第10話 復興

 しばらくして、「止めないでね。もうこのままじゃ、何にもできないまま帰っちゃうことになるもの。そんなの、嫌」

 サキは言い終えてから勢いよく立ち上がった。

「前々からやりたかったこと。ちゃんと見ててね」

「えっ……」

 私はサキが躊躇なく海へと入っていくのを見て、呆然とした。

「は?」

 いつか、大声でこんなことを叫んだ気がした。サキのジーンズが、濃い藍色になっていく。白いシャツは灰色に染まっていく。下半身がみるみるうちに海に吸い込まれていく。


 サキの肩まで水が浸かったとき、ようやく気を取り直して、私もサキを追った。靴を脱ぐと、足の裏が痛くてとても歩けなかったので、カカトだけでなんとか前に進んだ。


 波でうまく歩けない。スカートを脱ごうとしたけれど、脱いだ方がいいかなと思った時には私は海水の中にいた。足の裏はまだ痛い。海中にもゴミや尖った石が沈んでいるようだ。首元まで、不透明な、赤い海が迫っていた。錆びた鉄を溶かしたような汚れに、私の口元は強く結ばれた。飲み込みたくない濁った水が、自分の毛穴から体に染みこんでいくのが嫌で、皮膚呼吸したくなかった。足を踏ん張らせて戻ろうとしたが、できなかった。


 このままじゃ一生あの立体駐輪場にいたままだ。いつかサキがいなくなって、私が路上でポエムを書いている。きっとそうだ。海の写真を撮って、「ふと、海に来ました。波の音は今の私にはとても悲しく聞こえます」とか文章をつけて、ネットにあげていた頃の自分が、またよみがえるかもしれなかった。それか、サキと一緒にいて、そのうちポエムやってみる? とか誘われて、「お母さん、ありがとう」とか書きそうで、怖かった。


 波。人の波。海の波。感情の波。おぼれないように、深さに注意した。けれど、サキは少し先にいて、追いつけない。不意に、大きな波が来た。顔のあたりまでせり上がった水に押し流されて、お尻と頭が逆になった。力を抜いて、体が浮き上がるのを待つ。水面がどこかわかり、立て直す。もう一度、サキの姿を追う。歩きだそうとした時、まったく足が届かないことに気がついた。私は自分の命のことを考えていなかった。かといって、サキを救おうという気もなかった。

 私は頭の中で言葉を紡いだ。

 ……私も海に入りたい。サキだけ何か分かって、私だけいつまでも何も分からないままは、嫌……たぶん、私は、あの大津波の時、ものすごく悲しかったけれど、きっとどこかに、みんながぐちゃぐちゃになって、ぜんぶ流されて、ぜんぶ失われて、何かが変わったんだって高揚したものがあった、すっきりしたものがあった。たくさんの人が死んで、理不尽に、犠牲になったんだ。これで努力することができる。これでもっと頑張れる。たいへんなことになったと思って、心臓がばくばくして、元気になれる。興奮して、情報発信して、人を救う人間になれるチャンスができたって思いながら、私は死んだ人がどうかそれに気付いて怒り出さないようにと、募金したり、復興支援ソングのDVDを買った。


 自分が泳げないことを、意識していなかった。頭の中にあったのは、あの時、テレビ画面に見入っていた私自身の心境だった。家も学校も忘れて、変にどきどきしていた。それは誰にも言えない、犠牲によって得た、解き放たれたような感覚だった。誰かの家族と故郷が失われる。無傷の自分がいる。立っても座ってもいられない。希望を持ち、絶望してはならない世界が、妙に眩しかった。


 鼻と口に海水が入って、私は体力のほとんどを使い切るくらい、むせて咳き込んだ。体と頭が混乱した。今自分がどんな体勢なのかも分からなくなった。

 そうだ、みんな、苦しかったんだろうなぁ。死ぬことがほとんど確実になって、実際に死ぬまでの数十秒。一瞬正気になって、やりたかったこと、残してきたものを思い出しながら、藻掻ききって、悔しくて泣きながら死んでいったんだ……。せめて、どうか一秒でもはやく、楽に……楽に……死んでいますように……。絶対に死ぬのだから、フッと息を吐くように、眠っていますように……。

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