限界集落・オブ・ザ・デッド【旧版】

ロッキン神経痛

第1話 送り人・恐山の仕事

「山下んとこのばぁさん、ここんとこ全然姿見てないんやわ……。」


年寄り同士でわいわいと盛り上がる大部屋の片隅で細い身体を壁にもたれながら、心配そうな面持ちで、年老いた男が一人つぶやくように言った。


毎月一度、公民館で開かれるささやかな宴会の終盤、時刻はちょうど日付が変わった頃だ。15畳程の大部屋には、足の短い折りたたみテーブルがコの字になるように並べられ、その上に酒のビンやつまみがざっくばらんに広げてある。


「山下のばぁさん……トシ子さんか?」


それに返事を返した男に対してそうそう、と壁にもたれた線の細い男は、その骨と皮ばかりの見た目通り弱々しく不安そうな色を目に浮かべる。


「恐山さん、実はな、近所のもんが窓を叩いとる音も聞いたらしいんだわ。」


「窓を?」


そう尋ねた恐山と呼ばれる男は、話をしっかり聞こうと思ったのか、手に持った缶ビールを飲むのを止めた。


「そう、内側から窓をバンバンって叩く音がな、昼夜関係無しに聞こえるもんやから、どうも留人るじんになっとるんじゃないかって話みたいやわ。」


「一日中ということになると、確かにそうかもしれんな……。」


「わしゃ、それを聞いてもうてから、怖くて怖くてたまらんのじゃ。」


「森田さん、そんな心配せんでええぞ、明日ワシが見てこよう。」


そう言いながら、もうほとんど中身の無い缶ビールを恐山は飲み干す。その森田と呼ばれた細身の老人は、それでも不安の収めどころがないのか、何度も大丈夫かと繰り返した。今にも倒れそうな顔色の森田に、恐山は心配することはないと軽く両肩を叩いて、酒に酔った赤ら顔を破顔させる。綺麗な白髪が、少し血色の良くなった肌を引き立たせていた。その顔には深いしわが刻み込まれているものの、それでいて全く年齢を意識させない底知れぬ力強さと若々しさに溢れているようだった。


とても自分と同じ年齢には見えない筋骨隆々の恐山の姿に、森田は、昔話の鬼の姿を思い出していた。実際に、恐山家の人間には代々長命な者が多いことも、森田の目に恐山を一種人間を越えた存在のように映す要因となっていた。


恐山さんは、この集落で先代から受け継いだ役目を40年果たし続けている。彼に出来ないことが、この小さな集落の中で一体誰に果たせるというのだろうか。と信頼と一種の畏敬にも近い感情で、よろしく頼んますと森田は深く頭を下げた。


しばらくして町会長の松森が、そのでっぷりと太った体をゆらしながら立ち上がった。


「宴もたけなわではございますが」


と宴会の〆に入ろうとする。


「松森さん、もしかしたらもう聞いとるかもしれんけど」


最後に全体の耳に入れておきたいと、森田が町会長にさっきの話を繰り返した。大部屋に集まっている人々のうち、幾人かが少し不安な表情を見せたが、大半の人々の反応はいたって冷静なようだった。


「そうけぇ……トシ子さんがか。」


松森は下を向きながら小さくため息をつく。


「恐山さん、悪いけどまた様子見てきてくれちゃ」


最近トシ子さん元気がなかったもんな、と松森が少し気落ちした口調で言うと、恐山は冗談を交えて気軽にそれに答えた。そうして、少し興を削がれたようにしてその日の宴会は終わった。暗い夜道を街灯を頼りにして、年寄り達が足取りもおぼろげに帰って行く。人口わずか54人。平均年齢69歳。中山間地の限界集落、木帰町きがえりちょうの日常光景だった。




翌日、鳥のさえずりが聞こえ始める前に、恐山は玄関で支度を始めていた。先月手入れをしたばかりだっただけに、準備にもそれほど時間はかからない。腰に道具を巻き付けるホルダーを締め、年季の入ったライフル銃をひょいと担ぐと外へ出た。


