4-4

 ましろを見失ったことに気づき、明葉と白露王の部下は、すぐに廊下を引き返した。狼らしく、においと気配を追いかける。

 ましろは、離れの建物の方へ、行ったようだ。

「あら……どうしたんでしょうね」

「何者だ!」

 眼前に現れた兵が、口々に止まれと叫び始めた。

「こちらに、迷い込んだ姫君がいて――」

 明葉は、毅然と声をあげる。だが、風のように駆けた男が、兵を次々に殴り倒した。

「まぁ。手荒いですね」

「そちらに言われたくないな」

 男は軽く首をすくめた。明葉の手に握られている、目つぶし薬や睡眠剤を見てのことだ。

「確かに、どちらでも、結果は同じですね」

 明葉は簡単に受け答えし、渡り廊下を抜けて、別棟にたどり着いた。

「あら?」

 欄干に、女が倒れている。

「貴矢様?」

 明葉は、思わず目を見張った。

「どうして! 都を出られたはずでは」

「明葉……? 私、どこかで、殴られて……」

 貴矢は意識が朦朧としているようだ。

 明葉が簡易的に怪我の手当をしていると、男が仲間を呼んできた。明葉は、彼らに貴矢を預ける。

「白露王と、ましろ様。探すお方が、また二人になりましたね」

「そうだな。だが、近いところにいると、思う」

「気配は、近いようですけれど」

 庭は静まり、いつの間にか忍び寄った夜半の寒さが、肌に突き刺さる。

 建物の内側から悲鳴があがった。

「ましろ様ですね」

 明葉は呟く。

「急がないと」

 赤い池を踏みつけて、帝の足が少し滑る。

 白露王は肩を切られ、うめきながら身をよじった。

 ましろは、羽黒の手から太刀を奪い、苦労して鞘を外し取った。

「白露王!」

 帝が再度振り上げた太刀を、ましろは受け止めようとする。だが、太刀は重くて、切っ先が持ち上がらない。

「貸せ……!」

 羽黒が、ましろの後ろから腕を支えた。ぎぃん、と鈍く、太刀同士がぶつかり合う。

 太刀をとって返し、羽黒が、白露王の周囲の糸を切った。やはり糸は燃える。だが、母の布で払うとすぐに消えた。

「は! もののけは、もののけの技を使うか」

 帝が憎々しげに吐き捨てた。

 帝の太刀の間合いになるため、ましろは白露王にまだ、近づけない。ただ、名を呼ぶ。

「白露王!」

 糸を外され、狼は身を返して、どうにか立ち上がった。

 よろめいているし、腹の辺りまで血で塗れていた。ただ、傷はそれほど深くなかったようだ。

「呪いに、いらない力をやったようで嫌だな」

 白露王が呟く。平静な口調だった。

「人間。狼が疎ましいなら、なぜ、そこに狼の絵を掛けている?」

 白露王の視線の先、壁に、野犬のような細身の、狼らしきものが描かれた絵があった。

 帝が笑い、太刀の先で、絵をなぞる。

「祖先に、狼がいると、昔類縁に言われてな。そやつは、これを後生大事に、祭壇の奥に奉っていた。ばかばかしい」

 皇子は笑うが、怒りのような、暗さがあった。

「うっすらと、信じかけたこともあった。昔の話だ。本来は偽典。そうしたものは、ただの古い感傷にすぎない」

「狼じゃ、ないの?」

 ましろの言葉に、帝は視線もくれずに言い返す。

「もっと真広いもの。それでいてどこにでもあるもの。我らは形のあるものでなく、神霊と通じている」

「……ばっかみたい」

 この男は、何て不自由なのだろう。

 ましろや白露王は、宮中で、捕らわれていたはずだった。だが、意外と不自由なく暮らしていた。羽黒も、きっと、そうだろう。

 その違いを思い、ましろは吐き出す。

「そんなこと言って、不自由ばっかりして」 帝の太刀先が、絵の狼を斜めに裂いた。

 ましろの口は止まらない。

「大昔、貴方の先祖は狼に憧れたんじゃないの? それで、祭壇に絵を掛けたんだわ。もしくは、本当に、先祖が狼なのよ。狼にも、喧嘩っぱやい子もいれば、心の広い子もいる。心の広い方が先祖なら、よかったわね」

「心が狭いと言いたげだな」

 帝が、ふうっと、猫のように、ゆるやかに目を細める。

 まずい。

(機嫌を損ねすぎると、いけない――)

 太刀がこちらへ向く。ましろを狙った帝の前に、白露王が立ち塞がった。ましろの前に、羽黒も、背を向けて立つ。

(白露王)

