3-8
*
夕暮れが押し寄せて、空は昼と夜がせめぎあう。明葉に傷薬を塗ってもらったましろは、一人で、宿舎に戻ってきた。
宿直の官吏が出かけていき、そうでない者が帰って来る時刻だ。廊下を歩いていると、たまに人に出会う。彼らは、ましろと出会って息を飲むが、最初の頃よりも落ち着いて、叫ばずに、すれ違ってくれる。
ましろが、噛みついたり吠えかかったりしないし、何をするわけでもないと、分かってくれたのだろう。
男ばかりだったが、北庭の方へ回ると、真っ白い肌の女と遭遇した。挨拶しても、いつも返事がない人だ。
この日も、ましろは挨拶だけして通り過ぎようとした。
突然、女がましろに何か言った。
「えっ? 何ですか?」
「……で」
まるで、風がわずかに庭木をそよがすような声。ほとんど分からない大きさだった。
ましろは注意深く、耳をそばだてる。
「やめさせて」
そう聞こえた。
「誰に、何をやめてほしいんですか?」
女は、伝わったことに満足したのか、すうっと四散してしまった。
「……何、今の」
声が伝わったと言っても、ましろには、意味が分からなかったのだが。
「もしかして、また、」
狼の里での、白露王の母・白妙のことを思い出して、ましろは頭がくらりとする。
(狼の婆様も言っていたっけ)
先祖返りは、死に近い。そういう力があっても、おかしくはないと。
「……それにしても、誰に何をやめさせたいのやら」
頬を挟んでしゃがみ、ましろはぼやく。
だが、待っていても、あの女は戻ってこない。
(また出会ったときに聞いてみよう)
それまでは、頭の片隅に覚えておこうと、ましろは思った。
*
夜明けとともに、羽黒は仕事に向かう。
隣の部屋を使うましろは、ぐっすり眠っているらしい。山暮らしの猟師などは、わりと朝が早いはずだが――ましろは、それほど勤勉な狼では、ないようだ。
朝議に参加し、他の貴族と話をつけて、調べもののために書物庫に入る。
そこから出る頃には、日がすっかり高くなっていた。
廊下に人がいなくなったときだった。
(二人、いや、もう数人か)
床下に気配を感じる。つと、前方の官吏から声を掛けられたので、そちらに気が行く。
途端に、ずぶりと太刀が、真横の御簾から突き出された。
「ひぃい」
羽黒に声を掛けた官吏が、驚いて腰砕けになる。その襟首を掴んで引きずり、羽黒は投げた。寸前まで官吏のいた場所に、尖った黒い釘のようなものが何本も突き立っている。
羽黒は腰に帯びていた飾り用の太刀を、金具から外して、振り上げた。
「文官だからとて、なめられては困る!」
鞘のままの太刀で、刺客の急所を的確に突く。体を動かすのは清々しく、快い。刺客を次々に、廊下に転がしていった。
騒ぎに気づいて、周りの通行人が集まってくる。羽黒の腹心も、慌てて駆けつけた。
「羽黒様、ご無事でしたか」
「あぁ無事だ。久々に、演舞以外で走り回ったな」
日頃猫をかぶっている鬱憤を、これで晴らしたようだ――羽黒自身は無傷で、あまりにすっきりしているため、官吏達に恐れられた。刺客達は目を回して、誰一人起きなかった。
*
「こっちは無事か」
織機を引っ張り出すところだったましろは、突然声を掛けられて飛び上がった。
「あっえっ、あの、これはその……」
羽黒は、ぎらぎらした目で室内を見回した。どうやら、ましろの手元の品に興味はないようで、ひとしきり見た後は息をついた。
「何も来ていないな?」
「えっ、うん。どうかしたの?」
遅ればせながら、ましろも異常に気がついた。いつも、袖も冠も綺麗にして、色男としても名が通っている羽黒だが、今日はちょっと髪がほつれているし、冠が傾いていた。
「曲がってる」
直そうとしたましろに、羽黒は、いい、と手を振った。
「お兄様。喧嘩でもしたの?」
「喧嘩、のようなものだな。今日は人の近くにいろ」
「え?」
いつもなら、できるだけ引きこもっていなさいと言われる。そこをましろは、そっと出かけてきた。
利緒に顎で使われたり、笑われることもあった。貴族の娘に、これ見よがしに足を引っかけられたり、突き飛ばされたことも多々あった。相手は、この間、皇子のところへ行く途中に、指定場所の伝言をわざと変えて寄り道させた、悪知恵の働く、貴族の娘達だ。
それでも、仲のよい子もいて、それなりに毎日楽しい。
利緒が留守の日は、勝手に利緒の部屋で機織りするのが日課になっている。
羽黒が眉をひそめて言った。
「余計な心配になるかもしれないが……襲われたのでな」
「えっ、怪我はない?」
「大丈夫だ」
なるほど、それでいつもと雰囲気が違うのだ。ましろは納得して、それから、違和感に瞬いた。
「あれっ、お兄様、頭……」
見間違いだろうか。冠と、髪の色が黒いから、ほとんど分からなかったが――。
「何だ」
いらいらと、羽黒がこちらを睨む。
確信がなくて、言い出しづらいので、ましろは首を左右に振った。
「何でもない……あっ」
(やっぱり!)