ガシャリガシャリ。


鎖がこすれ合うこの音がしているうちは、住人達は外には出たがらない。その音を出しているのが恐山であることを知らない者は居ないし、彼の仕事がこの町にとって必要不可欠であることは十分理解しているのだが、出来ることならその金属音を耳には入れたくないものなのだ。無論、恐山もそれを分かっているからこそ、なるべく早朝に仕事を終わらせることを心がけてはいる。恐山自身も、好き好んでやっているのではない。たまたまそういう家系に産まれただけのことなのだ。



ガシャリガシャリ。


忌み嫌われている重苦しい音を立てながら恐山は歩く。頭のてっぺんからつま先まで、全身をくまなく覆っている鎖帷子くさりかたびらは、この集落の年寄りはもちろんのこと、例え年寄りでなかろうと尋常の者には扱えないような重さの代物だった。それを悠々と身にまとって、彼は早朝の町内をひたすら進んでいく。目的地は無論、昨日様子を見るよう頼まれた山下家である。町とは名ばかりのこの小さな山村を包む空気には今、みんなの不安が充満しているようだった。それをさっさと解消してやる為にも、彼は彼のすべき事をこなそうとしている。もうすぐ夏も近い。雲ひとつない空を見上げて、今日は一段と暑くなりそうだと恐山はひとりごちた。


山のほうへ登る林道沿いに、目的の家は建っていた。年寄りの一人暮らし。旦那はおととしの暮れに亡くなっている。一人息子が居たはずだが、噂では物騒な山からは早々に離れて、街の方で暮らしているらしい。今にも崩れ落ちそうな赤荼けたトタン屋根に、玄関前に並んだ枯れた植物の鉢が小さな家の物寂しさを際立たせる。


旦那が亡くなってからは精神的におかしくなったのか、ゴミをあちこちから拾ってくる収集癖がついたらしく、小さな家に対して無駄に広い庭には、どこから持ってきたのか街のスーパーの買い物かごに壊れたピアノ、はては小学生の乗るような自転車までもが無造作に並べてある。庭でこれなら家の中も同様に散らかっているのだろう。



「山下さーん、おるかー?」



恐山は山下家の玄関前で大声をあげたが、返事はなかった。しかしそれは当然知っているとばかりに、迷いなく引き戸に手をかける。ガラガラと造作もなく開き、物だらけの玄関が目の前に広がる。靴箱の上は、どこから拾ってきたのか大小様々な靴がうずたかく積まれている。赤ちゃんの履くようなスニーカーから、スポーツシューズまで、年寄りが履くものとは思えない。恐らく街のゴミ捨て場で拾うなりしてきたんだろう。この集落にはこんな靴を履く若者はいない。


もう一度家の奥の方へ声をかけてみるが、やはり返事はない。その時、恐山の鼻は古い家の匂いの中に混じった、木の実にも似た独特の香りを一瞬だが捉えた。


この香ばしい香りがする上に、全く返事がないことからして、ほぼ間違いなく山下のばあさんはもうこの世にはいないだろうと確信する。恐山は、ジャラジャラと両腕にまとわりつく鎖の重さを払いのけるような大振りな動きで、肩にかけたライフル銃を両手に構えなおした。軽く息を整えて、どこにいるかも分からぬ者に、今度は話しかけるような音量で尋ねる。



「どこにおるんやー?」



土足のまま廊下に上がる。カツカツ、と厚手の革のブーツの底がフローリングにあたった。開けるぞ、と言いながら、まず玄関脇のトイレのドアを乱暴に開けたが、そこには何もいなかった。



「ここかー?」



もはや独り言のようにつぶやきながら、居間に続いているガラス戸を開けようとしたが、中々開かなかった。ガラス戸の向こうにはビニール袋でまとめたゴミの輪郭がいくつも見える。そのゴミの重さのせいか、なかなか開かないガラス戸を、半ば力任せにこじ開けると、床一面ゴミだらけの居間が目の前に広がった。


玄関から真っ直ぐ突き当たりにあるこの居間は、広さ12畳で台所も兼ねている。町内の人間の家の間取りは、その職務上全て恐山の頭の中に入っていた。しかし所狭しとゴミに埋もれたこの家では、あまりその知識も役には立ちそうにはない。


人の隠れられそうな死角がないか、ゆっくりと辺りを見渡す。するとその時、部屋のどこかで何かがうめくような音がした。いたか、とその方向を向くと声は隣の部屋、半開きになったのドアの向こうから漏れ出ているようだった。そこに山下のばぁさんがいるのだろう。恐山は、出来るだけ丁寧に、半開きになっている扉へ手をかけた。