 ましろは一度目を閉じる。

 思い出す。子狼の姿。今のような、大人の、しっかりした四肢の狼姿。そして人の姿。白露王は、ましろを撫でてくれた。可愛がってくれた。寂しいときに寄り添ってくれた。

 元々は、ましろのことを、妹だと思っていたからだろう。

 ましろのことを気にかけてくれた。

 でも、もしかしたら、村にいた少年や、他の村人だって、ましろを気にしていてくれたのかもしれない。ここの、炊事場にいた女達みたいに。ごく自然に。

 母と、かたくなに小屋で二人暮らしをしていて、ましろが気づかなかっただけで。

(だって、世の中は、広いから)

 勿論、狭く、生きている人もいる。

 目の前にいるこの男や、貴族の女達みたいに。

 でも、そこで泳ぎながら、自由に生きようとしている、子狸みたいな明葉や、「お兄様」だって、いる。

(きっと、どういうふうにだって、生きられる)

「貴方は、広く生きられるはず。貴方の、その場所に座っていられるのは、きっと、この世のほんの一握りの人でしょう? 教養とか、血筋とか、難しいことは分からないけど、貴方には力があった。努力か、運か、才能かは知らないけど。押しつぶされないで、目的を持って生きることだって、できるんじゃないの」

 白露王がよろめきながら、帝の太刀をどうにか避ける。ましろは悲鳴混じりに、言葉を繋げた。

「羽黒とか、誰かの夢に、相乗りしてたって、別に、いいけど。貴方みたいに力があるなら、もっと、目的を持って、いいことに使えばいいじゃない」

「……この力、戦に使うくらいしか、活かしようもない」

「そういう、やけじゃなくて!」

「悪い夢に、憑かれているようだな」

 白露王が、場違いに落ち着いた声をあげた。

 するりと、狼から人の姿になる。

 さすがに驚き、帝の手がぴたりと止まった。

 立ち上がり、目線の高くなった白露王が、帝の顔を覗き込む。

「確かに、お前の遠くに、狼の気配を感じる。だが、あるといえばあるが、もはやその身自身には、影響を及ぼさないだろう」

 白露王が、すいと手を伸ばす。

 血塗れの手を、一度自分の服で拭いて、帝の額を優しく、力強く拭った。

「悪い夢だ。お前の周りに、よくない夢が残っている」

 帝は瞬きできず、ただ白露王を見つめ返した。

「狼は情が深い。一度、内に入った者は、決して見捨てない。だが、裏切れば、二度とは懐かない」

 ましろも、動くことができない。

 以前もあった――白露王が獲物を捕ったときに、相手は躊躇わず身を投げ出したようにも、見えた。

 どんな力なのかは知れないけれど――視線を外せないことは、確かだった。

「狼は、今回の件で、人を疑うことを覚えた。お前が狼を襲わせたせいだ。だが、それは……俺がましろを追ったせいでも、ある。責任は、取ろう。里を離れるなり、何なりする。それはまぁ、俺のことだ。お前は、どう始末をつける」

 見入られたように、帝は動かない。だが、操られるように片手だけが動いた。

 太刀ではなく、落ちていた短刀を掴もうとする。

 白露王が目を細めた。

「違うな。それはお前の意志ではない。後ろで、力を持っている輩がいる。それを、止めたい者も、近くにいるだろう……ましろ、見えるか」

 言われて、ましろは帝の背後、明かりで揺らめく、影を睨んだ。

「見える」

 自分でも驚いたが、じっと、注意深く見ていれば、分かってくる。

 帝の後ろ。先程、目を沢山出したりした老人が立っている。顔は見えないが、他にも数人、男女がいる。

 白露王がため息混じりに呟いた。

「死者の魂は、本来、山へ還る。そうしないのは、呪いが絡みついているからか?」

「違うみたい」

 人々は皆、どこにも縛られていない。縛られているのは、帝の方だ。帝の後ろから、一人、見知らぬ男が、短刀を掴もうともがいている。帝を、後ろから操ろうとしている。

 その男を、他の人々は止めたいようだが、どこへも触れないようだ。

 白露王が厳かに言う。

「お前の名を、俺は知らない。人が、玄人皇子と呼んでいたから、今はそれを使おう。玄人。呪いの場である、この宮を、出たいか。あらゆる呪いを、ときたいか」

「ときたい」

 するりと、素直な声が返った。帝が目を見開いて言う。

「耐えた。耐え続けた。変えようとし、あるいは諦めて。だから……長年の、見知らぬ誰かの恨み辛み、多くの呪いからとかれるために、狼を生け贄にしなくては……」

「生け贄が必要なければ、お前は狼を殺さないな?」

「それが、可能であれば」

 白露王が頷いた。

「分かった。では、手を貸そう」

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