3-2
*
「よく、参った」
高価な藺草の畳を敷き、豪華な縫い取りを施した布を惜しげもなく踏みつけて、男はゆったりと座り、微笑んだ。
「具合はいいか?」
「そうね。皆、よくしてくれたわ」
声はこわばったが、ましろは背筋をただして、男を睨む。
ここまでの道中で、彼が皇子と呼ばれる身分の人、ということは分かった。
この、広々とした宮中の、幾つもある建物のうち、端の一つをまるまる占拠しているような――つまり、それなりに権威ある人だということも知った。
(それで?)
だから何。
「この宮では、室を与えてもよいが――後見がおらぬのでは、どうにも居づらいだろう」
涼しげな笑みが、とてもかんに障る。
「それで。何なんですか」
睨みつける。皇子は気にせず、話を続けた。
「以前、同じ境遇の者がいると、言ったことを覚えているか」
「同じ境遇?」
「古くは狼の血を引くと言う男がいてな」
「狼……?」
「芝浦呉羽(しばうらくれは)の息子。羽黒(はぐろ)」
名を呼ばれるのを待っていたかのように、御簾をあげて、黒い袖と同色の袴、冠の男が現れた。始終目を伏せ、皇子に話しかけられると丁寧に受け答えする。
「この娘はましろ。見れば分かるとおりの者だ」
緊張で、ましろの耳が出ているからだろう。かぶっていた布も、ましろはどこかで落としてきてしまったのだ。
羽黒と呼ばれた男は、うろんげな視線をましろに向けた。皇子は少し、笑みを深める。
「異な縁だが、狼のようだと言われたそなたの家なら、後見できよう」
羽黒はしばし沈黙した。暇なので、ましろは彼をじっと見る。顔立ちは整っている。歳も、皇子と近いようだ。皇子とは違い、女のようだとは見えなかった。
「おそれながら殿下。……我が一族がそう呼ばれるのは、昔の戦の功績によります。実際に狼だったわけでは……」
「そなたは、異を唱えるのか?」
沈黙がおりた。
それで、話は決まりだった。
羽黒はため息をつきたそうに、承知いたしましたと答える。
「この娘は、私が責任を持ってお預かりいたしましょう。普通の、我が家の娘と同じような養育をすれば、よろしいですか」
「そうだな。お前の室の隣にでも、飼ってやれ。兄と妹のように暮らすとよい」
話は以上だとばかりに、皇子は扇で御簾を示す。視線で呼ばれて、ましろは羽黒の後に続いた。
幾度か角を曲がり、宿舎らしきところの、さらに奥へ向かう。どうやら何人か、よい立場の者は、棟を貸し切るようなまねができているらしい。
「本来は、外の別宅に連れていくべきなんだろうが、あの方がどこまで望まれているのか分からない。宮を出しては不興を買うおそれもある。それゆえ、ひとまず、ここの端で寝泊まりさせる」
北庭の見える廊下で、足を止めて羽黒が言った。ましろは頷き、羽黒を見上げた。
「よろしくお願いします、えぇと、羽黒さん?」
羽黒の眉間の皺が取れない。何だろう、と首を傾げると、羽黒が頭の辺りを視線で指した。
「その、耳としっぽをしまってくれ。落ち着かない」
「あっ、えっ」
ましろは慌てて頭に手をやる。柔らかな短い毛と、三角のとがった耳が、手に触れた。
押さえてみるが、変化はない。
「隠せないなら、何かかぶるか。髪を結うか」
羽黒は気のない口調だった。興味をあまり持てないらしい。ましろは、女達の言葉を思い出して、首を振った。
「いいの、これは、そういうものだから。隠さないでいこうと、思う」
「いいのか? ここでは、いちいち、ものを言ってくる輩も多いが」
「えぇと、羽黒さんには、迷惑をかけると思うけど……ここまで来る間に、一緒にいた女の人達が、こういうのも世の中にはいるもんだから、隠さなくたっていいって言ってくれて……」
「そうか?」
怪訝な視線にさらされて、ましろは、間違ったような気もして、うつむいた。
「まぁいい。後で従者に片づけさせるが、ここで籠もっていろ。外に出るな」
指さされた部屋は、御簾と棚が一つきりの、狭い場所だった。
昼間だからか、周辺には誰もいない。隣の部屋をちらりと覗くと、うず高く書物が積まれていた。
うわっ何あれ、という顔で室内を見ているましろに、ふと羽黒がそれらの書物のうち、奥の方にあったものを掴んで、渡してくれた。
「何これ」
「読んでいろ」
表紙には四書五経の一部巻の名が記されていた。
*
「本当に、出かけるなってことね」
忙しげに行ってしまった羽黒を見送って、ましろは書物を適当にめくった。
「読み方も分からないんだけど。せめて、機織りの教科書とかだったらよかった」
さわさわ、と、北庭で、見知らぬ草花が揺れている。書物を置いて、ましろは裸足で土へおりた。
「変な靴を履かされっぱなしで、窮屈だったわ!」
しみじみと思いながら、草を観察する。
