眠り姫とインソムニア

松本昆布

眠り姫とインソムニア

 古い、小さな小屋の中央、敷かれた厚い毛布。僕がその隣に座ってから半日ほども経って、その女の子はやっと目を覚ました。

 やっと、という表現は不適かもしれない。彼女の眠っていた時間を考えたら、半日なんて長さは切れ端のようなものだ。


「……おはよう」


 僕はとりあえず、そう声を掛けた。ゆっくりと開かれた水色の瞳で、彼女は僕をじっと見据えている。


「どれくらい眠っていたか、分かるかい?」

「分からないわ」


 僕は彼女に一つ問い掛けた。反応は想像したとおりだ。

 一年間。一年間、君は眠り続けていたんだ――そう僕が教えると、しかし今度は思ったよりも反応が薄かった。もしかしたら彼女自身、眠りながら、具体的にどれくらいとは分からずとも、その期間が尋常でなく長いことくらいは感じ取っていたのかもしれない。


「私はなんで、そんなに眠ってたんだろう。それに、今もすごく眠たいの」


 彼女がそう呟いたのを聞いて、僕は言いようもない感情ばかりに呑み込まれた。予想はしていた。していたけれど、肺に何かが詰まるような、内からせり上がって喉を溶かすような、この未知の感情を、僕はどうにか押し潰さねばならなかった。


「また眠ってもいいかしら」

「ちょっと待って」


 ようやく落ち着けたところで、彼女は再び眠りにつこうとしていた。気が早い。


「そう言えば、お兄さんは誰?」


 前のことを覚えていないなら、当然の疑問だ。僕は素直に、自分の本名を告げた。きれいな名前ね、と柔らかく言った後で、彼女は少しだけはにかんだ。


「僕は、君にお願いがあってここに来たんだ」

「お願い?」


 怪訝そうな、眠たそうな顔で首を傾げた彼女に、僕は告げる。


「少しでもいい。君が眠っている間に見た『夢』の内容を、僕に教えてほしい」


 いくら寝そうだったからと言っても、いささか唐突だったかもしれないと、僕は反省した。彼女は目をぱちくりさせて、銀の髪を小さく揺らしている。


「僕はね、君がずっと眠っていたのと同じように、ずっと起きたままでいるんだ」

「起きたままで?」


 僕としては事実を告げているだけなのだけど、彼女の困惑は一層増したようで、微かに唸るような声も聞こえた。


「夜も眠らず、昼寝もせず、いつだって目が覚めたままでいる。眠くならないんだ」

「死なないの?」

「死んでないね。なんでか分からないけど」


 僕自身も、何故今生きていられるのかは分からない。でもそれを言ったら、彼女だって人間の生活なんかとはかけ離れている。いずれにせよ、このあたりのことについて考えても、筋の通った解説が見つかるとは思えなかった。


「そんな眠らない生活をずっと送ってるせいで、夢というのを久しく見てないんだ。だから、君に会って、話を聞いてみたかったんだ」


 彼女はしばらく混乱を隠さず、けれどやがて表情を崩した。


「いいわ。覚えてる限り、眠気に耐えられる限り、話してあげる」


 それを聞いて、僕は彼女に微笑み返してみせる。半分は本当の、半分は作った笑顔だ。


「まず最初は、真っ赤なバラの畑の中にいてね……」


 目を瞑り、残された薄い記憶を拾い集めるように、彼女は語り出した。


 僕が彼女から話を聞くのは、二回目だ。

 僕は昨年の同じ日にも、こんな風に彼女と話をした。


 *


 僕が睡眠というものを経験しなくなったのは、彼女と同じくらい、三年前からのことだ。原因は自分の中で分かっているのだけれど、それはどうにか解消できるようなものでもなかった。

 ひたすら時間を持て余した僕は、漫然と日々を過ごしていた。けれど一年半ほど前のある日、彼女の話を聞いた。

 ある事件に巻き込まれて以来、その女の子はひたすら眠っている。しかしおおよそ一年に一度、まるで見計らったかのように、僅かな時間だけ目を覚ますのだという。その子の話を聞いた僕は、強い好奇心を抱いてその子について調べた。そして、ある事実に気付いた。重大で、どうしようもない事実に。

