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第四章

 寝泊まりしていた自室まで、ましろはどうにか舞い戻った。

「ましろ? 無事だったか」

 羽黒が驚いて声をあげる。書類を取りに来たのか、書物をひっくり返し、棚をあさっているところだった。

 羽黒はふと気づいた様子で、ましろについていた見張りを追い払った。

「友人らしき者が、お前を連れていくと言っていたが……まだここにいたのか?」

 うまく答えられなくて、ましろは頭を振る。

「どうした。あの友人は、偽物か? 何をされた」

「何も。あの人達は、私を、助けて、くれようと、したの」

 でも。帝との経緯を話すうち、ましろはしゃくりあげて泣いてしまった。

「どうしよう、どうしたらよかった? あの、幽霊の人の、願いも、叶えてあげられなかった……何もできなかった」

「それなら、俺も同じだ。妙な女が通るなとは思っていたが、あえては話しかけなかったからな」

「羽黒も、見えるの」

 思わず呼び捨てにしてしまったが、彼は気にかけなかった。

「見える。……あまり、言い触らしたくはないがな。その女のような、予言者みたいなことはできないし。俺は見えるだけで、声も聞こえない。何ができるわけでもない」

「先祖返りは、死に近いって、前に、予知の婆様が言ってた」

 羽黒が短くため息をついた。

「そうか。……ましろ、母親について調べていて、いくつか新しいことが分かった。聞くか? 俺は、この騒ぎで、迂闊に殺されるようなどじを踏むつもりはない。だが、俺に何かあったら、話す人間もいなくなる」

「聞きたい」

 羽黒は捜し物の手を止めず、語り始めた。

「俺の母は、とても美しい布を織り、それを着物に仕立てていた。俺は、母自体のことは覚えていない。だが、残された布は確かに、美しいものだった。すべて父がしまい込んで、俺の目にはなかなか触れなかったが、それでも屋敷の人間が、時折褒めそやした」

「それで、最初のときに、布は残ってないって言ったのね」

「俺の手元には残っていなかった。……母は、身ごもったまま、俺と父を置いて出ていった。腹の子が、父の子ではなかったのだと、悪く言う者もいたが、俺はそうは思わない。侍女の話だと、母は俺を連れていこうとしたが、俺が断ったのだそうだ」

 父上の元に、残ると。自分で宣言したのだあったら、置いていった母を責めることはできまい。羽黒は薄く笑った。

「父の話によれば、去っていったのは、彼女が巫女で、都にいるのはよくないと予知したからだ。布の行商をするときも、鳥などを使いにたてることができるのは、そうした不思議な力があったからだろう」

 北庭は見回りが終わったのか、異様に静かだ。代わりに羽黒が、棚を倒して、書物をばらまく。

「元々、父は、よい布を探し求めているうちに、作り手に出会った。父は彼女を手元に置きたがった。彼女は、固辞したものの、結局父の屋敷で機織りすればよいと、強引に連れてこられた。父とは、まぁそれなりに仲がよかったらしい」

 そして、羽黒が生まれた。

「乳母によれば、母は、生まれたこの子は人の世では生きづらいと、言っていたようだ。俺はそうは思わないが――自然のものの、力を引き出すことのできる巫女が、祖先に狼がいるかもしれない人間と子をなすと、古い血が甦ってしまうかもしれない。そういう、話だったらしい」

「先祖返りの、原因は、お母さんが巫女で……お父さんの先祖が狼だったこと?」

「おそらくそうだろう。ただし、確かめようにも、肝心の母親が行方不明だ。だから、憶測でしかない」

 羽黒が一冊の書物を掴まえ、ばらばらとめくる。間から、鮮やかな切れ端がこぼれ落ちた。

 木の葉かと思えば、違う。

 母親の布地を、わずかずつ集めていたのだと、羽黒は言った。時には父に確かめながら。母の残した物を、探した。父もまた、探し続けていたけれど――織り手には、なかなか出会えなくて。

「俺が呼んだ貴族については、父とは別のつてを使ったんだ。奴は新興で、伝統を重んじる俺の父とは話が合わなかった。俺は、狼の子の母なら、布も珍奇な品に違いないと思って奴にあたってみたんだが……考えは的外れだったけれど、事実には近づけたな」

 羽黒は布をまとめて、紐で結わえた。

「祈りを込めた布には、霊力が宿る。巫女によって、持ち主の無事を、守りを願って織られたものは、尚更だ。ましろ、持っていろ」

 小さな布束を押しつけられ、ましろは戸惑う。

「でもこれ、羽黒の大事なものじゃ、」

「俺も、半分もらっておく。あまり、こういう験担ぎは好きじゃないんだが、お守りでもあった方がいいかもしれない……。どうも帝の様子が妙だからな」

「前から妙だけど」

「まぁ、そう言うな。あれでも、頭は切れる方だったんだ」

 がらがらと、大きなものが崩れる音が響いた。人の怒号と悲鳴が、塀の向こうで重なっている。荷車を壊して、兵が暴れているようだ。

「ましろ。ついてこい」

 羽黒が太刀を持ち、部屋を出る。

「お前が何であっても、いい。生き延びろよ」

 ましろは、喉の奥が詰まって、ただひたすら頷いた。

 帝の座所は、異様な静けさに包まれていた。

 帝となった男は、普段とまるで違わない笑みを浮かべ、戦況の報告を受けている。

(気味が悪い)

