第2話
〈2〉
「おまえの名前は?俺の名前は神原翔。翔でいいぜ」
院内の廊下を二人と一緒に歩きながら少年、翔は馴れ馴れしく僕に聞いてきた。廊下も例によって真っ白だ。汚れ一つない。
「僕の名前は一木拓斗」
何も分からない状況は続くけど、とりあえず自己紹介をしないことには何も始まらない。
「拓斗っていうのね。私は藤堂眞子っていいます。眞子って呼んでね」
そう、僕の名前は一木拓斗。確かにそうなのだが、何故だかそれ以外の事は一切と思いだせない。自分がどこで生まれどこで育ったのか、両親のこと、友達のこと、何もかもが思い出せない。
「なぁ、おまえもやっぱり記憶がないの?」
出しぬけに翔に声をかけられ僕は驚いて彼を見る。だって今まさにその事を考えていたから。何故その事が分かったのか、それにおまえも、とは一体どういう事なのか。
「そのリアクションってことはやっぱそうなんだな」
「もしかして君たちも…?」
「そう、私達もよ」
そう眞子があっけらかんと言ったことにさらに驚いた。この二人は僕の立場をどう思っているのか、僕は右も左もわからない状況でどれだけ不安なのか分かっているのか?そんな気持ちが僕の中で爆発した。
「ねぇ、いい加減ここがどこなのか教えてくれない?目覚めたらそこが全く知らない場所で、与えられた物にしかしすがることのできない僕の気持ちは君たちには分からないのか?同じ様な境遇だったんじゃないのか!?」
ずっと言う機会がなかった想いを一気に吐き出した僕。自分の口から勢いよく放たれたたその言葉たちは廊下に一瞬響いてすぐに消えていった。
そんな僕の様子を見た二人は顔を見合わせると頷き合い、表情に緊張感を漂わせる。
「少し場所を移そう。そこでゆっくりと話すよ」
翔は僕に告げると「ついてきな」と一言告げて前方を歩きだした。僕は黙ってその後に続いた。
翔に連れられて長い廊下を歩いて行くと、やがて開けた場所に出た。
その空間は天上がドーム状になっているホールのようになっており、真っ白で一切飾り気の無いテーブルやイスがいくつも置かれていた。壁面の大きなガラス窓からはたくさんの陽光が取り込めるようになっていて、その向こうには病室から見た緑色の芝生が当たり一面に広がっている。眞子によるとここは食堂だが、今は食事の時間では無いので誰もいないとのことだった。
「さあ、座りな」翔はイスを引いて座りながら僕に言う。僕は「うん」と答え、三人で丸テーブルを囲むように座った。
「さっきは悪かったな。俺たちももっと気をつかうべきだった」
翔は軽く僕に頭を下げた。
「いや、いいんだ」
僕は翔の事をただの調子のいいやつなのかと思っていたけど、そうじゃなかったようだ。
「どこから話そうか…」
翔は腕を組んでうーん、と少しの間うなっていたが、突然「よしっ」と言って改めて僕に向き直った。
「単刀直入に言う、俺たちは病気なん…」
「馬鹿にしてるの?」
僕は思わず、食い気味で翔が言い切る前に突っ込んでしまった。
「そんなこと分かり切ってるだろ。だって今病院にいるんだから」
「いや、ちょっとしたジョークだよ。さっきまで暗い雰囲気だったからさあ」
翔はペロッと舌を出して、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「何の為に悩んでたのよ。拓斗が聞きたいのは私たちが何の病気かってことでしょ」
眞子も呆れたように翔を責めた。
「わりぃ、わりぃ、今度はちゃんと話すからよ」
もし翔が本気で言っていたなら完全に僕はずっこけていただろう。
「よし、じゃあ俺たちの病気なんだけどな…」
やっと謎が解ける。そう思うと自然と僕は唾を飲み込み、喉を大きく鳴らしていた。
「実はおれたちもよく分かってないんだな、これが。はははっ」
どてん。今度こそ僕はずっこけた。やかましい音が天上に反響してぼやける。後ろ向きに転がってイナバウアーをしかけたじゃないか。
「どういうこと?」
テーブルに手をついて体を起こしながら僕は眞子に尋ねた。もうこっちに話してもらった方が絶対に早い。
「勿体ぶってごめんなさい。拓斗が言う通り私たちが同じ病気でこの病院に入院しているのは確かよ。でも本当に私たちも病名は知らされてないの。というより知ってはいけない事になっているの」
何故?僕の頭の上のクエスチョンマークがまた一つ増える。
「順を追って話すわね。少し長くなるけど聞いてちょうだい」
まず最初にこの病院は小児専門で現在五十人の子供が入院しているらしい。年齢はみんな十代の子供たち。ちなみに翔は十六歳、眞子は十五歳だそうで、僕はというと十四歳でこの中では一番年下だった。
入院する子供は突然どこからともなく連れて来られる。しかも決まって眠った状態でだ。
