3-8

 夕暮れが押し寄せて、空は昼と夜がせめぎあう。明葉に傷薬を塗ってもらったましろは、一人で、宿舎に戻ってきた。

 宿直の官吏が出かけていき、そうでない者が帰って来る時刻だ。廊下を歩いていると、たまに人に出会う。彼らは、ましろと出会って息を飲むが、最初の頃よりも落ち着いて、叫ばずに、すれ違ってくれる。

 ましろが、噛みついたり吠えかかったりしないし、何をするわけでもないと、分かってくれたのだろう。

 男ばかりだったが、北庭の方へ回ると、真っ白い肌の女と遭遇した。挨拶しても、いつも返事がない人だ。

 この日も、ましろは挨拶だけして通り過ぎようとした。

 突然、女がましろに何か言った。

「えっ? 何ですか?」

「……で」

 まるで、風がわずかに庭木をそよがすような声。ほとんど分からない大きさだった。

 ましろは注意深く、耳をそばだてる。

「やめさせて」

 そう聞こえた。

「誰に、何をやめてほしいんですか?」

 女は、伝わったことに満足したのか、すうっと四散してしまった。

「……何、今の」

 声が伝わったと言っても、ましろには、意味が分からなかったのだが。

「もしかして、また、」

 狼の里での、白露王の母・白妙のことを思い出して、ましろは頭がくらりとする。

(狼の婆様も言っていたっけ)

 先祖返りは、死に近い。そういう力があっても、おかしくはないと。

「……それにしても、誰に何をやめさせたいのやら」

 頬を挟んでしゃがみ、ましろはぼやく。

 だが、待っていても、あの女は戻ってこない。

(また出会ったときに聞いてみよう)

 それまでは、頭の片隅に覚えておこうと、ましろは思った。

 夜明けとともに、羽黒は仕事に向かう。

 隣の部屋を使うましろは、ぐっすり眠っているらしい。山暮らしの猟師などは、わりと朝が早いはずだが――ましろは、それほど勤勉な狼では、ないようだ。

 朝議に参加し、他の貴族と話をつけて、調べもののために書物庫に入る。

 そこから出る頃には、日がすっかり高くなっていた。

 廊下に人がいなくなったときだった。

(二人、いや、もう数人か)

 床下に気配を感じる。つと、前方の官吏から声を掛けられたので、そちらに気が行く。

 途端に、ずぶりと太刀が、真横の御簾から突き出された。

「ひぃい」

 羽黒に声を掛けた官吏が、驚いて腰砕けになる。その襟首を掴んで引きずり、羽黒は投げた。寸前まで官吏のいた場所に、尖った黒い釘のようなものが何本も突き立っている。

 羽黒は腰に帯びていた飾り用の太刀を、金具から外して、振り上げた。

「文官だからとて、なめられては困る!」

 鞘のままの太刀で、刺客の急所を的確に突く。体を動かすのは清々しく、快い。刺客を次々に、廊下に転がしていった。

 騒ぎに気づいて、周りの通行人が集まってくる。羽黒の腹心も、慌てて駆けつけた。

「羽黒様、ご無事でしたか」

「あぁ無事だ。久々に、演舞以外で走り回ったな」

 日頃猫をかぶっている鬱憤を、これで晴らしたようだ――羽黒自身は無傷で、あまりにすっきりしているため、官吏達に恐れられた。刺客達は目を回して、誰一人起きなかった。

「こっちは無事か」

 織機を引っ張り出すところだったましろは、突然声を掛けられて飛び上がった。

「あっえっ、あの、これはその……」

 羽黒は、ぎらぎらした目で室内を見回した。どうやら、ましろの手元の品に興味はないようで、ひとしきり見た後は息をついた。

「何も来ていないな?」

「えっ、うん。どうかしたの?」

 遅ればせながら、ましろも異常に気がついた。いつも、袖も冠も綺麗にして、色男としても名が通っている羽黒だが、今日はちょっと髪がほつれているし、冠が傾いていた。

「曲がってる」

 直そうとしたましろに、羽黒は、いい、と手を振った。

「お兄様。喧嘩でもしたの?」

「喧嘩、のようなものだな。今日は人の近くにいろ」

「え?」

 いつもなら、できるだけ引きこもっていなさいと言われる。そこをましろは、そっと出かけてきた。

 利緒に顎で使われたり、笑われることもあった。貴族の娘に、これ見よがしに足を引っかけられたり、突き飛ばされたことも多々あった。相手は、この間、皇子のところへ行く途中に、指定場所の伝言をわざと変えて寄り道させた、悪知恵の働く、貴族の娘達だ。

