3-10

 先日、母の布を持ち込んだ恰幅のよい男が、再び羽黒の元を訪れた。

 ましろも同席を許されて、耳を隠してじっとする。

 長い、前口上――今年のどこそこの収穫はよさそうだとか――が終わると、男は本題に踏み込んだ。

「出入りの商人に聞いてみたところ、どうやら、遠方から訪ねて来る女が、その布を買ってくれと言うようですな。美しい女ではあるが、笠をかぶり、決して敷地内に立ち入らず、出来上がった布や糸と、新たな頼みものや布、蚕の繭などを引き替えて、またどこへともなく帰っていくと」

「名は?」

 ましろよりも気を急かして、羽黒が聞く。

「星白とも、何とも名乗るが、本当の名は分かりませんな。それと――取引をして懇意にしているその商人は、小鳥や犬が女の使いをするとか、不思議なことを言っておりました」

「次は、いつ来る?」

「それが」

 男が、ふくよかな頬をたるませて、言葉を返した。

「先々月の約束の刻限に、来なかった、と。初めてのことだそうです。以来、音沙汰がないとか」

「先々月――」

 羽黒の隣で、ましろはすうっと血の気が引くのを感じた。

 母が、いなくなったのは、その少し前くらいだ。

「これが、それよりも前……最後の取引のときの、ものです」

「あ」

 ましろの口から、声がもれた。見覚えのある、春先の花の模様。

「手伝った、ことのある、模様」

 呟きを聞き、羽黒が「これを買い取ることはできないか」と口調を真摯に改める。

 何とはなしに事情を察したのか、男は低頭しながら、差し上げますと短く答えた。

 羽黒は、幾ばくかの金子を渡し、その女が来たら連絡をくれるよう伝えて、男を帰した。

 広げられた、一枚の布を、ましろはぎゅう、と片手で握る。

 母さん。母さん、こんなところにいた、こんなところまで来ていた。

 今、どこにいるの。

 同じ布を、羽黒も見下ろす。

「俺に、生地の区別はつかないが――なるほど、織り方にも個性があるのか。縦横の糸が、綺麗に交差しているな。……雰囲気も、家でも見た覚えはある」

「えっ」

「その女のことは知らないが……家にある布は、俺が幼い頃、腹に子を入れたままで逃げ出した女の手になるものだと聞いていた」

「それって……」

 以前に、まさか、と思っていたことが、現実味を帯びて立ち上がった。

 皇子が言った、からかいの言葉も、嘘ではなかったのかもしれない。

 ――羽黒とましろが兄妹だと。

「どうだか知らないが、可能性はあるな。だとしたら、俺にも狼の血が流れているわけか?」

 言っていいのか分からないが、たぶんそうだなと、ましろも思う。羽黒にも、耳が一瞬生えるのだから(しっぽについては、袴があるから分からない)。

「ありえんな」

(いやいやいやいや、生えてるし)

 内心、いろんな思いで動揺しつつ、ましろは、白露王に知らせに行った。

「ふうん。兄かもしれないのか。……で、どうする」

「……白露王は、ここには、いられないのよね」

 当たり前のことを言ってしまって、ましろは俯く。

「まだ、母さんのことを、もう少し知りたい……」

「もう少し、情報が増えるのを待つのか」

「その、つもり」

「危ないぞ、ましろ」

 早く決めろと、白露王がせっついた。

「ここは、妙な状態だ。今なら、まだ帰ることができる」

 兄のことも、母のことも気になって、ましろは肩を小さくすぼめた。

 その日は曇りがちで、どことなく不穏な気配が漂っていた。

 あまり出歩きたくなかったのだが、ましろは皇子に呼び出された。

 官吏達は緊張で顔がこわばっている。皇子はいつもと変わらぬ笑みだが、どうにも空気が妙だった。

 ましろの耳も、そわそわと落ち着かない。

 皇子は、ほとんどの者を下がらせた。残った者に、異国の、弦の数の違う琴を持ち出させる。

(あれ、私にひけって言うのかしら)

