3-7

 利緒の部屋から戻ったましろは、織機を、自室の奥に隠していた。

「ましろ」

 羽黒が、いつもより心持ち潜めた声で呼んだ。利緒が不在のときに、利緒の部屋で機織りして遊んでいたのが知られたのだろうか。

 ましろがびくりと顔をあげると、羽黒は小さくため息をついた。

「皇子がお呼びだ」

「えっ」

 すっかり、その存在を忘れかけていた。

(皇子って、あの、黒い人よね)

 くろぐろと、不安が渦巻く。

 ましろの頭を、ぽん、と気安く、羽黒がはたいた。

「大丈夫だ。たぶん」

 不安が増す言葉だった。だが、励まそうとしたことは、よく分かった。

 頷いて、ましろは羽黒の後に続いた。

「気をつけろ」

 何を言われたのか、分からなかった。

 これまで、北庭とはいえ、日があることは分かる部屋にいたましろは、四方がすべて御簾に隠された廊下なんて、初めて見たのだ。

「わ」

 言われた端から、何かに蹴躓く。

 羽黒が素早く腕を貸して、引き起こしてくれた。

「何、今の」

「段差、もある」

「も?」

 含みを感じて、目を凝らす。

 廊下には、明かりもきちんと、ともされていない。暗く、人の気配のない部屋が、左右にがらんと続いていた。

 だのに、何カ所かで、人の声が聞こえている。くすくすと、口先で笑うような、嫌な感じだ。

 不意に羽黒が腕を引き上げる。腕に掴まっていたましろは、一瞬だけ持ち上げられた。

 爪先に何かが当たるが、躓かずに済む。

「今の」

「口に出さなくともよい」

 知らぬ間に、幾人かの女達に囲まれているようだ。おそらく、彼女達が、御簾の下から、扇や何かを差し出している。ましろが転ぶのを待っているのだ。

「くっだらない……」

「ましろ。口を慎め」

 女達は、どうやら身分の高いようだ。ましろが怒ったそぶりや、耳を見せると、あぁいやだ獣はこれだから、とか、甲高く、きゃあきゃあと笑うのだった。

「……お兄様は、こんなところで働いてるの。大変ね」

「そうでもない」

 表情の読めない声が、返ってくる。きっと、羽黒も警戒しているのだ。

(あぁそうか。私の前では、あんまり、取り繕わないのか)

 獣の耳と尾を生やすましろには、取り澄ました宮中の人間として接するに値しないらしい。

 突き当たりの御簾の前で、羽黒が膝を折る。長々とした口上が、御簾の内側から転がってくる。羽黒に袖を引かれて、ましろも座る。

 しん、と辺りが静まった。

 羽黒が名を呼ばれ、ちらりとましろを見やる。口上が小難しくてよく分からなかったが、羽黒が立ち上がって、先に戻る、と教えてくれた。

「えっ」

 こんな、薄気味悪いところで一人にされるのか。

 ましろは羽黒を見上げたが、彼は振り向かずに行ってしまった。


(で、私はいつまで、ここに座っていればいいの)

 床が冷たい。しんしんと、骨が痛む。

 再び、さざめくような笑い声が戻ってきた。

 いろんな場所から、見られている。

(ちくちくする)

「いやぁだ」

 ぴん、と、引っ張られる感覚がして、ましろは振り向く。

 くすくす笑いが続いているが、裳裾を引っ張った輩は、姿が見えない。

 袖を引かれた。あちこちから、ちまちまとやられて、ましろは心底嫌になる。

「いい加減にして。私を呼びだしたのは、皇子でしょう? 貴方達、その人よりも偉いの? そうじゃなかったら、皇子と用件も話してない私に、そういうことしないで。まだ、皇子との用事が済んでもないんだから」

 済んだら帰るし、女達を相手にするつもりもないのだが、腹に据えかねて声をあげてしまった。

 女達が嫌ぁねと笑う。

 田舎育ちはこれだから。

「そうよ。私は山で育ったの。親に愛されて、野山を駆けて、機織りも学んで、頑張ってきたの。貴方達とは、別の世界で、生きてきた。それだけのことよ」

 ましろは一息にまくしたてた。女達が一瞬だけ、黙る。

 直後にふきあがってきたのは、憎悪のような、苦く重たい気配だった。

「何なのあの子」

「つまらない」

「口ごたえなんて、して」

「人間の格好なんてして」

「あんな服、脱がせてしまいなさいよ」

「そうよそうよ」

 四方八方から、呪文のように声が騒ぐ。衣をあちこちから引っ張られ、耳も掴まれて、ましろは腕を振り回した。

「何なのよ! 文句を言いたいのはこっちの方だわ!」

「……助けておやり」

 密やかに、端の方で女の声がした。喧噪に紛れて、本来なら聞こえなかっただろうが、ちょうど、ましろの耳がそちらを向いていた。

(今の、声)

 聞き覚えがある。

(前に、うちで聞いた、)

 もう少しで、思い出せそうだ。

 そのときだった。

 御簾の端から、人が出てきた。

「邪魔です、おどきくださいな」

 剣呑に目を光らせて、小柄な少女が歩いてくる。

「あっ」

 少女の顔に見覚えがあった。子狸みたいな、くるっとした目――。

(明葉! 無事だったんだ!)