 それでも、仲のよい子もいて、それなりに毎日楽しい。

 利緒が留守の日は、勝手に利緒の部屋で機織りするのが日課になっている。

 羽黒が眉をひそめて言った。

「余計な心配になるかもしれないが……襲われたのでな」

「えっ、怪我はない?」

「大丈夫だ」

 なるほど、それでいつもと雰囲気が違うのだ。ましろは納得して、それから、違和感に瞬いた。

「あれっ、お兄様、頭……」

 見間違いだろうか。冠と、髪の色が黒いから、ほとんど分からなかったが――。

「何だ」

 いらいらと、羽黒がこちらを睨む。

 確信がなくて、言い出しづらいので、ましろは首を左右に振った。

「何でもない……あっ」

(やっぱり!)

 ものすごく、素早く消えたが――羽黒の頭に、黒い、三角の、凛々しい、耳が、あったような気がする。

「あのっ……お兄様、は、人に、こういう、耳があるって言われたこと、ない?」

 ましろが自分の頭を指さして問うと、羽黒の不機嫌そうな顔が、さらにゆがんだ。

「ないな。……幼少時、頭に蝶がとまっているとは、たまに言われたが。たいてい見間違いで、そいつは過労と診断されていた」

「そ、そうなんだ……」

(蝶じゃないけど、三角が二つあるところとかが、似てたかも)

 冠があるのと、黒色のせいで、出たとしてもほとんど分からない。だが――先祖に狼がいるという噂は、本当であったらしい。

(気づいてないなら、……言わなくても、まぁ、いい、かな)

 ふと思う。皇子は、これに気づいているのだろうか。

 聞いてみようかと思ったが、もし皇子が気づいていなかった場合、まじまじと羽黒を観察されるだろう。本当だなと言われて、その後、羽黒が不利に追い込まれるかもしれない。

(うん。黙っていよう)

「あんまり、興奮しすぎると、頭から湯気が出てるように見えるのかも。それで頭に蝶がいるように見えるとか」

「湯気?」

 何を言っているんだ。

 怪訝そうに見つめられた。さすがに、ましろも居心地が悪い。

 ましろは、だいたい人と一緒にいるので平気だと言っておいた。実際に、その日は利緒の部屋で、友達になった少女と布を織ったり、繕いものをして過ごした。

(やめさせて、ってあの女の人が言ってたのは、これのことかしら?)

 あの女に会っていないので、確かめようはない。

 腑に落ちないまま、帰り際に白露王のところへ行き、少し話す。

「ふうん。その襲撃についても、調べさせてはみるが……どうにも、きな臭いな」

「調べさせる、って。どうやって、誰に?」

「いつまでも、こんなところには、いられないからな。いろいろ、検討している」

 白露王は漠然とした答えを返した。

「ましろ、あまり言いたくはないが、……ここの皇子は、戦の支度を、させているようだ」

「皇子、って、何人かいるんだっけ」

「そう。戦を企むのは、お前を連れてきた者の、兄皇子だ。今は外に出かけている。あの黒いのが、兵を並べて邪魔をしているらしく、都へ入れないでいらいらしている」

「白露王、やけに詳しいのね」

「そうだな。日がな一日、のんびりしていると、いろんな話が耳に入ってくるものだ」

 ふと、風が甘く香った。匂いの元を探すと、炊事場の脇の梅が、いくつか、ほころんでいる。

「これ、この間枯れていた木?」

「そうだな」

「すごい! 咲いてる……」

 白露王は苦い顔で、花を見上げた。

「そうだな……」

「どうしたの? あまり、よいことではないの?」

 さわりと、風が吹き抜ける。白露王が顔をあげた。

「ましろ。母は見つかったか?」

「ううん、まだ。この間知らせた通り、布を売りに行っていたらしい場所は、分かったんだけど。確信が持てなくて。引き続き、調べてもらってる」

「そうか。早く見つかるといいな」

 そうすれば、帰れるからと、白露王は、ため息のように呟いた。

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