そして新しい入院患者が目覚めるまでに、新入りの面倒を見る係が決まる。
「それが俺たちってわけよ」
自慢げに翔が言う。いや、おまえは何もしていないだろう。
「私たちもいきなり院長先生に言われて、やり方が良く分かって無かったの。ただ、翔がすごい張り切っちゃって…、それで説明も無しに拓斗を連れまわすことになっちゃったの」
申し訳なさそうにしながら眞子は続けた。
「私たちも半年前、同じ様にこの病院に連れ来られて、記憶がないまま同じ様に世話係から説明を受けたわ。でも病気のことを聞いても分からないの一点張りで」
「だから、俺が院長先生に直接聞いてみたんだよ」
自分たちは何故ここにいるのか、どうして記憶がないのか。
すると、院長は
「あなたたちはある病気にかかっています。その病気のせいで一部の記憶が抜け落ちてしまっているのです。無理に記憶を呼び起こすことはあなたたちの精神状態に大変負荷がかかるので少しずつリハビリしていきましょう。そうすればきっと病気も治るし記憶も戻るはずですよ」
まるで機械のように、無機質で言葉が口から垂れ流されただけの答えが返って来たらしい。
病気で記憶が無くなる。アルツハイマーか何かにかかっているのだろうか。いや、どちらにしろこんなふうに発症患者を集めて、しかも子供だけを隔離するなんて聞いたことがない。明治時代のサナトリウムじゃあるまいし。
「今の翔の話で思い出したけど、この病院は大きく三つの区画に分けられるの。南側に位置するこの建物がリハビリ棟、東側に位置するのがさっきいた病棟、それと最後の一つが北側に位置する研究棟よ。当直じゃない先生や看護師さんは普段は研究棟にいるわ」
僕は日の光を真正面に受ける窓ガラスの向こう側を見て、太陽の位置を確認した。確かにこちらが南のようだ。病棟からもこのリハビリ棟からも見える景色は芝生と森ばかりでいまいち方向感覚がつかみづらい。
「就寝時間以外は、私たちは基本的にはここでリハビリをすることになっているの」
「さっきから気になってんだけど、リハビリって何するわけ?」
院長の言葉にも出てきていたが、病名も分からないままに何のリハビリをさせられるというのか。
「リハビリって言ってもね、特に何をするというわけではないの」
「どういうこと?リハビリなのに何もしないなんて」
「よく分かんねーけど、皆が自由にやりたいことをやるのがここのリハビリらしい」
そんなリハビリなんて聞いたことが無い。そもそも、それはリハビリなんだろうか。
「ラッキーなことに、ここには娯楽に関する物がたくさんある。ボードゲーム、トランプ、テレビはないけど外の芝生でキャッチボールしてるやつもいるな」
「あんたは寝てばっかでしょ」
眞子がからかうように翔へ突っ込むと翔は「まあな」と言って、ケラケラと笑った。
二人の楽しそうな様子を見て僕の心がざわつく。どうしてふたりはこの環境の中、そんな笑顔でいられるのだろうか。
「飯は勝手に出てきて、一日中遊んでられるなんて最高じゃん?だから俺たちはこの病院をネバーランドって呼んでる。子供たちだけの楽園さ!」
ここで生活できて幸せだ。翔の高揚した雰囲気からそれが伝わってくる。
そして、ここでようやく最初に戻れるわけか。何故ここがネバーランドと呼ばれているのかやっと合点がいった。
「でも楽しいことばかりじゃないわ。守らなくちゃいけないルールもここにはあるの」
「ルール?」
眞子はさっきの笑顔から一転、真剣な面持ちになった。
「まず、研究棟には入ってはいけないの。と言っても入るには通行証のようなものが必要らしいんだけど」
それって、あからさまに怪しいんだけど…。
「それから、勝手に病院から抜け出しちゃいけないわ。森の中に入るのも禁止」
「誰が抜け出すんだよ、こっから。こんな楽が出来る所なんて他にはねーよ。記憶もなくて行くあてだってないんだしさ。なぁ?」
翔がありえないというように首を振った後に僕に尋ねる。
「あくまでもルールよ。拓斗が脱走したりするなんて思ってないわ」
話の腰を折られた眞子はむっとして翔を睨んだが、気を取り直して続けた。
「後、私たちも実際に聞いたことはないけど、もし院内でサイレンが鳴ったらその後の指示に絶対従うこと。かなり危険なことが起こっている証拠だって子供たちの間で言われてる」
これは何だか唐突で抽象的な話だ。とりあえず、僕は頷いておくことにした。
「最後に、これが一番大事な事よ。お互いの過去を詮索しない。もし何かを思い出したら、他の子供たちには告げずにすぐに先生にいうこと」
「どうして?」
「理由は分からない…」
「また?君たちはそれで納得してるの?」
