4-3

 建物が一度途切れる。すぐそこに、離れが建っていた。

 勿論、他の場所と同様、渡るための廊下はある。だが、煌々と明かりがともされており、踏み出せばすぐに見つかってしまうことだろう。

 その先では、兵らが二人、戸口に並んでいる。

 ましろは、裳裾をたくしあげて、裸足で庭に飛びおりた。音を立てぬよう気をつけて、茂みの後ろを歩いていく。

(あれって、見るからに怪しい建物なんだけど、違ったらどうしよう)

 そのときは、そのときだ。

 はぐれた明葉達の無事を祈りつつ、ましろは建物の裏手に回り、そっと、廊下に這い上った。

 御簾の内側は明るくなっていて、動く人影は一つもない。

(違ったかも)

 そう思いつつ、覗いてみて、ましろは驚いた。

「貴矢!」

 明葉の話では、都の外へ逃げたはずだった。その女が、目をかたく閉じて、室内に仰向けになって横たわっている。

 近づこうとして、ましろは、違和感に足を止めた。

 よく見れば、床には細い釘が打たれていた。

「糸が……結んである」

 釘のすべてに糸が渡され、見る方向によっては、きらきらと美しく、まがまがしく輝いていた。

「抜け出してきたか。誰の手引きだ?」

 急に呼びかけられた。

 一番出会いたくなかったのだが、致し方ない。

 ましろは顔をしかめて、視線をやった。

 帝は黒の衣を纏っていた。白い、太刀を手にしている。

「真っ暗なところにいたら、気が塞いでしょうがなかったの。気分転換に出歩いて、何が悪いのよ」

「野良犬は、縛っておかないと落ち着きがないな」

 帝の周囲には兵はいない。だが、一人きりだというのに、帝は悠然としている。

 手にあるのは、真っ白な鞘と柄の、美しい造作の太刀だった。

「貴矢を、どうするつもり」

「どう? こうする」

 すらりと引き抜かれた白刃が、振りおろされる。

 ましろは飛びかかって止めようとしたが、足下の釘のせいで近づけない。

「やめて!」

「陛下!」

 ばさりと、黒いものが、御簾を引き裂く勢いで飛び込んできた。

「羽黒」

 ましろと帝の声が重なる。

 羽黒は、先日襲撃されたときのような姿になっていた。太刀は鞘に入れたままだが、裾に返り血がついている。

「おそれながら申し上げます、呪術に傾倒された先代を恨んでおられた貴方が、なぜこのような真似をなさるのです!」

 羽黒が、矢羽を床に叩きつける。矢羽は複雑な紋様で、おどろおどろしく飾られていた。

「……敵対勢力によるものだと、思わなかったか」

「思いたく、これまで目を背けて参りました。しかし、ご自身を狙う術者を、捕獲した後、次々に術者の元の依頼主が殺された。兵ではなく、呪いによって、です」

 帝は静かに微笑んだ。

 うろのように、ただ儀礼的に。

「陛下! 私には、行いたいことがございました。それゆえ、陛下に付き従って参りました。今や、私がお目障りか」

 羽黒が、釘を迂回する。ちりり、と、太刀の端で引っかけた糸が、燃え上がった。

 振り払うが、火は消えない。ましろは思いついて、母の布きれで力一杯火をはたいた。火は一瞬、強く燃えて、すうっと消える。

 その隙に帝が身を翻していた。部屋を出る。

 貴矢の周りの糸を、羽黒が切り払った。柄に母の布を巻いているためか、炎は不満げにくすぶるだけで、燃え広がらない。

 ましろも、室内を見回し、戸板を外して、釘の上に渡した。貴矢を引きずり、部屋の外に出す。

 目が覚めた貴矢に、逃げるよう言い聞かせた。

 羽黒が戸板を踏んで、帝の消えた、奥へ向かう。ましろも、室内に駆け戻った。

 奥の部屋、貴矢と同様に釘と糸で縛られた、白い狼がいた。

「白露王!」

 狼は、仰向けのまま寝ていたようだが、ふと目を開けた。

「あれっ、幻覚か?」

「悠長ね!」

 羽黒が糸を切ろうとするが、帝が狼へ太刀を振りおろす方が早かった。

 狼は、糸で動けない中、どうにか身じろぎして太刀を逃れる。どすりと、太刀の切っ先が、床下まで突き抜けた。