 ましろがため息をついていると、笑みを浮かべたまま、皇子が自分で、ひらりとつま弾いた。

 哀愁を帯びた、艶やかな音色だ。

 ひいているのが誰なのか、忘れていれば、楽団の貴公子がひいていると思えるのだが。

(この人がひくのは、初めて聞いた……)

 ましろが見回すと、他の者も、膝でも痛いのかというような、微妙な表情をして聞いていた。

 胸を引き絞られるような音色。あるいは、明るく、高らかな音色。

 自在に、皇子がひいている。

 不意に、ばたばたと廊下が騒がしくなった。

「帝が」

 青ざめた官吏が、御簾にぶつかり、飛び込んできて、ひれ伏した。

「逝去されました」

 裏返った声が、わんわんと、室内にこだました。

 目を見開き、手を止めて、皇子は官吏を見下ろしている。

「そうか」

「次なる者として、玄人皇子を、お選びです」

 ましろは、次の瞬間びくりとした。

「あははははははは!」

 琴を押しやって、皇子が笑う。膝を叩き、腹を抱えた。

「そうか。ついに死んだか! 忙しくなるな」

「玄人殿下」

 控えていた官吏が、かしこまって皇子を呼ぶ。玄人皇子が、後任だと、先程の男は言った。ましろにも、この男が、次の帝になるのだと分かった。

 皇子は陽気に笑い声をあげている。

 思わず、ましろは叫んでいた。

「どうして笑うの! 貴方の、お父さんが亡くなったんでしょう」

「確かに、父上と呼ぶべき者ではあった。だが、ほとんど話もしていない。生まれて以降、自分と、思惑ある誰かの手で生かされてきた。奴の手では、ない。……死んだ今となっては、清々する」

 引っかかりなく言われて、ましろは鼻白む。皇子がひどく嬉しげな笑みで言った。

「お前も部屋に戻るがいい。これから、慌ただしくなる。羽黒の指示によく従えよ? 誤って殺されても、弔ってはやれぬぞ」

 追いやられる。ましろの背後で、いつまでも、皇子のくすくす笑いが広がっていた。

 羽黒はどこへ行ったか、姿が見えない。人々が右往左往する中、ましろはいったん利緒の部屋に行く。

 利緒達は、荷造りをしているところだった。皇子と敵対はしていないが、しばらく実家に戻って、宮中が落ち着くのを待つのだと言う。

 ましろが自室に戻ると、庭を兵が駆け回っていた。

 帝に怪しげな実を献上した者、その仲間を摘発しているのだと言う。

 羽黒の厳命があるのか、ましろは、兵には何もされなかった。

 ばたばたした空気の中、ぼんやりする。

「行くぞ、ましろ」

 庭に、人の姿の白露王が立っていた。

 彼の周囲の者には見覚えはない。一応、狼の仲間ではあるようだ。

「でも、白露王……」

「知りたいことは、もっと落ち着いたときに、また聞けばいい。命あってのことだ」

 もっともな判断だった。ましろは、かさばる上着を置いて、白露王の後に続いた。

「お前の兄には、先に伝えてある」

「羽黒に?」

「お前とあまり似てないな? 庭から声を掛けたんだが、相当不審がられた。ましろを安全な場所へ移すが、後で連絡するし心配いらないとは言っておいた」

「信じてくれたかしら」

「さぁ。ましろの作ってくれた帯に目を留めて、頷いてはくれたが」

(まさか、分かってくれたのかしら)