キィと小さな音をたててドアが内側に開かれる。


自然とライフル銃を握る手に力が入った。


寝室は6畳、ドアから向かって左側に窓がある。頭の中でその間取りを思い出しながら、さすがに緊張した面持ちで恐山はゆっくりと部屋の中に入っていく。ドア正面の壁には大きな洋服ダンスが並び、床には乱雑に洋服が散らかっていた。右の壁には日めくりカレンダーがかかっているが、日付は2週間前のままだ。ドアから見える範囲内に、死角となる箇所がないことを確認すると、恐山はやっと半身を部屋の中に入れた。左の壁に向かってライフル銃を構える。そこには厚手のカーテンがかかった大きな窓がついている。カーテンには、何度となく叩きつけたせいなのか、べったりと茶色い手形が染み付いていた。そして、その窓に寄り添うように並ぶ木製のベッドの上に、山下トシ子は静かに横たわっていた。



肌には血の気がなく、乱れた長い白髪から覗く首筋には、はっきりと死斑が浮き出ている。見開かれたその目は白く濁り、口は重力に逆らえずに開いたままだった。ベッドに横たわり、カーテン越しに漏れる光によってうっすらと輪郭の見えているそれは、誰がどう見ても全身から死の示すあらゆる特徴を現している。


しかし、恐山が銃口を向けながら近寄ると、開いたままだったその口が、何かを訴えるようにゆっくり開閉を繰り返した。そして、弱々しい動きではあるが、その半身をゆっくりと起こし始めた。それは、まるで綿の少ないぬいぐるみのようで、その首から上はぐったりと体の上に乗っているだけのようだった。瞳孔は開き、焦点の合わない濁った目でこちらを見ている。



ヴア、ヴアアアアア……



その肉体に死のあらゆる特徴を表しながら、山下トシ子は恐山に向かって、何かを訴えるように声にならぬ声をあげていた。両の手はこちらに伸ばされ、どうやら恐山に触れたいらしいのだが、下半身がそれについていかないらしい。ベッドの上で、まるで子供が抱っこをせがむ時のようなポーズをしていた。


その体から漂う腐臭の中には、彼ら特有の香ばしい臭いが混じっている。死してなおまだ動くこれを、世間ではもはや人としては扱わない。彼らは食事を必要とせず、排泄もしない。知能はほとんどなく、故人の人格は全く残っていない人間とは全く別の存在だ。たとえその見た目が故人に似ていようとも。


これは、生きとし生けるもののうち唯一人類だけに与えられた死後の罰。魂亡き後もこの世にしがみつこうとする醜い最期の姿。死してなおこの世に留まる抜け殻を、人は留人るじんと呼ぶ。


恐山は、ベッドから半身を起こしながらもこちらへ向かってくる様子がないその弱々しい留人を一瞥し、構えたライフル銃を下に向けた。こちらへ伸ばされた枯れ枝のように細い両手が、何度も恐山に触れようと宙をつかんでいる。実に哀れな存在だと恐山は思った。どんな偉い人間も美しい少女も、死んだ途端にこのような姿に成り下がる。こいつらには食欲と言っていいものは無く、消化能力もとうに失われている。しかし、生きていた頃のなごりか、何十年と繰り返された習慣を再現するように、無闇に人や獣を襲い、その血肉を噛み千切って、ただ咀嚼の真似事をしたがるのだ。


噛まれた人間は、彼らの持つ毒に当てられて数時間もしないうちに死に至る。そして死んだら当然、こいつらの仲間入りを果たして血肉を求める化け物となる。ゆえに人は誰しも、魂と自我を失った後に自らが犯すかもしれない罪を想像して震えながら生きている。もし今夜、自分が突然死をしたら愛する人はどうなってしまうのか。そんな思いから、中には自らの手や足をベッドに括って寝ている者も居ると聞くくらいである。昔、自然の環から外れた行いをした人間に対して、神がこのような醜い罰を下されたのだと伝えられているのだが、人間が犯した罪とは、本当にこのような重すぎる罰を与えられる程のものなのだというのだろうか。神がいるのだとしたら、理不尽にも程があるのではないか。


