代に、集落にある見張り台に常駐する任を負った者のことを指している。その役目は、集落に向かってくる留人をいち早く発見し、集落の安全を確保するという重要なものであった。


木帰町がまだ町村合併をする以前、鬼帰村と呼ばれていた頃には、どの集落にも、その玄関口となる位置に高さ12メートルの見張り台が建てられていた。そこには見張り役として都から派遣された役人が、大抵何をするでもなく、日がな一日、ぼんやり立って遠くの景色を眺めているのだ。そして鬼帰村では、木梨の祖父と父が代々その任にあたっていた。


しかし、木梨の父の時代には既に、死人が野を跋扈するような混迷を極めた時代は終わっており、無線通信の技術が復活したこともあって、ある時見張り役という役目は見直されることになった。各地の見張り役には、代わりに都での仕事が用意されたが、既に代を重ね、その土地に馴染んだ見張り役の多くは、農民や商人へと鞍替えして、晴れて村の一員となることを望んだ。木梨家にも当然都からの知らせは届いたが、子供が小さい事を理由に断り、同時に木梨商店を立ち上げたのだと、木梨は父から聞いていた。



「まさかワシの代でも見張り役を果たすはめになるたぁな」



焦りを誤魔化すように、ひとり文句をぶつくさ言いながら、2階へ続く急傾斜な階段を上っていく。既に物置になっている上の階は、最近じゃ滅多に立ち入ることもなくなっていた。そんな床中ほこりのかぶった2階の窓際には、マイクの付いた簡易な機械が設置してある。これは、木梨商店の横、当時見張り台のあった跡地にある、真新しいポールに繋がっていた。このポールにはスピーカーがついており、マイクを通じてここから音が出る仕組みになっている。


これは、地震や台風などの緊急放送用に、街頭スピーカーの設置が街では進んでいるとの話を聞いた木梨が、持てあましていた空き地に自費で設置したものだった。見張り役は集落の人間の命を守る義務があるんだ、と父から常日頃のように教えられていた木梨は、平和な時代にあっても見張り役としての精神を大事にし、あらゆる災害から集落を守りたいと思っていた。この小さな集落に不釣合いな大げさなスピーカーは、そんな木梨の不器用な愛の形だった。しかし、幸運にも町はいつまでも平和そのもので、この立派な設備が本来の目的で使われたことは、これまで一度もなかったのだ。本来のというのは、稀に木梨がテスト放送と称して流す自慢の歌声を含めなければ、といった意味である。


木梨が機械の電源を入れると、電源がオンになったことを示す青色のランプが点灯した。これで呼びかければ、あの夜、町中の人間が木梨の歌声で目を覚ました時のように、一人残らずに声が行き渡るだろう。ついでに、音に敏感なゾンビ共を一箇所に集めることもできるはずだ。当然いつまでもとはいかないが、足の悪い年寄りの、避難までの時間稼ぎくらいにはなるだろう。


【緊急放送、緊急放送】


木梨はマイクに向かって声をかける。キィ-ンと音が割れ、スピーカーから大音量で声が流れた。


【留人の群れがこの集落に来とる。かなりの大人数じゃ。】


【今日ばかしは冗談じゃないからよく聞けよ、動けるもんは今すぐに公民館に逃げろ、それが無理なら、せめて家の戸締まりをして隠れとれ!】


【安全な場所からは絶対に外に出てはならん、必ず松森か恐山の指示に従え。】


町中に木梨の張り詰めた声が響き渡った。大勢のうめき声のようなものが外から聞こえ、階下では店の戸を何度も打ち叩く音がする。まるで家全体を揺らすような激しいその音に、思わずマイクを持つ手が震えた。不安が声に表れてはいけない、それは見張り役としては三流のやることだ。


