第3話 大人のずる賢さ

 私は、両親の心配そうな言葉遣いや哀れんだ目を思い出して、地面に唾を吐きそうになった。高校生になったのに、体が小学生くらいに幼い。身長も伸びず、体重も増えない。何より私は、自分が女だという意識が、生理があってもほとんどない。いや、まったくない。

「女の子なんだから彼氏とかはどうなの」

 そんな質問をされた途端、胃の底がじわーっとうずいて、口の中が酸に近い唾でいっぱいになる。いつまでも姿形が変わらない子どもに、私の親は大人の女の体になることと、女としての心を持つことを要求する。震災で日本がダメになる。少子化も問題。だから、たくさん子どもを産みなさいよ、と、言われているような気がする。気がするだけで、そこまでストレートには言ってないのかもしれない。でも、ネットしたりテレビ見たりして普段通り過ごしていても、親の言葉を思い出してしまう。


 大人のずる賢さは、建前と本音があまりにバレバレなことだ。子どもからは文句も何も言えない。父に「たくさん産まなあかんなぁ、はっはっは」と言われる。だが、私のこの体に赤ん坊を授かれるスペースがどこにあるんだ?

「震災でこれだけの人が亡くなったんだから、一子いちこが産む子はその生まれ変わりだね」

「海に流れた死体を食べて、魚がたくさん獲れるだろなぁ」

「これ、東北で採れた食べ物かな。食べたら癌になるなぁ」

「天罰だろなぁ。でも、一子はしっかりしてないから、東北行って、ボランティアでもしなさいな。良い経験になるよ」

 すべて携帯のメモに残している。汚いものを見てしまう緊張のままに私は親の言葉を記録していた。すでにそんな言葉はネット上にいくらでもあったから、公開はしなかった。


 朝、いつも私は遅刻ぎりぎりなのに、ゆっくりと起き上がり、母に話しかけられないように気配を消して、「しんどい」「だるい」と体調不良を独り言する。目を開けたままパジャマがびしょ濡れになるくらい思いっきり顔を洗う。寝癖はそのまま。ご飯を食べずに出ようとすると、体が大きくならない、牛乳を飲め、そうでないと体がいつまでもそのままだと母から言われるが、無視をする。一時限目から昼休みまでずっと机でうつぶせて寝る。夜、帰ってきて、タコ焼きでふくれたお腹のまま、一応母と食卓で向き合う。「めばえ」とかいうタイトルの番組がつけっぱなしのテレビから流れ始める時、私の食事の速度がいつも上がる。生まれたばかりの赤ちゃんが紹介される二、三分のコーナーだ。「あなたにもあんな時があったのよ。懐かしいわぁ」と何百回も聞いた母のセリフ。すっかり大きくなって……何年かしたら私もおばあちゃん。


 いつも思うが、母は器用に箸を動かす人だった。姿勢も良い。公務員の父と見合い結婚だったという。気の強そうな顔で、面長なところとかはまったく私と似ていなかった。PTAの会長もしていた。父は母にいつも圧倒されていて、仕事を終えて帰ってきて、母のヨガやギャラリー経営の話を、疲れているのにふんふんと聞いて、寝る。急にふらっと夫婦で旅行に行く。羽のない鳥みたいに二人とも痩せていて、太りにくい体質は私にしっかり遺伝していた。私はただ黙って一人娘の将来を案ずる親の言葉をやり過ごす。「彼氏はできたのか」「男の子には興味がないのか」食べることにも、恋をすることにも興味がなくて、悪いのか。寝るばかりでダメなのか。携帯電話の相手に忙しくて、不眠症になっている友達もいるし、眠れるだけマシだしとても良いことじゃないのか。


 一階のリビングも、二階の私の部屋も、母の領域だった。一階は母の好きな現代アートの絵や展覧会のポスターが貼られていた。木目の綺麗な丸いテーブルを囲んで、二人で大きな液晶テレビを眺める。ある日、晩ご飯の手巻き寿司を二本食べてお腹がいっぱいになった。タコ焼きを食べて帰っていたからだ。タコ焼きはさっさと満腹になるための反抗だった。私ができるだけスムーズに自分の部屋へ帰れるための秘密のアイテムだった。階段を上がろうとする前、「一子ちゃん」と母に呼び止められた。「服、買っておいたから。一子ちゃん、あの服、もう高校一年の頃からずっと着ているでしょ。あ、あと、部屋も掃除のついでにちょっと絵とか変えといたから感想聞かせてね」

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