 あらかた人が去ってから、帝はようやくましろに目を向けた。

「いたのか」

「いましたけど」

「そうか。羽黒」

 羽黒はかしこまり、目を伏せている。

「まだ、これはお前に預けて置いてよいな?」

「仰せのままに」

「では任せる」

 帝は再び、戦の話をいくつかした。


「緋鳥(ひどり)を討つ」

 敷地内に残った、帝の大叔父の名前だった。帝は、人を疑うような小細工を口にした。

「ひとまずは、椀に針を落とせ」

 先程の、兵を使った嵐のような暴力とは、打って変わった話だった。

 それでも、縫い子が厳しくとがめられ、針数のあわぬ者は、何人か罰せられ、命を落とすことになるだろう。

「次は、爪かな?」

 寝所に、見知らぬ爪が落ちている。次は髪。くず糸を真っ白にして、並べてやる。

「さすがに、緋鳥は直接殺せない。位が高いしな。だが、繊細な男ゆえ……呪殺されると思うだけで、寝込むなりなんなり、するだろう」

 くすくすと、さもおかしげに、帝は笑った。

「それとも、急に寒い場所へ閉じこめようか。胸の弱っていた者なら、さぞ苦しむことだろう」

 ごく簡単な、思いつきを口にする。簡単で――だから、怖い。

「どうして、そんなことをするの。帝になって、偉い人になったんでしょう? そんなことをする必要なんて、どこにもない」

「帝だから、だ」

 ぴりりと、辺りに緊張が走る。

 帝が、沈黙を裂いて、微笑み直した。

「他人事だと思っているようだが。宮にある、枯れ梅の下に、何か埋めたな?」

 ましろはぎくりとしたが、注意深く、口をつぐんだ。

「まだ、この近辺では発見されたことのない、木の実だった。お前があの付近によく行くのは、周知のこと。……お前のいたあの山の、実か?」

 何のことよ。

 言ってやりたいけれど、どんな言葉も引き金になりそうで、怖かった。

「梅が咲いたゆえ、あの実を短絡的に、病の先帝に与えた輩がいてな。彼の具合に、最後の一押しを加えた。……あるいは、呪いか何かのために死んだか。まだ調査中ではあるが、お前に謀反の気持ちがあったと疑われても、おかしくはないな」

「違うっ……私には、帝が誰だろうと、関係ないことよ」

「では羽黒かな? 羽黒のために、妹が悪事に手を染める」

「おそれながら」

 羽黒がようやく、声をあげた。

「私めは、帝が次なる継承者であり、賢帝になられると、信じておりました。それゆえ、あの時期に、あえてそのようなまねをする、必要もありませんでした。お疑いのこと、甚だ胸に痛く存じます」

「確かに、アレは放っておいても、死ぬところだったからな」

 帝が、ぱた、と、書面を伏せる。

「……では、こういうのはどうだ?」

 ましろは、産毛が逆立つような思いだった。

(何。何を言い出すの?)

「そういえば、実のあった付近で、狼を見た者が、いた。実を献上した者は既に流罪にしたが、呪いに関わっていたであろう悪しき獣も、野放しにはできまいなぁ」

「は?」

 ましろは呆れて、大声になった。

「狼と呪いなんて、無関係よ!」

「無関係かどうかは、捕まえてみなくては分からない。調べて、関係がなければ、そうだな、こちらで儀式に使おうか。いにしえの狼は、不思議な力を使うというから。安泰のための術式に、用いることとしよう」

「何、を……」

 帝はいよいよ、楽しげに笑う。

「お前のいた村。あの辺りからも、最近狼が出て困ると、上奏があったな。この近辺だけでなく、大規模な掃討を行おう」

「どうして」

 一息に話が、恐ろしい方角へ行ってしまった。ましろは呆然と、帝を見上げる。

「どうして! 狼を、目の敵にするの」

「お前が、逃げようとしたからだ」

 意味をなさない、問いへの答えだ。

 唯一、助かったといえるのは、狼討伐の任が羽黒に回ってこなかったことだろう。

 羽黒は宮中の混乱を鎮めるため、仕事に戻された。

 ましろは見知らぬ者に挟まれ、以前貴族の女達にいびられた、日の当たらぬ奥の、御簾だらけの場所に、連れて行かれた。

(羽黒に預けると、言ったくせに)

 旧知の者から引き離され、薄暗い場所に閉じこめられて、ましろは小さくうずくまる。

(何とか、しなくちゃ)

 でも。何ができる?

 羽黒に渡された、母の布を握りしめて、ましろは小さく息を吐いた。

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