 それから僕は、その子の傍にいたいと思うようになった。

 罪悪感だとか、違和感だとか、そんなものを引き連れて。



* *



 私は夢を見ているのだと、確かに分かった。昔見た、起きたらすぐ消えちゃうような、そんな夢とは全然違った。感覚がしっかりとあって、私の周りには幸せな空気があった。太陽より暖かくて、綿よりも柔らかい、そんな世界に私はいる。

 光るもやの中に、私は一つの人影を見つけた。それは、私のよく知っている人にそっくりだった。背が高くて、ちょっとお腹が出てて。いつも照れくさそうに、頭を掻いてて。

 お母さんのいない私のそばにずっといてくれた、お父さんの影だ。


* *


 二回目の会話の後も僕は、何年も彼女のもとへ通った。時に働いたり、時に旅に出たり、そんなことを繰り返しながらも、丁度彼女が目覚める頃にはその小屋に帰ってきた。

 そして何度目かの目覚めで、変化があった。


「お久しぶりね、お兄さん」


 彼女は僕を認知するようになっていた。

 これはどうしたことだろうと、僕は考える。僕はこれまで、彼女から何度も話を聞いた。そして時間があるときには、お返しとして、僕が知っていることを話すようにしていた。けれどこれまでは、目覚めるたびに、その話した内容を綺麗に忘れ去っていたのだ。五年前にした趣味の絵の話も、三年前の流行歌の話も、数学のトピックも、僕の事も、全部。


「どうしたの?」


 昔やったように首を傾げる彼女は、それでもその瞳に、少しだけ昔と違う色を湛えているように思われた。そして僕は、一つの答えに辿り着いた。

 きっと彼女は、まだ抜け出せないままでいるけれど――少しずつ、少しずつ戻りつつあるのだ。ずっと眠りの世界に籠って、現実なんてものを未知のものにして生きてきた彼女は、ほんの少しずつながら、夢から抜け出そうとしている。

 それを僕は、どう扱うべきなのだろう。

 僕は、この事実を、歓迎すべきなのか?


「いや、なんでもないよ」


 一旦、僕はその表情を取り繕った。そうすると彼女は小さく笑って、またお話をしましょうよ、と僕に急かす。彼女が見てきた非現実の話と、僕が見ている現実の話だ。


 いくらか話して、彼女はまた目をこすり始めた。彼女の眠気が再び舞い戻ってきたサインであり、一昨年あたりからは、それが僕らの話を終わらせる合図でもあった。


「ねえ、最後に聞きたいことがあるの」


 彼女は弱弱しい声で、そう言い出した。僕が何だろうと聞き返すと、彼女は続けた。


「私のお父さんのこと、あなたは知ってる?」


 衝撃、というには大袈裟だろうか。僕は、僕の顔が化けていくのを、動揺を彼女に表現してしまうことを、昔彼女に会った時と同じように、ひたすら抑えていた。

 一つだけ言えることがある。

 僕は、このことを聞かれたくなかった。

 いや、僕は、このことから逃げたかった。


「次に会うとき、教えてくれたら、嬉しいな……」


 そんな言葉と共に身を沈めていく彼女を、僕はただ、何一つできないままで見つめていた。



* *



 私はいつだって、お父さんに守られていた。

 ひょうきんで、いつも下らない冗談に笑ってくれるあの人のことを、私はいつも追いかけていた。

 お父さんの仕事を私はよく知らなかった。ときたま家を出て、しばらく経つと、生活するに十分なお金を持って帰ってくる。どんなことをしているのかは分からなくても、その帰ったときの疲れた顔だけで、相当に大変なのは分かっていた。一度ある仕事を首になって、それからようやく見つけられた仕事だったので、慣れていないというのも少なからずあったと思う。