剣先のように鋭い草は、茅の仲間だろうか。黄みの緑色がとれるかもしれない――ましろは引き抜こうとしたが、いったんやめた。近くの部屋には、火鉢と桶や、鍋もあったが、湯を沸かすためのもののようだ。布を染めるのには小さくて、難しそうである。
「羽黒さんに、頼んでみようかな」
板を渡した廊下に、足音が響いた。といっても、裳裾を引きずるかすかな音だ。
ふくよかな女が現れて、きょろきょろしていたが、庭でしゃがんでいるましろに目を留めた。
「まぁ! 貴方が、殿下のお連れした方ですか」
大声を急に出されて、ましろはびっくりして飛び上がる。
その様子が子犬のようだったのだろう、あらごめんなさいねと、女が下手に出て言った。
「山育ちの、変わった子だとしか聞いていなかったものだから。あらまぁ、確かに変わった姿で。それよりも、裸足で、その格好で地面に直接おりてはいけませんよ」
母親みたいな口調でさばさばと言われたものだから、ましろは、急いで廊下にあがろうとした。
「待って待って。足裏を拭いてからです」
女は、近くの机に置かれていた古布を取り上げ、湯で濡らしてから、ましろの足裏を拭いてくれた。
「さて。人の言葉は分かりますか?」
「分かります」
ましろは、たまに獣の耳と尾が出るとはいえ人の言葉しか分からない。女は短く頷いた。
「殿下のお声がかりとはいえ、急にこのようなところに連れてこられて、心細いでしょう」
「あの人と出会った最初のときより、ずいぶんましです」
矢で射られたとか、そうしたことは、あまり思い出したくないし、話したくない。
ましろは、耳と尾があるから連れて来られたのだろう。だが、そもそもましろは、人間として暮らしてきたのだ。人間として扱ってもらえるように、ちゃんと振る舞いたかった。
「どういう指示を受けました?」
「羽黒さんからは、ここにいろと言われました」
書物を指して、ましろは言う。
「もう少し簡単なものを借りて、読み書きが分かるようになれば、あれも読めるとは思うんですけど……」
「まぁ。あれは基本的には、殿方の勉学の本ですよ。女が教養のために読んで、悪いものではありませんが」
その他、いくつか質問をされた。読み書きのことや、縫い物、舞ができるかどうかなどだ。ここに来る道中に教えてもらったことと、山で学んだ草花のことは、答えられた。
代美(しろみ)と名乗った女は、ましろの着崩れた衣装を直すと、ついてこいと行って歩き始めた。
「普通、男女は別棟で暮らすものですよ。羽黒様は融通がきかないんですから」
複数の、建物同士を繋ぐ、廊下を渡っていく。さっきまでの、埃と土と書物の匂いが、遠ざかった。いつの間にか、化粧や体臭の、甘ったるい香りに変わる。
すれ違う人々は、色とりどりの着物をまとっていた。ましろの耳を見て、時折顔をしかめたり、あからさまに「もののけだ」と罵りもする。
久しぶりの感触に、ましろは、かえって奮起した。自分は、先祖返りなだけであって、耳と尾があって悪いわけでは、ないのだ。
やがて、ましろと年頃の近い、若い娘ばかりが集まっている部屋にたどり着いた。
皆、一様に、ぽかんとしてこちらを見る。
代美は、ましろを「羽黒の遠縁の、妹のような者」と言って紹介した。衣装替えをさせてから、この部屋の主の友人として、恥ずかしくないように、学ばせてやるように指示をした。
代美が去ると、興味深そうにしていた子が、近づこうとする。だが、奥にいた身綺麗な子がそれを阻んだ。
肌の白い、日に当たったことのなさそうな、なよやかな少女だった。
「貴方のお兄様は、お元気?」
鈴振るような声で、姫君が首を傾げる。可愛らしい仕草が、子狼の白露王に似て見えて、ましろは思わず微笑んだ。
「私に兄はいませんけど、……羽黒さんのことですか」
「そう。殿下は、羽黒様が可愛い子を妹として引き取った、と仰っていたのだけれど」
「……では、そういうことでも、いいです」
「変な方ねぇ」
柔らかい口調だけれど、うっすらとしたトゲを感じる。おや、とましろは眉を上げた。
「貴方のお兄様は、とてもとても、勤勉な方。法律や、異国の風習も勉強なさって、今や、殿下の信任も厚い。その、お邪魔になるようなことは、妹御は慎まなくてはねぇ」
周囲の空気を、彼女が染め変えていく。貴矢ほど騒ぎ立てないが、もののけが気に入らない点は、貴族の娘らしかった。
「だから、私の部屋に、仕事にいらしていいのよ。あんな、殿方ばかりの場所は、つまらないでしょう? 縫い物や歌や踊り、私達が知っておかなくてはいけないことを、教えて差し上げる」
教えてあげる、という甘い口調だが、真意はどうだろうか。
(でも、まぁ、行くところもないし)
ましろは気軽に頷いた。
「代美さんも、言われてましたし、よろしければお願いします」
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