恐山にとって家族のような人々を、留人とはいえこの手にかける。その度に胸の奥から沸き起こるこのぶつけようのない憤りを、恐山はただ仕事に集中することで忘れるようにしている。彼は腰に巻いた仕事道具をしまった腰のホルダーから、てきぱきと猿ぐつわを取り出した。猿ぐつわといっても恐山の使うそれは、口に当たる部分にずっしりとした樹脂製のはんぺんのようなものが付いたものである。そこに刻まれた無数の歯形が、恐山のこれまで重ねてきた仕事の数を無言であらわしていた。


彼は素早くそれを、かつて山下トシ子だった留人の口にあてがうと、さっきまでの弱々しさがどこへ行ったのかという勢いで彼女は、樹脂製のはんぺんにがっしりと噛みついた。仕組みは知らないがこれには彼等の好む成分が練り込んであるらしい。次に、はんぺんから伸びるゴムバンドを後頭部に回して固定する。これで噛まれる危険性はほとんどなくなった。この道40年のベテランとはいえ、この作業が終わるまでは恐山といえど緊張をせざるをえない。何しろ噛まれたが最後なのだ。


人が留人と化した後、数日すると人体の組成は全く別物になり、その体液は毒となる。毒が人の身体に入ると、それでもうおしまいだ。急激に体温が失われ、思考は不明瞭になり、数時間もすれば心肺は停止して晴れて不老不死の化けものの仲間入りである。当然何十年も前から、都の研究者達がこの猛毒に対する血清を作ろうと努力はしているのだが、とんと上手くいったという話は聞かない。ゆえにこの仕事には、歯や爪を通さない丈夫な被服と、留人共の口を塞ぐ道具が必要不可欠となる。



次に恐山は、ホルダーから先端の鋭利な金属棒が二つ並んだ道具を取り出した。直径は15センチ程で千枚通しを二つ束ねたようなこれは、手に持ちやすいようにグリップがゴム製になっている。彼はこれをハリガネと呼んでいた。大きな窓を覆うカーテンの隙間から漏れる日差しが、二つの金属棒に反射して鈍く光った。彼はどこまでも冷静に、そのハリガネの先端を優しく後頭部にあてがう。頭に触れられると彼女は、グググと低いうなり声をあげ、身体をよじって逃れようとするのだが、恐山のその丸太のように太い左腕がしっかりと頭部をホールドしているので、ついに自由にはならなかった。恐山は、位置を探るような動作をした後、何の前触れもなしに後頭部から頭のてっぺんに向けてズプッっとハリガネを差し込んだ。



一瞬驚愕にも似た表情をした後、留人はその全ての動きを止め、ただの遺体に戻った。手は力なくベッド脇に落ち、猿ぐつわに噛み付いていた口も力なく開く。血と体液が混じった糸が口から垂れた。山下トシ子の肉体は、この時やっと現世から解き放たれたのだ。



役目を終えた恐山は、遺体の乱れた髪を整え、後頭部から流れる血を注意深くふき取り、丁寧に遺体を死者としてのあるべき形に近づけた。換気の為にその大きな窓を開けると、部屋の酷い悪臭を押し流すように、爽やかな風に運ばれて山から木と土が息をする匂いが部屋にぶわっと入ってくる。いつもならこの後、遺体を玄関近くなりに移動させ、後から外に運びやすいようにしておくのだが、これだけ大きな窓ならここから直接運ぶことも出来るだろう。


眠るように死んでいる山下トシ子を少し見つめた後、恐山は分厚いグローブを取り、ホルダーから薄い板状の電話機を取り出す。このスマートフォンと呼ばれる電話機は、都からの支給品であり庶民には決して手に入らない大変な貴重品である。国内ならどこからでも電話をかけることが出来るという、この非常に便利な代物。これを、はたから見れば山の田舎に住む老人に過ぎない恐山が持てるのは、留人を殺すことを生業とする送り人としての特権の一つに他ならなかった。


彼ら送り人は、人々の生活に欠かすことが出来ない存在の為、都からの年金の他、様々な制度で特別に優遇されているのだ。恐山は、おぼつかない手つきでその電話機を触り、町会長の自宅に電話をかけた。彼の仕事は、人ならざる留人を殺し、人間の遺体に戻すところまで。ここから先の諸々の行政手続きや、死者を弔う儀式の類は、木帰町の町会長松森の役目だった。


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