留人には、脳のタガが外れたような怪力の者はいても、まともな思考力や判断力を持った者はいない。ここから声が聞こえている限り、奴らは必ずこの場所に留まり続ける。その間に、町の人間は皆しかるべき場所へ避難を始められるだろう。しかし当然、いつまでも引き付けてはいられない。それはあと何分か、何秒か、それは自らの命運が尽きるまでと、木梨は震える手をもう片方の手で押さえつけ、愛する町の人々に声をかけ続けた。


___



 最初に、外で畑仕事をしていた数人が恐山の孫、ケイの声でその事態に気付いた。恐山家のお孫さんが、ゾンビが出たから逃げろと血相変えて走ってくる。一体どうしたというのだろう、昨日話をしてた山下のばぁさんが、何かの手違いで徘徊でもしたのかしら、とケイの指差す方を見てみれば、その先には見た事もない数の死人達が腐臭を漂わせながら、今まさに集落に足を踏みいれんとしている所なのだ。それを見て、腰を抜かして、そのまま立ち上がれなくなった者もいるくらいだった。


平和な時代に生まれ、集落の優秀な送り人、恐山のおかげで長年人の最後の姿たる留人の存在を遠ざけて暮らしてきた人々。彼らにとっては、目の前に突然突きつけられた光景はあまりにも衝撃的すぎた。恐怖にうろたえ、歩くこともおぼつかなくなった人々に、ケイは必死に公民館へ逃げるよう語りかける。しかし、パニックになった人間にケイの言葉はほとんど届いていなかった。


ケイもただ焦っていた。あの数のゾンビが、もうここから100メートルもしない距離に、その着ている服の色も判別できる程の距離に迫っているのだ。ここから公民館まで、若い自分の足ならともかく、パニックになったこのじいさんばあさん達がたどり着けるだろうか。それとも、急いで爺ちゃんのところへ行くべきか。いや、家まで帰っていたらこの人たちは、このまま確実に殺されてしまう。やはり、留まって説得を続けるべきか、頭の中を思考がグルグルとまわり、眩暈がする。


【緊急放送、緊急放送】


ケイ自身がうずくまってしまいたくなったその時、町の空気を震わす大きな音が聞こえた。


【留人の群れがこの集落に来とる。かなりの大人数じゃ。】


木梨さんの声だった。それは耳の遠い年寄りにも聞き取りやすいようにか、ゆっくりと子供に語りかけるような口調で、必要なことだけを繰り返し伝えている。あの音量なら、屋内にいる人にだって伝わるだろう。木梨の狙い通り、ケイの周りでパニックに陥っていた人々が、少しずつ彼の落ち着いた声を聞いて冷静になっていくのが分かる。


「でもダメだ、ダメだよ、木梨さん」


さっきは自分でも忘れていたが、ゾンビのいる所で大声を出すのは自殺行為だ。ましてや町中に届くような大音量のスピーカーであれば、あのゾンビの集団はそこに向かって一斉に集まってしまうだろう。そうなれば、当然木梨さんの身が危ない。


【身体の元気なもんは、そうでないもんを連れて行ってやれ、ゆっくりでもいい、今は何も考えず、ただ公民館へ向かったらいい】


【心配するな、うちの集落にゃあ強ーい現人神さまがついてくださっとるじゃないか。】


【だから今は何も考えず、皆公民館へ向かっとけ。絶対に、こんな奴らに捕まるンじゃねえぞ】


放送を聞いて一人、また一人と公民館へ駆け出していく。あまりの緊張からか、胸を押さえながらゆっくりと歩いている者もいる。あちこちから悲鳴とも嗚咽ともいえない声がするが、皆が一様に木梨の言葉だけを頼りにするように、高台の公民館へと向かっていった。しかし、ケイはその中に混ざることも、また爺ちゃんの元へ向かうこともできなかった。気付いた時には、ケイの体は木梨のじいさんの元へ、家中をゾンビに囲まれ、軋んだ悲鳴のような音を上げている木梨商店へと駆け出していたのだ。

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