 そんなお父さんのことが私は心配だったけれど、私のためなら辛くないよと言ってくれるお父さんは、いつだって頼もしかった。


 だから私は、この夢の中でもお父さんに会いたかった。

 もやの中にいるその人影を、何度も追いかけた。

 何度目かの挑戦で――やっと、その手を掴めた気がした。



* *



 僕は次に彼女と出会うとき、どんな顔をすればいいんだろう。

 僕はそもそもなんで、彼女と一緒にいようと思ったんだろう。

 こういうことになるのは、想像できたはずなのに。僕はそういう事態になっても無事でいられるほど、強い人間じゃないって、分かっていたはずなのに。

 彼女の傷はきっと癒えつつある。彼女自身で、それを乗り越えられるくらいに。押し隠してた真実を、苦痛に耐えながら、見つめられるくらいに。僕を、認識できるくらいに。

 僕はこの記憶をどうしよう。彼女を眠らせてしまった、僕自身を眠らぬ男に変えてしまった、僕らの時計を壊してしまった、この記憶を。


 僕はあの日、一人の少女の眼前で、その父親を殺した。


 *


 その日の僕は、隣村の商店まで農具を買いに行っていた。僕の出身の村は小さくて、ろくな店も無い。対してその店はいつも品揃えが良くて、僕は行くたびに長居をしてしまう癖があった。

 いつものように長時間居座り、目当てのものを買った後で、外はすっかり暗くなっていた。けれど僕は近道をしようと、一層暗い道へと進んだ。五分も歩いて、僕の家が近づいてきたところで、事は起こってしまった。

 暗闇の中でさえ、ナイフの身はギラリと光ったように見えた。茂みから飛び出したそれを、どうにかかわして、咄嗟に飛び退くと、一人の男が悔しそうに声を上げているのが聞こえた。強盗、なんて言葉が脳を突く。逃げようにも、この暗い中で走ろうものなら転んでしまうだろうと、僕は足を動かすことができなかった。

 男は地を蹴って、僕にナイフの先を迫らせる。話し合い、なんて選択肢は見えない。僕がそこで出した判断は、反撃なんていう、普段なら取れそうもない行動だった。

 手元の荷物から、新品の鎌を取り出す。すぐ目の前まで来ていた刃を、僕はすんでのところで避けた。そして俊敏ながら不安定だった男の足取りは、一気に平衡を崩し、その身体は傾き始めた。

 僕はこの時、男を傷つけようとした。傷をつけるだけだった。

 傷をつけて、恐れを成して、男が退散してくれれば。それくらいのことしか、考えていなかったのだ。

 だから、何故か分からなかった。

 そんな思いの下で振り下ろされた鎌が、思いがけず体勢を持ち直した男の首筋に――僕が狙ってなどいなかったところへ、真っ直ぐに入ってしまったとき、何が起こったのか、理解できなかった。

 理解していなかった。

 僕がその瞬間、どうしようもない業を背負ってしまったこと。

 そして、その傍ら、灯りを手にぶら下げた無垢な少女が、自らの父が残酷に断たれる様を、正確に捉えてしまったこと。

 その少女を、その一瞬が、壊してしまったこと。


 *


 あのときの感触を確かめて――そしてそこで見た二つの顔を思い返してから、僕は眠れない男になった。布団に潜っても、夜を何度明かしても、頭が常に醒めていた。世の中、殺人犯なんてものは定期的に出てくる。彼らが眠れるのと僕がこうなったのと、何が違うのだろうと、何度も考えた。僕の心が弱いから。僕には人を殺す気持ちなんて無かったから。結局、正答らしきものを積み重ねて、正答は生み出せなかった。

 だから、その女の子を――あの日、道の奥で灯りを取り落とした子の話を聞いたとき、僕はどうしようもなく気になった。どうしたらいいのかは分からないけれど、とにかく何かを話してみたかった。

 あの日から家にも帰らず、ただフラフラとあちこちを歩いていた僕は、彼女の居場所を探して訪れた。僕のことを覚えていたら、僕は何をされてもおかしくないなんて思いながら、僕は彼女に話しかけた。彼女のためになることができないか、なんてことも、胸の内に留めながら。


 もう時間は無い、なんて直感があった。きっとこの子は、一年が経つ前にもう一度目を覚ますだろう。

 そのとき、この子がどんなことをするか、僕には分からない。

 僕はそのとき、どうすべきか――僕には分からない。



 * *



 ずっと見えていた影。

 その手を掴んだ瞬間に、私は、それを思い出してしまった。


 仕事のたびに疲れてしまうお父さんを、出迎えてあげたかった。

 家で待ってる方が安全だって分かってはいるけど、疲れ切ったお父さんを家で迎えるよりも、一緒に帰り道を歩きたかった。

 だから私はその日、大きな灯りを手に持って、夜に家を飛び出したのだ。

 お月様は優雅で、風はひんやりとしてて、空気がきれいだった。そんな中を、私はぺたりぺたりと歩んでいた。お父さんがどこで働いているのかは知らなかったけど、私たちの家から大きな村へ行くときに使う道があったから、そこを通ればお父さんに会えるかもしれない、なんて考えた。