 ましろは、羽黒の無事を祈った。


 敵か味方か分からないが、兵が襲いかかってくる。そのたびに、狼の人々は、人間達を転がして先へ進む。あっけないほど、順調だった。

 だが、塀を乗り越えようとした時だった。

 矢が飛んでくる。どうやら、目を付けられたようだ。

 一部の狼は塀を越えたが、ましろや白露王達は、別の場所から抜け出すことにした。

「わっ」

 蹴躓き、ましろは茂みに転がった。

 白露王が手を貸すが、そこへも雨のように矢が降った。

 狼らも、兵から奪った太刀で矢を切り捨てるが、きりがない。

「行って! 白露王!」

 茂みに引っかかって立ち上がれず、ましろは叫ぶ。

「羽黒もいるし、たぶん、私は殺されないから!」

「バカを言うな」

 白露王が、軽々とましろを拾い上げる。

 矢が当たりそうになるのを、ましろは袖を振り、やめてと叫んで、庇おうとした。

 白い、影のようなものが庭へ現れる。

 やめさせて、と呟いた、あの女だった。

 矢はすべて、女の白い体を突き抜ける。透き通った目で、女は庭を横切った。

「ひっ」

 ひるんだ兵が、後退する。その背後から、闇をまとって、一人の男が現れた。

「こんなところにいたか」

 以前、ましろが初めて出会ったときのように、黒い衣で、婉然と笑って、皇子が――帝となった者が、庭へ踏み出した。

 すらりと抜かれた太刀が、振りおろされる。帝は、ひと太刀で、女の亡霊を切り捨てた。

「つくづく目障りな女だ! これまで一度も化けて出なかったくせ、即位が決まると現れる」

 亡霊だというのに、女はするりと半分に切れている。ぺらり、と、力なく崩れ落ちた。

「何、それ……」

 白露王がましろを連れていこうとするが、ましろの呟きに気づいた帝が、笑みを向けた。

「どこへ行く?」

「!」

 多くの兵に、囲まれている。白露王はいまだ、戦うつもりでいるようだが、ましろの胸は早鐘を打った。

「逃げて、お願い」

 もがいて、自分の足で庭に立つ。

 ましろを引き戻そうとした白露王を、仲間らが引きずった。狼の人々は、人間達の矢や剣を、振り払って後退する。

 この場の兵は、帝の周囲から離れられず、あまり彼らを追わなかった。それでも、剣戟はしばらく続いている。

 ましろは、狼の人達が見えないように、真ん中で仁王立ちした。帝と睨みあう。

「今の女の人は、誰」

「予言をするという女だ。役に立たぬゆえ昔切って捨てたが――兵が怯えて叫んでいたので、化けて出たと分かった。誰も切れぬというなら、と自分で来ただけだ」

 それよりも、と、帝が太刀を鞘に納め、笑みを浮かべた。

「どこへ行こうとしていた?」

「宮中の女の人達が、危ない状況が落ち着くまでは、一度実家に帰ると言っていた。私もその人達と一緒に、そのお屋敷に避難しようと思っただけよ」

「そうであるなら、なぜここに残った?」

「貴方達が矢を射るからよ。私が残れば、その人達は大丈夫でしょう」

「そうかな」

 偽りの応酬を聞いて、帝は興味なさげに、背を向けた。

「まぁいい。……ここを逃れる者は、皆逆賊だ」

「!」

 何かを口ずさみながら、帝は兵に守られて、建物の奥へと戻っていく。

 辺りはいまだ、騒々しい。

 白い女は、まだ薄まったまま、端切れが地面でそよいでいた。

 一部の兵に見張られて、ましろは、女に近づいた。

 女が、何か、言っている。

 ――止めて。やめさせて。

 ――いかなる予言もするけれど、あの方をどうしたら止められるの。

「……貴方、あの人の望まないことを、言ったの?」

 こうなることを、知っていて、幾度も止めて。気に障って、殺されたのか。

「私が、先祖返りだから、話しかけてきたの? 止めて、って」

 わずかに、女が頷いたように見えた。

「ごめんなさい、何も、できなくて」

 ――いいの。

 すうっと、女が消えていく。

 ましろはしばらく、しゃがんだまま、地面を見ていた。

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