「納得してるかどうかと言われればそうじゃないけど。いくら聞いたって教えてくれないもの。私たちも諦めたわ。わからないことを考えてもしょうがないじゃない」
眞子は肩をすくめてどうしようもないとアピールした。
「言うこと聞いてりゃ、いたれりつくせりの生活ができるんだぜ?拓斗も最初は気味悪いかもしれないけど楽しめよ」
呑気な口調で話している翔は段々と退屈してきているようにも見える。「あんたと一緒にしないの」と眞子が翔に注意して
「でも、翔の言うことも一理あるわ。余計な詮索はしない、大人たちの言うことは絶対。これがこの病院での鉄の掟よ」
僕は少し考えてから、
「分かった」
ふりをするしかなかった。勝手にこんな所に連れて来られて、説明もろくにせずにリハビリしろ?思い出せないけど僕には僕の生活があったはずだ。それなのにいきなりここでの生活を楽しめなんて、すぐには納得できない。
「そう。それなら説明はこんなとこかしら」
眞子が翔に確認を取ると
「ん、いいんじゃね」翔はイスの足を浮かせてバランスを取り、天上を仰ぎながら適当に答えた。
眞子ははぁ、とため息をついてから
「それじゃ、部屋まで送るわ。結構話しこんでたみたいね」
気がつけば窓の外の明かりは赤みを帯びていて、日暮れが迫っていることを告げていた。
来た道を戻り、自分の病室へ向かっていると、何人かの子供たちとすれ違った。目覚めてから初めて翔や眞子以外の子供と出会った。
子供たちは僕らと同じように真っ白いシャツとズボンを着用していて、僕のことをじろじろ見ながら歩いて行った。
「新しく子供が入ってくるといつもこうなのよ。私の時も同じだったわ」
僕に気遣ってくれたのか、眞子がすかさずフォローしてくれた。引っ込み思案な子なのかと思っていたが、眞子は根っからの委員長タイプみたいだ。
さっきの病室まで戻ると、出ていく時には気づかなかったけど、扉の横に付けられているプラスチックのプレートには「一木拓斗」という名札が差し込まれていた。
スライドドアの取っ手を掴んだまま僕の足が止まった。この部屋に入り生活していくということは、ここでの暮らしを僕自身が認めてしまう気がして何となく気が引ける。
「どうした?早く入れよ」
不審がる翔が僕に催促をしてきたので、仕方なく煮え切らないまま僕はドアをスライドさせた。
すると、病室には既に先客がいた。
「おお、戻られたのですね」
ドアが開く音を聞いてその人物が振り返り、僕に微笑みかける。
僕の部屋にいたのは白髪頭で小太りの眼鏡をかけた男だった。男は早坂先生と同じように白衣を着て、首には聴診器を巻きつけていた。
「あっ院長先生、こんばんは」
ドアで立ち止まっていた僕の後ろから翔がひょっこりと首を出し、僕を病室の中へとぐいぐい押しこんだ。後から「ほんとだ」と眞子も続く。
「神原さんと藤堂さんもこんばんは」
院長は僕が部屋に入ってから一度も崩さない笑みで翔と眞子に挨拶をした。さっきまでへらへらとしていた翔は少し緊張している。
これが院長、この伏魔伝のボスってわけだ。一体僕に何の用だ?今までの話から僕はこの男には既に不信感がバリバリだ。警戒していこう。
「一木さん、お目覚めのご気分はどうですか?」
「悪くないです」
僕はわざとぶっきらぼうに答えてみる。そしてついでに睨んでやった。
「そうですか、それは良かったですね。ここでの生活に慣れるのは大変だと思いますが、頑張ってリハビリしていきましょう」
僕の失礼な態度にも院長は顔色一つ変えない。
「それでは二人とも後は頼みましたね」
翔と眞子にそう告げると最後まで笑みを絶やさず院長は病室を後にした。
ふう、と翔の口から安堵の息が漏れ出した。
「院長先生を前にすると何か緊張しちゃうんだよなー」
「ほんとそうね。あんな優しそうなのに」
二人がひそひそと話す中、僕は黙って院長を見送った。
その晩、僕はベッドに寝転びながらずっと考えていた。
この病院や院長のあの気味の悪い笑顔をなぜ、翔と眞子は疑いを持たず受け入れているのだろう。普通の感覚ならこれから先のことを思えば不安や恐怖で押し潰されそうになるはずだ。僕が単に疑り深い性格だから?大人たちの言うことを聞いていれば楽園のような生活が出来るから?いや、そんな所じゃない。もっと根本的な部分で僕たちは違ってしまっている。
直感でしかないけどこの病院が二人を変えたんだ。そんな異様さがここにはあった。
そして何よりも僕は僕のことが知りたい。だから全てを取り戻す。僕の記憶もこれまでの人生もこの病院から奪い返してみせる。その決意を込めて腕を天井に伸ばし、掌をぐっと握り締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます