4-4
*
ましろを見失ったことに気づき、明葉と白露王の部下は、すぐに廊下を引き返した。狼らしく、においと気配を追いかける。
ましろは、離れの建物の方へ、行ったようだ。
「あら……どうしたんでしょうね」
「何者だ!」
眼前に現れた兵が、口々に止まれと叫び始めた。
「こちらに、迷い込んだ姫君がいて――」
明葉は、毅然と声をあげる。だが、風のように駆けた男が、兵を次々に殴り倒した。
「まぁ。手荒いですね」
「そちらに言われたくないな」
男は軽く首をすくめた。明葉の手に握られている、目つぶし薬や睡眠剤を見てのことだ。
「確かに、どちらでも、結果は同じですね」
明葉は簡単に受け答えし、渡り廊下を抜けて、別棟にたどり着いた。
「あら?」
欄干に、女が倒れている。
「貴矢様?」
明葉は、思わず目を見張った。
「どうして! 都を出られたはずでは」
「明葉……? 私、どこかで、殴られて……」
貴矢は意識が朦朧としているようだ。
明葉が簡易的に怪我の手当をしていると、男が仲間を呼んできた。明葉は、彼らに貴矢を預ける。
「白露王と、ましろ様。探すお方が、また二人になりましたね」
「そうだな。だが、近いところにいると、思う」
「気配は、近いようですけれど」
庭は静まり、いつの間にか忍び寄った夜半の寒さが、肌に突き刺さる。
建物の内側から悲鳴があがった。
「ましろ様ですね」
明葉は呟く。
「急がないと」
*
赤い池を踏みつけて、帝の足が少し滑る。
白露王は肩を切られ、うめきながら身をよじった。
ましろは、羽黒の手から太刀を奪い、苦労して鞘を外し取った。
「白露王!」
帝が再度振り上げた太刀を、ましろは受け止めようとする。だが、太刀は重くて、切っ先が持ち上がらない。
「貸せ……!」
羽黒が、ましろの後ろから腕を支えた。ぎぃん、と鈍く、太刀同士がぶつかり合う。
太刀をとって返し、羽黒が、白露王の周囲の糸を切った。やはり糸は燃える。だが、母の布で払うとすぐに消えた。
「は! もののけは、もののけの技を使うか」
帝が憎々しげに吐き捨てた。
帝の太刀の間合いになるため、ましろは白露王にまだ、近づけない。ただ、名を呼ぶ。
「白露王!」
糸を外され、狼は身を返して、どうにか立ち上がった。
よろめいているし、腹の辺りまで血で塗れていた。ただ、傷はそれほど深くなかったようだ。
「呪いに、いらない力をやったようで嫌だな」
白露王が呟く。平静な口調だった。
「人間。狼が疎ましいなら、なぜ、そこに狼の絵を掛けている?」
白露王の視線の先、壁に、野犬のような細身の、狼らしきものが描かれた絵があった。
帝が笑い、太刀の先で、絵をなぞる。
「祖先に、狼がいると、昔類縁に言われてな。そやつは、これを後生大事に、祭壇の奥に奉っていた。ばかばかしい」
皇子は笑うが、怒りのような、暗さがあった。
「うっすらと、信じかけたこともあった。昔の話だ。本来は偽典。そうしたものは、ただの古い感傷にすぎない」
「狼じゃ、ないの?」
ましろの言葉に、帝は視線もくれずに言い返す。
「もっと真広いもの。それでいてどこにでもあるもの。我らは形のあるものでなく、神霊と通じている」
「……ばっかみたい」
この男は、何て不自由なのだろう。
ましろや白露王は、宮中で、捕らわれていたはずだった。だが、意外と不自由なく暮らしていた。羽黒も、きっと、そうだろう。
その違いを思い、ましろは吐き出す。
「そんなこと言って、不自由ばっかりして」 帝の太刀先が、絵の狼を斜めに裂いた。
ましろの口は止まらない。
「大昔、貴方の先祖は狼に憧れたんじゃないの? それで、祭壇に絵を掛けたんだわ。もしくは、本当に、先祖が狼なのよ。狼にも、喧嘩っぱやい子もいれば、心の広い子もいる。心の広い方が先祖なら、よかったわね」
「心が狭いと言いたげだな」
帝が、ふうっと、猫のように、ゆるやかに目を細める。
まずい。
(機嫌を損ねすぎると、いけない――)
太刀がこちらへ向く。ましろを狙った帝の前に、白露王が立ち塞がった。ましろの前に、羽黒も、背を向けて立つ。
(白露王)
ましろは一度目を閉じる。
思い出す。子狼の姿。今のような、大人の、しっかりした四肢の狼姿。そして人の姿。白露王は、ましろを撫でてくれた。可愛がってくれた。寂しいときに寄り添ってくれた。
元々は、ましろのことを、妹だと思っていたからだろう。
ましろのことを気にかけてくれた。
でも、もしかしたら、村にいた少年や、他の村人だって、ましろを気にしていてくれたのかもしれない。ここの、炊事場にいた女達みたいに。ごく自然に。
母と、かたくなに小屋で二人暮らしをしていて、ましろが気づかなかっただけで。
(だって、世の中は、広いから)
勿論、狭く、生きている人もいる。
目の前にいるこの男や、貴族の女達みたいに。
でも、そこで泳ぎながら、自由に生きようとしている、子狸みたいな明葉や、「お兄様」だって、いる。
(きっと、どういうふうにだって、生きられる)
「貴方は、広く生きられるはず。貴方の、その場所に座っていられるのは、きっと、この世のほんの一握りの人でしょう? 教養とか、血筋とか、難しいことは分からないけど、貴方には力があった。努力か、運か、才能かは知らないけど。押しつぶされないで、目的を持って生きることだって、できるんじゃないの」
白露王がよろめきながら、帝の太刀をどうにか避ける。ましろは悲鳴混じりに、言葉を繋げた。
「羽黒とか、誰かの夢に、相乗りしてたって、別に、いいけど。貴方みたいに力があるなら、もっと、目的を持って、いいことに使えばいいじゃない」
「……この力、戦に使うくらいしか、活かしようもない」
「そういう、やけじゃなくて!」
「悪い夢に、憑かれているようだな」
白露王が、場違いに落ち着いた声をあげた。
するりと、狼から人の姿になる。
さすがに驚き、帝の手がぴたりと止まった。
立ち上がり、目線の高くなった白露王が、帝の顔を覗き込む。
「確かに、お前の遠くに、狼の気配を感じる。だが、あるといえばあるが、もはやその身自身には、影響を及ぼさないだろう」
白露王が、すいと手を伸ばす。
血塗れの手を、一度自分の服で拭いて、帝の額を優しく、力強く拭った。
「悪い夢だ。お前の周りに、よくない夢が残っている」
帝は瞬きできず、ただ白露王を見つめ返した。
「狼は情が深い。一度、内に入った者は、決して見捨てない。だが、裏切れば、二度とは懐かない」
ましろも、動くことができない。
以前もあった――白露王が獲物を捕ったときに、相手は躊躇わず身を投げ出したようにも、見えた。
どんな力なのかは知れないけれど――視線を外せないことは、確かだった。
「狼は、今回の件で、人を疑うことを覚えた。お前が狼を襲わせたせいだ。だが、それは……俺がましろを追ったせいでも、ある。責任は、取ろう。里を離れるなり、何なりする。それはまぁ、俺のことだ。お前は、どう始末をつける」
見入られたように、帝は動かない。だが、操られるように片手だけが動いた。
太刀ではなく、落ちていた短刀を掴もうとする。
白露王が目を細めた。
「違うな。それはお前の意志ではない。後ろで、力を持っている輩がいる。それを、止めたい者も、近くにいるだろう……ましろ、見えるか」
言われて、ましろは帝の背後、明かりで揺らめく、影を睨んだ。
「見える」
自分でも驚いたが、じっと、注意深く見ていれば、分かってくる。
帝の後ろ。先程、目を沢山出したりした老人が立っている。顔は見えないが、他にも数人、男女がいる。
白露王がため息混じりに呟いた。
「死者の魂は、本来、山へ還る。そうしないのは、呪いが絡みついているからか?」
「違うみたい」
人々は皆、どこにも縛られていない。縛られているのは、帝の方だ。帝の後ろから、一人、見知らぬ男が、短刀を掴もうともがいている。帝を、後ろから操ろうとしている。
その男を、他の人々は止めたいようだが、どこへも触れないようだ。
白露王が厳かに言う。
「お前の名を、俺は知らない。人が、玄人皇子と呼んでいたから、今はそれを使おう。玄人。呪いの場である、この宮を、出たいか。あらゆる呪いを、ときたいか」
「ときたい」
するりと、素直な声が返った。帝が目を見開いて言う。
「耐えた。耐え続けた。変えようとし、あるいは諦めて。だから……長年の、見知らぬ誰かの恨み辛み、多くの呪いからとかれるために、狼を生け贄にしなくては……」
「生け贄が必要なければ、お前は狼を殺さないな?」
「それが、可能であれば」
白露王が頷いた。
「分かった。では、手を貸そう」
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