第6話 一期一会
しばらく経って、中筆を手に取り、一度水に濡らして、置いたタオルで拭い、墨を根元まで全部染みこませた。それから一気に書いていく。
『一期一会』
アートとして書かず、普通の書だった。素人目にも巧くて、悔しかった。なんでこんなに上手に書けるのに、つまらないことをしているのだろう。誰かに対して気の利いたメッセージを書こうとしてるのだろう。その後、小筆で『はじめましてとさよならはどちらもはじまりのことば』と書いて、落款を押した。あっという間に新作が三、四枚、通りに向けて立てられた。時々サラリーマンが何人か足を少し止めていた。
お客さんが来ない時間にひたすらサキは携帯画面と向き合っていた。自分のブログを更新しているのだ。少しでも時間を見つけては、ネットに情報発信していた。知名度やアクセスを稼ぐのだ。まるで中学校の頃の私だった。授業中も休み時間も、頭が痛くても目がかすんでも、誰かが私を見てくれていることを求めていた。今日あった良いこと嫌なこと、今日読んだマンガの話、何となく思わせぶりに撮った青空の写真。でも、サキは私のようでいて、そうでない強さがあった。内容はいつも似通っていたけれど。
『サキちゃんはどうしてそこまで一所懸命みんなのために頑張れるのってよく言われます。どうして私の欲しかった言葉がわかるのって。凄すぎて私、サキちゃんが遠くに行ってしまいそうで嫌だよ。そんな風に言われること、多々あります。へっぽこ詩人だけど、プロとして詩をやらせていただいている身としては、当然だけど、本当にありがたい言葉。これだけは確か。
私は、あなたを、愛してる。
だから遠くには行かない。ずっと側にいる。頑張れるのは、私の詩を喜んでくれる人がいるから。みんなのことが好きだから。頑張れるのは、私のことを必要としてくれる人がいるから。
すべてに、ありがとう』
サキは携帯画面を凝視し、凄い早さでボタンを操作し、自分のブログを更新し終えた。ほとんど毎日、サキは自分のことを書き続けていた。墨をする時とは違う、彼女の薄ら笑いの横顔を、私はじっと見つめていた。
『朝はいつも通り英字新聞を読みながら、京橋で知る人ぞ知る隠れ家喫茶でブルーマウンテンモーニング(笑)。マスターのチョイスするジャズは、私の今日の表情にあわせてくれるんだって。場所は教えられません。マスターと二人きりの朝が大切な時もあるからです。たまに常連さんと三人で英語で話したりします。さすがに常連さんは上場企業の重役だけあって上手なのですが、会話の内容が世界情勢からお味噌汁の具材まで幅広いです(笑)。たまには個人的な時間ももうちょっと欲しくなる今日この頃です。さぁ、今から私はみんなの私になってきます!』
サキとはずっと喋っているわけじゃない。すぐ隣でサキの更新したばかりのブログを閲覧したりする。読み終わって隣を見ると、サキも自分の書いた文章を読んでいて、どうやら何度も書き直しているようだった。
仲間が増えて、広がる表現の輪の中で、自分は何ができるか、悶々とした時、お客さんからいただいた感謝の言葉の数々を思いだし、「私にはみんながいる、みんなが私のことを見ているから頑張らなきゃ」と自分を奮い立たせたこと。彼女は一日も欠かさずそんな同じような内容の日記を、呪文のように繰り返し書いていた。
サキと過ごす時間が増えるにつれて、仕事とアーティスト活動の多忙で充実した彼女の日々に、私は焦りを感じた。サキに対して皮肉ばかりが思い浮かんだ。
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