「やめて! 何をしようっていうの!」

「さっきの女は、呪いの場所を検知する術式に利用した。本当は殺した方がよいらしいのだが、面倒なので放っておいただけだ」

「貴矢じゃなくて、この狼のことよ……っ」

「呪いで検知された狼だ。これを使い、住処を探索し、本拠を叩きつぶす」

「やめて、何でそんなこと」

 帝は答えず、太刀を捨てて、護身用の短刀を抜く。羽黒が、戸板を釘の上に載せて踏み、帝を止める言葉を並べるが、帝は笑って応じない。

「狼を、どうしてそんなに目の敵にするのよ!」

 ましろには分からない。帝に答える気がないことは分かっている。

(どうしたらいいの)

「そういえば……この狼にかかった、呪いの、作り手は、どうなったの」

「切り捨てた」

「そんなことだろうと思った」

 こんなに騒いでいるというのに、外から兵が来る様子はない。だが、そのうち駆けつけるだろう。

 帝が改心する方法が思いつかない以上、早く、少しでも話して、突破口を見つけたかった。

「貴方、狼が嫌いなの?」

「いいや。別に、どうということもない」

「では、好きなの?」

「どうというわけでもないと、答えたはずだが?」

「陛下! 貴方というお方が、御自ら、このような真似をなさいますな! 先祖は、大神でございましょう!」

 帝の切っ先が、わずかに止まる。

 その隙に、羽黒が膝を突いて叫んだ。

「よもや、祖を同じくする者を、殺しはされますまい」

「いらぬことを考える」

 にいと、唇をつり上げて、帝は短刀を放り投げた。

「その弁で言えば、同族である人を殺したのだから、祖を殺しても変わるまい」

 羽黒は、投げつけられた短刀を払いのけた。

「陛下!」

「あぁ。お前の祖にも、狼がいたな。狼に情でもわいたか」

「いいえ、私は陛下の御身を、思って」

「たわけ。国を立て直したいと、理想論をぶちあげた人間が何を言う」

 羽黒が、うめく。

「陛下!」

「帝になる者など、お前と都合があいさえすれば誰でもよかったろう。兄上でも、姉上でも」

「陛下。どの皇子がたも、私の望みは叶えてくださらなかった。であればこそ……理想を理解し、よき為政者となられると思ったからこそ、私はついて参りました」

「お前の理想は聞き飽きた。お前達はこちらの意志に耳を傾けない。……父のようにはならぬ」

(……今気づいたけど)

 ましろは、帝の乾いた笑いの合間に、閃いた。息を飲む。

 この人は、大抵、己のことを、ちゃんと呼ばない。

(私は、私って言う。羽黒は、俺とか、私と言う。白露王は俺。帝には……この人には、自称がない?)

「ねぇ、貴方の名前って、何」

 突拍子もない言葉だと、理解してはいた。

 ましろは、変に緊迫がほどけた中で、それでも必死で帝を睨む。

「貴方って、自分では名乗らないし、自分のこともちゃんと、呼ばない。不便じゃないの?」

 意味が通じなかったのか、帝は何も答えない。ましろは続けた。

「貴方の名前は何?」

「今の私に名などない。今上帝は一人だからな。必要がない」

「帝になる前は?」

「あったが、言う必要もあるまい? その皇子は死んだのだ。今は帝があるばかり。再び死ねば、法名は得られるが、な」

「死ななかったら?」

「退位するにしても、帝としては死ぬようなものだ。その後の名は、そのときに決める」

「面倒なのね」

 かわいそう、とは、言えなかった。傍若無人な今の帝に、他の名があったところで、呼ぶ人もないだろうと思われた。

「なるほどな」

 白露王が、人に通じる言葉で喋った。

「名を呼ばず、大事にしない。……自分を大事にしようとしない、だからやけを起こすのか」

「! 狼め、黙れよ」

 帝の手が素早く、太刀の柄を引き上げる。ぎしりと、床から引き抜かれた太刀は、ばさりと乱暴に振りおろされた。

 ましろは叫び声をあげた。

「白露王!」

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