第2話 町会長・松森の仕事



早朝、いつもより早く目覚めたのは決して偶然ではない。恐山が仕事をする日は、何となく前日から気が立ってしまい、一晩中眠れない事もあるくらいなのだ。この日も町会長の松森は、目覚ましをかけるでもなく、自然に早い時間に目が覚めた。既に山下家の長男には電報は打っておいた。あとは現場立会いの上、その死の現場に事件性が無いことを確認するだけだ。


何か気を紛らわせようとしてみても、どうしても恐山からの電話が気になってしまい、結局電話機の前をただウロウロとしてしまう。外からは、一日の始まりを告げる鳥の声が聞こえ始めていた。きっと山下のばぁさんは動きも鈍いだろうから、案外早く片がつくんじゃないだろうか、と思っていたところで突然目の前の電話機がジリリと鳴った。


ドキン、と松森の心臓が跳ね上がる。


電話機の音は、何度聞いても心臓に悪い。うるさい音をすぐに止めようと急いで受話器を取ると、受話器を通して落ち着いた恐山の声が聞こえた。それに、すぐに向かうとだけ返して電話を切る。


どうやら今回も無事に終わったらしい、とホッと胸をなでおろす。山下のばぁさんが死んでいるであろうことは予想がついていたので、死者が出たことへの動揺はさほどなかった。しかし毎度のことながら緊張して止まないのは、この電話がいつまでも鳴らなかった場合のことを想像してしまうからである。


死してなお、生者の血肉を求めようとする留人達の性質上、人の死の現場には常に危険がつきまとう。その危険な死の現場で故人の死を確実なものとするため、各地の送り人となる家系には、代々肉体が強靭で長命な者が産まれるようにはなっている。しかし、それに反するように送り人達の平均寿命は大変短かった。理由は言わずもがな、やはりその仕事内容によるものである。


今でこそマニュアルが整備され、人々の留人への対応や、送り人の能力のばらつきは均一化されるようになってきてはいるものの、かつてはその対処法はその町会や送り人毎に異なっていたため、各地で留人が原因の不幸な事故が頻発していた。松森が子供の頃、隣村の送り人がやられて村一つ全滅したなんて話を両親が小声でしているのを盗み聞いた時には、子供ながら恐怖に震えて眠れなくなったものだ。そういった事故が近隣で起きた場合、村の子供らは外出を禁じられ、窓を開けることも許されず、家の中で過ごす決まりになっている。その時も、数週間経ってから外に出ていいと言われ、やれ大喜びで外へ飛び出てみると、いつの間にか辺りには一面雪が降り積もり、道のそこかしこが真っ赤に染まった雪でいっぱいになっていたのを見て、大変驚いたことをはっきりと覚えている。どうやら自分達子供が外に出なかった間、先代の恐山家の当主と村の大人達が、昼夜問わずやってくる留人達の相手をしていたのだと聞いたのは、ずいぶん後のことだった。


留人が人間の遺体に戻ってからの腐敗はすこぶる早くなるので、その手続きは早ければ早い程良い。かといって1分1秒を争うほどではないのだが、松森はよほど落ち着かなかったらしい。寝間着の上にジャンパーを羽織り、サンダル履きのまま外へ飛び出すと、その大きな身体をゆらしながらあっという間に山下家へ駆けつけた。


「おう来たか、ご遺体は1階の裏庭側にあるぞ。」


松森を玄関前で待っていた恐山が、きっと窓から運べるはずだと付け足して歩き出す。恐山は、目の周り以外が全て覆われた鎖帷子をその身にまとっていた。都から支給されているであろう、剛性繊維で編まれた軽量な作業着を使わず、わざわざ先代から受け継いだ重たい帷子を頑なに着続けるのは何故か、と以前尋ねた際、恐山は使い慣れた道具の方がよっぽど信頼できるんだと言い放った。しかし、その信頼できる使い慣れた道具とやらは、長い年月を経たせいで、その鎖が全て黒く酸化しており、明るい陽の下では山村の風景にその全身の黒さが馴染まず、その巨大な体躯と相まってその異質さを際立たせていた。


そのまま恐山に案内されるように家をぐるりと周り裏庭へ出ると、山に面したそこには、直径3mほどの大きな窓が付いていた。促されるまま、恐る恐る窓を覗いてみると、窓際のベッドに山下のばぁさんが眠るように横たわっていた。その肌に外傷は見られず、まるで死後一度も動き出さなかったようにさえ見えた。いつもながら恐山の完璧な仕事ぶりには感心させられる。


