3-7
*
利緒の部屋から戻ったましろは、織機を、自室の奥に隠していた。
「ましろ」
羽黒が、いつもより心持ち潜めた声で呼んだ。利緒が不在のときに、利緒の部屋で機織りして遊んでいたのが知られたのだろうか。
ましろがびくりと顔をあげると、羽黒は小さくため息をついた。
「皇子がお呼びだ」
「えっ」
すっかり、その存在を忘れかけていた。
(皇子って、あの、黒い人よね)
くろぐろと、不安が渦巻く。
ましろの頭を、ぽん、と気安く、羽黒がはたいた。
「大丈夫だ。たぶん」
不安が増す言葉だった。だが、励まそうとしたことは、よく分かった。
頷いて、ましろは羽黒の後に続いた。
*
「気をつけろ」
何を言われたのか、分からなかった。
これまで、北庭とはいえ、日があることは分かる部屋にいたましろは、四方がすべて御簾に隠された廊下なんて、初めて見たのだ。
「わ」
言われた端から、何かに蹴躓く。
羽黒が素早く腕を貸して、引き起こしてくれた。
「何、今の」
「段差、もある」
「も?」
含みを感じて、目を凝らす。
廊下には、明かりもきちんと、ともされていない。暗く、人の気配のない部屋が、左右にがらんと続いていた。
だのに、何カ所かで、人の声が聞こえている。くすくすと、口先で笑うような、嫌な感じだ。
不意に羽黒が腕を引き上げる。腕に掴まっていたましろは、一瞬だけ持ち上げられた。
爪先に何かが当たるが、躓かずに済む。
「今の」
「口に出さなくともよい」
知らぬ間に、幾人かの女達に囲まれているようだ。おそらく、彼女達が、御簾の下から、扇や何かを差し出している。ましろが転ぶのを待っているのだ。
「くっだらない……」
「ましろ。口を慎め」
女達は、どうやら身分の高いようだ。ましろが怒ったそぶりや、耳を見せると、あぁいやだ獣はこれだから、とか、甲高く、きゃあきゃあと笑うのだった。
「……お兄様は、こんなところで働いてるの。大変ね」
「そうでもない」
表情の読めない声が、返ってくる。きっと、羽黒も警戒しているのだ。
(あぁそうか。私の前では、あんまり、取り繕わないのか)
獣の耳と尾を生やすましろには、取り澄ました宮中の人間として接するに値しないらしい。
突き当たりの御簾の前で、羽黒が膝を折る。長々とした口上が、御簾の内側から転がってくる。羽黒に袖を引かれて、ましろも座る。
しん、と辺りが静まった。
羽黒が名を呼ばれ、ちらりとましろを見やる。口上が小難しくてよく分からなかったが、羽黒が立ち上がって、先に戻る、と教えてくれた。
「えっ」
こんな、薄気味悪いところで一人にされるのか。
ましろは羽黒を見上げたが、彼は振り向かずに行ってしまった。
(で、私はいつまで、ここに座っていればいいの)
床が冷たい。しんしんと、骨が痛む。
再び、さざめくような笑い声が戻ってきた。
いろんな場所から、見られている。
(ちくちくする)
「いやぁだ」
ぴん、と、引っ張られる感覚がして、ましろは振り向く。
くすくす笑いが続いているが、裳裾を引っ張った輩は、姿が見えない。
袖を引かれた。あちこちから、ちまちまとやられて、ましろは心底嫌になる。
「いい加減にして。私を呼びだしたのは、皇子でしょう? 貴方達、その人よりも偉いの? そうじゃなかったら、皇子と用件も話してない私に、そういうことしないで。まだ、皇子との用事が済んでもないんだから」
済んだら帰るし、女達を相手にするつもりもないのだが、腹に据えかねて声をあげてしまった。
女達が嫌ぁねと笑う。
田舎育ちはこれだから。
「そうよ。私は山で育ったの。親に愛されて、野山を駆けて、機織りも学んで、頑張ってきたの。貴方達とは、別の世界で、生きてきた。それだけのことよ」
ましろは一息にまくしたてた。女達が一瞬だけ、黙る。
直後にふきあがってきたのは、憎悪のような、苦く重たい気配だった。
「何なのあの子」
「つまらない」
「口ごたえなんて、して」
「人間の格好なんてして」
「あんな服、脱がせてしまいなさいよ」
「そうよそうよ」
四方八方から、呪文のように声が騒ぐ。衣をあちこちから引っ張られ、耳も掴まれて、ましろは腕を振り回した。
「何なのよ! 文句を言いたいのはこっちの方だわ!」
「……助けておやり」
密やかに、端の方で女の声がした。喧噪に紛れて、本来なら聞こえなかっただろうが、ちょうど、ましろの耳がそちらを向いていた。
(今の、声)
聞き覚えがある。
(前に、うちで聞いた、)
もう少しで、思い出せそうだ。
そのときだった。
御簾の端から、人が出てきた。
「邪魔です、おどきくださいな」
剣呑に目を光らせて、小柄な少女が歩いてくる。
「あっ」
少女の顔に見覚えがあった。子狸みたいな、くるっとした目――。
(明葉! 無事だったんだ!)