 そうして私は進む。灯りが無ければ転んでしまいそうな、でこぼこした道を。鼻歌を鳴らしながら、楽しそうに。

 そして私は、その場に至った。


 お父さんはナイフを手に持っていた。家で一度だけ、見つけたことがあった。料理にも使わないような、鋭い刃が怖かった。

 それを振り回した先に、もう一人男の人がいる。男の人は、ナイフをなんとか避けた。右手に、何かを持っていた。

 その何かが、あっという間に走った。

 その後、お父さんは動かなくなった。


 私は全て理解した。

 お父さんのお金の稼ぎ方。

 お父さんの「辛い仕事」の中身。

 その果てに、起きたこと。

 私が、言いようのない何かを、背負ってしまったこと。


 その直後、私は、全部をなくしていた。


 その日見たもの、起きたこと、全てを忘れて、どこかに籠ってしまおうなんて。蓋をして、思い出しそうになったらまた消して、一生を現実から逃れて過ごしてしまおうなんて。

 そんな風に、私は眠った。


 *


 もう都合の良い夢は消え失せていた。私はこれからどうしようかと、暗闇の中で自分に問い掛けてみた。

 あのお兄さんの顔が、ぼんやりと浮かび上がった。あの人が何を思っているのか、私に言い当てることはできないけれど、なんで私のところにあの人が来てくれたのか、それだけは何となく、分かったような気がした。

 私は、どんな風にあの人と話そう。

 どんな風に、思えばいいだろう。

 どうすればいいだろう。


 考えたいのだけれど、私にもう時間は無かった。

 この夢の世界は、私がこれ以上居座ることを許さなかった。

 いや、私自身が許していない、という方が正しいのか。

 私は一度だけ辺りを見回した。幼かった私を、抱えていた空間。私は二度と、ここに戻れない。

 世界が、開いた。



 * * *



 私の眼前で、お兄さんはうずくまっていた。

 きっと、まだ一年も経っていない。なのに、そこにいた。


「……起きた……のか……」


 お兄さんは、驚いた様子もなく言った。私は、眠る前にこのお兄さんに言ったことを覚えている。でもそれだけだ。

 私は、この人の感情を知らない。


「……おはよう」


 だから私は、


「私、思い出したの。色んなことを」


 私の伝えたいことを、まず伝えよう。



「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」



 一つ目を伝えた後で、私は息を吸った。



「ごめんなさい」



 お兄さんは、表情さえ動かせないままで、しばらく固まっていた。何秒も、何十秒も経って、口が少しずつ動いた。


「……なんで……君が……そんなこと……」


 言葉が、紡がれる。


「僕は……!」


 顔を手で覆って、声をかき消して。何も見せないように、隠して。

 けれど私には、見えた。この人が、泣いているところが。


 泣き疲れた子供は、大抵が眠ってしまう。

 お兄さんは今、そんな子供と同じように、眠っていた。


 どれくらい眠るのか、どうして眠れたのかは分からない。本当に、分からないことばかりだ。

 少し経ったら、何事も無かったかのように目覚めるかもしれない。明日、のんびりと起き出すかもしれない。あるいは、長かった不眠の期間を埋めるみたいに、私みたいに、眠り続けるのかもしれない。

 ただ、いずれにせよ、私はこの場に――この人の隣に、まだいようと思った。

 自分のことだって、相手のことだって、ろくにまだ知れていないし、知れるかも不明瞭だけれど。

 私たちには話したいことが、話さねばならないことが、まだいくつもあるはずだ。


 私は慎重に身体を動かす。腕も脚も、前より痩せこけてしまったけれど、眠っていた月日を考えればむしろ動かせるだけでも奇跡だ。

 まず何をしようか、なんて考えることは無かった。まず、太陽の光を浴びてみたいと思った。夢の中の、あの架空の暖かさを、塗り替えるために。あの日の綺麗だった闇を、払うために。

 私は、小屋の戸を開く。

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