この集落で死ねば、まるで人は留人に転化せずに死ねるのではないかと錯覚させる程、恐山が処置した遺体はどれも綺麗な状態を保っていた。ゆえに葬式の為に町の外から来る化粧師は皆一様に、凄腕を持つ送り人の残した丁寧な仕事の痕跡にたいそう驚いて帰るのである。


「なんまんだぶ、なんまんだぶ。」


松森は眠るように死んでいる山下のばぁさんに手を合わせる。あとは人を集めて遺体を葬儀場に運び、葬儀の準備をするのだが、その前に都へ出す書類を埋めなければならない。特に死亡届に記載すべき項目の中には、現場の状態をこと細かく記す箇所がある為、町会長は現場の様子をチェックリストを見ながらいちいち記録をとる必要があるのだ。


人が二度死んだ事を確認したことによる一種の安堵感の後訪れる、この事務作業の面倒くささときたら。松森が肩を落としてハァ、と大げさにため息をつくと、恐山はそれを見て豪快に笑い、それじゃあ後は頼んだぞ、とジャラジャラと鎖の大きな音をさせて帰って行った。この集落で一番大きなその後ろ姿を見送りつつ松森は、窓際から見える範囲での状態の記録を取っていく。床中がゴミで埋まった様子を見ると、家の中に入っていく気は起きなかった。


死亡推定日の欄から始まり、最後に事件性がないことを証明する署名欄へ松森が署名をする頃には、太陽はてっぺんから下がり始めようとしていた。さっさと帰って葬儀の準備を始めようと、元来た道を集落の方へとえっちらおっちらと帰って行く。山下家は集落から少し離れた林道沿いにあるので、町の大通りへ出るまで長い下り坂が続く。ぽかぽかとした暖かな春の陽気の下、汗を拭きつつ長い林道を歩く。長年その太った身体を支えてきた膝が痛んだ。


林道は、集落へ続く太い道路へと繋がっている。都道と呼ばれるその道路は、砂利を敷き詰めただけの粗末な林道とは違い、元々旧世紀からある丈夫なアスファルトの道をそのまま使っているものだ。それは山と街とを繋ぐ唯一の道であり、そのまま町の大通りにもなっているものだった。


ちょうどT字路のようになっているその林道と都道との分岐部分が見えてくると、右から左へ、街の方から集落の方へと歩いている人の群れが見えた。全員街から来たのだろう。それは、格好からしてこの集落の人間よりも随分と若い人たちのように見えた。


こんな山の中に若者が来るなんて事は非常に珍しいことだ。しかも彼らは見える範囲でも二、三十人という大所帯な上、どうやらここまで歩いて来たようなのだ。街から木帰町までの道のりは、何百年経つかも分からない旧世紀の道路を補修しながら使っているだけあって、決して平坦ではない。また、山を一つ越えるのでその道中は歩くには険しい。動力車があるなら3時間程度で着くのだが、歩いて来るとなると半日どころか1日がかりになってもおかしくはない距離なのである。一体彼らは・・・


「こ、こりゃいかん・・・。」


思わず松森の口からそんな言葉が出た。実はその集団を見た時点で、彼の頭は全てを理解していた。しかし、人間誰しも、見えている現実をそのまますぐ受け入れられるとは限らないものだ。特にさっきまで山下のばぁさんの件で頭がいっぱいだった松森なら尚のことだろう。


街から木帰町まで歩いて100キロ超、しかも大人数でこの集落に人が来るなんてことはまずありえない。少なくとも今見ている光景は、松森がこの集落で数十年生きてきて、一度も見たことのないものだった。そもそも街と山とは道路こそ繋がっていても、仕組み上生活圏は完全に独立している為に交流の必要自体が少ない。たまに年寄りを訪ねて木帰町に若者が来た日には、向こう数週間は集落での話の種になる程なのだ。


外から人が来る、ましてや街から山へわざわざ人が来るというのは大変珍しいことだ。そんな場所へ向かって、目の前を数十人の若者達が歩いてきている。この光景が意味することは、少なくとも松森が知る限りただ一つだった。


汗はいつの間にか引いている。気付けば辺りには、あの香ばしい臭いが立ち込めていた。松森の膝は、合図をしたかのようにガクガクと震え始めるが、これは長い坂道のせいではない。それは目の前の現実を受け入れようとしない身体の、恐怖からくる生理現象であり、必死の拒否反応であった。


道の真ん中で、茫然自失、前後不覚に陥った松森に対し、集落へと向かっていた若者の群れの中から、ゆっくりと何人かが歩み寄ってきた。当然、彼らは松森に道を尋ねに来た訳でも、体調不良を心配して寄ってきた訳でもない。ただ、その生きた人間の匂いに引き寄せられているだけなのだ。


ある小春日和の午後、木帰町始まって以来の悪夢がその幕を開けようとしていた。

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