ましろは、思わず顔を明るくする。
明葉は苦い顔で言った。
「こちらへお呼びだてしたのは、皇子ではありません。別の方が、貴方に寄り道をさせたのです。皇子の元へ行くのに、あまり遅れられますと、私達も罰を受けてしまいかねない。なので、そろそろ案内いたします」
「え?」
周囲の女達が、何あの娘、と囁いている。貴矢の従者よ。あぁ、地方官吏の娘。みっともない格好ね。
ましろは思わず、御簾の向こうに言い返した。
「そんなことない、この子はすごくいい子で――」
「やめてください」
ぴしゃりと、明葉がましろを止める。
黙って進めと言われ、ましろは左手の御簾をくぐって、板敷きの室内をくぐり抜けた。
「呆れた方。こんなところにまで来るなんて」
明葉が大仰なため息をつく。
「でも、おかげで助かりました。貴矢様が、もののけ憑きになったと噂されて、肩身が狭くて困っていましたから。貴方が姿を見せたおかげで、しばらく、悪い噂はすべて、貴方のものです」
「……それって、ぜんぜん褒めてないわよね?」
「そうですが、何か?」
とりつく島もない。
明葉が再び、ため息をついた。
「白露王といい、ふざけた方ばっかり」
「えっ? 何か言った?」
「いいえ別に。さぁ、その先です」
灯明のある廊下を、明葉が示した。
ましろは進みかけて、誰もついてこないので振り返った。
「明葉は?」
「私はそれ以上進めません」
声さえ潜めている。
「待っていて差し上げますから、さっさとお行きください」
「あっ、ありがとう」
御簾の前に、明るく、灯明がともされている。
不意に暗闇が動いた気がして、ましろは足を止めた。
「どうした?」
黄色みを帯びた黒い袖。内側には派手な、明るい日の色が見える。
薄寒く笑って、闇色の目がこちらを見ている。
「何か、用?」
声が震えないように、ましろは言う。
切り口上になったが、皇子はふわふわと笑うだけだ。
「酔ってるの?」
「いいや? 面倒だなと思っていただけだ」
「面倒?」
ふっと、皇子が息を吸う。暗がりに半身を預けて、廊下に立ち、笑みを深める。
「用件を説明するのも。それを知りたがる女も。お前がたどり着くまでの間に居た者や、それらが何をしたのかも。知っているが、言うのが億劫だ」
「そんなこと面倒くさがって。風邪でもひいてるんじゃない?」
「それは新しい解釈だな」
「面白くもないのに、むやみに笑うのね。必要が、あるの? 貴方自身に」
「それも仕事のうちではあるな。羽黒が教えなかったか?」
「そうね。でも、私のことを狼の子と、貴方は呼んだ。それなら、狼の前で、おかしくもないのに笑ったり、取り繕う必要があるの?」
虚を突かれたらしく、皇子が黙る。
さわ、と、どこからか風が通って、御簾が揺れた。御簾の奥は階段状になっているらしく、上の方で、何かが光る。
何だろう、とましろが気を引かれていると、皇子が吐息で呟いた。
「狼の前で……か。本当に、狼の前にいるのであれば、虚勢を張らねば、いちどきに食い殺されるかもしれないな」
「私は人間なんて、食べない」
「そうか? この宮に来て、ここでものを飲み、食べ、暮らしていよう? 戦で人が死に、獣が死に、その血で満たされた畝から得られたものを食べる」
「それなら、みんな同じよ」
「同じ」
涼しい風が、ましろの周囲を流れていく。
皇子の視線の先を追う。御簾の奥にうすぼんやりと、四角いものが見える。
「あれ、何?」
「あれは……」
口を開きかけ、ためらってから、皇子は喉奥で吐き捨てた。
「おおかみだ」
「え?」
「音が同じ。先祖をまつる霊廟であり、彼らの怒りを鎮める場所」
皇子は、そうとは全く思っていない、心のない口調だった。
「狼?」
「大神」
ふと、ましろは御簾から視線を戻した。近くに、熱源を感じたのだ。一拍遅れて、額の触れそうな距離で、顔を覗き込まれていると気がついた。
「何よっ」
逃げずに、皇子を睨み返す。
「いや? 野で育つと、こうも変わったものが生かされるのだなと、感心している」
嘲りを感じて、ましろは相手を突き飛ばそうとした。が、皇子はからかうように、素早く身を翻す。
「つまらん野良犬だよ」
そのまま、暗闇の向こうへ行ってしまう。
ましろはしばらく、廊下の奥を見ていた。
もう皇子は来ないようだと判断すると、引き返す。
明葉が、怪訝そうにましろの頬を指さした。
いつの間にか、薄く、ひとすじ、引っかかれたようなあとが残されていた。
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