ものすごく、素早く消えたが――羽黒の頭に、黒い、三角の、凛々しい、耳が、あったような気がする。
「あのっ……お兄様、は、人に、こういう、耳があるって言われたこと、ない?」
ましろが自分の頭を指さして問うと、羽黒の不機嫌そうな顔が、さらにゆがんだ。
「ないな。……幼少時、頭に蝶がとまっているとは、たまに言われたが。たいてい見間違いで、そいつは過労と診断されていた」
「そ、そうなんだ……」
(蝶じゃないけど、三角が二つあるところとかが、似てたかも)
冠があるのと、黒色のせいで、出たとしてもほとんど分からない。だが――先祖に狼がいるという噂は、本当であったらしい。
(気づいてないなら、……言わなくても、まぁ、いい、かな)
ふと思う。皇子は、これに気づいているのだろうか。
聞いてみようかと思ったが、もし皇子が気づいていなかった場合、まじまじと羽黒を観察されるだろう。本当だなと言われて、その後、羽黒が不利に追い込まれるかもしれない。
(うん。黙っていよう)
「あんまり、興奮しすぎると、頭から湯気が出てるように見えるのかも。それで頭に蝶がいるように見えるとか」
「湯気?」
何を言っているんだ。
怪訝そうに見つめられた。さすがに、ましろも居心地が悪い。
ましろは、だいたい人と一緒にいるので平気だと言っておいた。実際に、その日は利緒の部屋で、友達になった少女と布を織ったり、繕いものをして過ごした。
(やめさせて、ってあの女の人が言ってたのは、これのことかしら?)
あの女に会っていないので、確かめようはない。
腑に落ちないまま、帰り際に白露王のところへ行き、少し話す。
「ふうん。その襲撃についても、調べさせてはみるが……どうにも、きな臭いな」
「調べさせる、って。どうやって、誰に?」
「いつまでも、こんなところには、いられないからな。いろいろ、検討している」
白露王は漠然とした答えを返した。
「ましろ、あまり言いたくはないが、……ここの皇子は、戦の支度を、させているようだ」
「皇子、って、何人かいるんだっけ」
「そう。戦を企むのは、お前を連れてきた者の、兄皇子だ。今は外に出かけている。あの黒いのが、兵を並べて邪魔をしているらしく、都へ入れないでいらいらしている」
「白露王、やけに詳しいのね」
「そうだな。日がな一日、のんびりしていると、いろんな話が耳に入ってくるものだ」
ふと、風が甘く香った。匂いの元を探すと、炊事場の脇の梅が、いくつか、ほころんでいる。
「これ、この間枯れていた木?」
「そうだな」
「すごい! 咲いてる……」
白露王は苦い顔で、花を見上げた。
「そうだな……」
「どうしたの? あまり、よいことではないの?」
さわりと、風が吹き抜ける。白露王が顔をあげた。
「ましろ。母は見つかったか?」
「ううん、まだ。この間知らせた通り、布を売りに行っていたらしい場所は、分かったんだけど。確信が持てなくて。引き続き、調べてもらってる」
「そうか。早く見つかるといいな」
そうすれば、帰れるからと、白露王は、ため息のように呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます