第4話 詩人

 私は振り向きもせずに階段を上がった。一段一段をぎしぎしと踏みしめて上がった。上がりきるまでのこの時間が好きだった。こんな風に京橋の往来の向こう側に渡りきることが出来たらなとも思えた。あがりきって、自室のドアの前に経つと、ドアノブに黒くて大きな買い物袋がぶら下がっていた。うまく屈めば私の体が袋の中にすっぽり入れそうだった。

 高校生じゃ買えないブランドもので、持つとずっしり重かった。服が詰まっていたが、開封せずに、部屋の隅に放り投げておいた。母が言ったとおり、勉強机の前にある壁に飾られていた絵が変わっていた。毎回抽象画で、同じようなものしかなかった。強い赤や黒の色が、パステルカラーに変わったくらいで、何を意味しているのか考えたくもなかった。絵を外しておいても、学校から帰ったら元通りに直されていた。

 小さい頃は、バレエやピアノを無理矢理習わされていたが、ピアニストやバレエダンサーにはなれなかったから、今度は画家になって欲しいのだろうか。私の、汚いものをあえて見るのは、ネット依存で目をカメラのようにして人と繋がるためのネタ探しをしていたせいではなくて、もしかしたら母の飾る美術作品を嫌ってあらがっているせいかもしれなかった。母のものに囲まれていて、私はそれが息苦しかった。いつも最後には私の方が折れてしまった。「もう好きにしたら」と言ったのは私のほうだった。「好きにしたら、あなたの人生だし」とは母の普段よく言うセリフだったが、いつの間にか私から母に言うセリフになるのだった。


 私は家での日々を思い出していらいらして髪を掻きむしった。自分が雑踏にまで逃れてきたのに、まだ家にとらわれている気分だった。

 眼鏡を外してレンズについたフケをフッと吹いた。もっと細かいフケと埃が、レンズにうっすらと白い膜を張っていた。シャツで拭ってかけ直した。肩についたものも払って、腕を組んだ。

 時間を潰して家に帰る前にまず問題なのは、この人通りをうまく避けて渡りきれるかどうかだ。立ったまま、死んでいるみたいになった。近くのドラッグストアの店員が看板を掲げてセール中であることをひたすら大声で宣伝し続けている。


 もうすぐ夕方だった。大阪城の方まで歩いて行って、夕陽を眺めようかとふと思った。が、座っている方が、この街に馴染んで、居場所を確保できているように思えた。


「難しそうな顔しているね。そんなんじゃせっかくの美人が台無しだぞ」

「えっ」

 どこから聞こえてきたのか、わからなかった。私は辺りを見回した。左右の改札から絶え間なく流れでてくる人の波。小石のように波に動かされて声をかけるナンパや客引きや居酒屋店員。端っこのほうで、音楽機材を積み上げて路上ライブを始める専門学校生。

「ねぇ」ともう一度聞こえた。すぐ隣だった。


 広げた青いシートの上に女があぐらをかいていた。筆は動かし続けたままだった。路上詩人というやつだろうか。言葉をしたためたサイン色紙や短冊を詩人は丁寧に並べていた。暇そうなお爺さんが色紙の前の値札を覗いては何も言わずに立ち去った。ファンと思われる女の人が来て、色紙を買っていった。女と同じ三十路くらいのOLだった。

 女は「ねぇ、きっとそうでしょ」と言って筆を止めた。肩のあたりまで伸びた髪を払った。まぶしいくらいの白いシャツを着ていた。おもむろに立ち上がると私より頭一つ分くらい背が高かった。

「高校生……だよね、多分。制服ちっちゃいなー」と、女は苦笑した。

 私は頷いた。

「はい、これ」

 と、女から唐突に色紙を数枚手渡された。私は戸惑いながらも渡された順から目を通した。

『歩くことも、走ることもできなくなったら、スキップして一歩踏み出そう。それが自分の求めていた本当の道になる』

『好きな人に、愛してるって言う。愛する人に、好きだよって言う。そんなずる賢さもたまには必要』

『想い人と手をつなげば、心と、体と、温度と、過去と、未来と、宇宙と、生命と、全部が掌に宿るんだ』

『高校生! 親孝行せい!』

『私は私でよかったんだって、私の中の誰かが言った。だから、私は私でよかったと、私は言えた』

 文章が頭に入らなかったので、私は声を出して読んだ。

「あとこれも」

 鞄から女はもう一枚色紙を取り出した。

『いつだって全力疾走、休むときは全力失踪』

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