 ましろは、思わず顔を明るくする。

 明葉は苦い顔で言った。

「こちらへお呼びだてしたのは、皇子ではありません。別の方が、貴方に寄り道をさせたのです。皇子の元へ行くのに、あまり遅れられますと、私達も罰を受けてしまいかねない。なので、そろそろ案内いたします」

「え?」

 周囲の女達が、何あの娘、と囁いている。貴矢の従者よ。あぁ、地方官吏の娘。みっともない格好ね。

 ましろは思わず、御簾の向こうに言い返した。

「そんなことない、この子はすごくいい子で――」

「やめてください」

 ぴしゃりと、明葉がましろを止める。

 黙って進めと言われ、ましろは左手の御簾をくぐって、板敷きの室内をくぐり抜けた。

「呆れた方。こんなところにまで来るなんて」

 明葉が大仰なため息をつく。

「でも、おかげで助かりました。貴矢様が、もののけ憑きになったと噂されて、肩身が狭くて困っていましたから。貴方が姿を見せたおかげで、しばらく、悪い噂はすべて、貴方のものです」

「……それって、ぜんぜん褒めてないわよね?」

「そうですが、何か?」

 とりつく島もない。

 明葉が再び、ため息をついた。

「白露王といい、ふざけた方ばっかり」

「えっ? 何か言った?」

「いいえ別に。さぁ、その先です」

 灯明のある廊下を、明葉が示した。

 ましろは進みかけて、誰もついてこないので振り返った。

「明葉は?」

「私はそれ以上進めません」

 声さえ潜めている。

「待っていて差し上げますから、さっさとお行きください」

「あっ、ありがとう」


 御簾の前に、明るく、灯明がともされている。

 不意に暗闇が動いた気がして、ましろは足を止めた。

「どうした?」

 黄色みを帯びた黒い袖。内側には派手な、明るい日の色が見える。

 薄寒く笑って、闇色の目がこちらを見ている。

「何か、用?」

 声が震えないように、ましろは言う。

 切り口上になったが、皇子はふわふわと笑うだけだ。

「酔ってるの?」

「いいや? 面倒だなと思っていただけだ」

「面倒?」

 ふっと、皇子が息を吸う。暗がりに半身を預けて、廊下に立ち、笑みを深める。

「用件を説明するのも。それを知りたがる女も。お前がたどり着くまでの間に居た者や、それらが何をしたのかも。知っているが、言うのが億劫だ」

「そんなこと面倒くさがって。風邪でもひいてるんじゃない?」

「それは新しい解釈だな」

「面白くもないのに、むやみに笑うのね。必要が、あるの? 貴方自身に」

「それも仕事のうちではあるな。羽黒が教えなかったか?」

「そうね。でも、私のことを狼の子と、貴方は呼んだ。それなら、狼の前で、おかしくもないのに笑ったり、取り繕う必要があるの?」

 虚を突かれたらしく、皇子が黙る。

 さわ、と、どこからか風が通って、御簾が揺れた。御簾の奥は階段状になっているらしく、上の方で、何かが光る。

 何だろう、とましろが気を引かれていると、皇子が吐息で呟いた。

「狼の前で……か。本当に、狼の前にいるのであれば、虚勢を張らねば、いちどきに食い殺されるかもしれないな」

「私は人間なんて、食べない」

「そうか? この宮に来て、ここでものを飲み、食べ、暮らしていよう? 戦で人が死に、獣が死に、その血で満たされた畝から得られたものを食べる」

「それなら、みんな同じよ」

「同じ」

 涼しい風が、ましろの周囲を流れていく。

 皇子の視線の先を追う。御簾の奥にうすぼんやりと、四角いものが見える。

「あれ、何?」

「あれは……」

 口を開きかけ、ためらってから、皇子は喉奥で吐き捨てた。

「おおかみだ」

「え?」

「音が同じ。先祖をまつる霊廟であり、彼らの怒りを鎮める場所」

 皇子は、そうとは全く思っていない、心のない口調だった。

「狼?」

「大神」

 ふと、ましろは御簾から視線を戻した。近くに、熱源を感じたのだ。一拍遅れて、額の触れそうな距離で、顔を覗き込まれていると気がついた。

「何よっ」

 逃げずに、皇子を睨み返す。

「いや? 野で育つと、こうも変わったものが生かされるのだなと、感心している」

 嘲りを感じて、ましろは相手を突き飛ばそうとした。が、皇子はからかうように、素早く身を翻す。

「つまらん野良犬だよ」

 そのまま、暗闇の向こうへ行ってしまう。

 ましろはしばらく、廊下の奥を見ていた。

 もう皇子は来ないようだと判断すると、引き返す。

 明葉が、怪訝そうにましろの頬を指さした。

 いつの間にか、薄く、ひとすじ、引っかかれたようなあとが残されていた。

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