2-6
*
次の日、薄靄の漂う中、ましろは木立の中に入った。世話になった狼達に礼を言い、踏み出したものの、心配そうに見送られてそわそわした。
「本当に大丈夫? 前より、靄が濃いし」
「大丈夫、大丈夫」
白露王が、人の姿で先導する。
歩きやすいような道を示してくれるため、来たときよりは楽だった。
途中、赤茶の髪の若者を見かけた気がしたが、遠かったので見間違いかもしれない。
狼達の気配が遠ざかる。
きっと、たぶん、二度とは来ない。
するりと、水面に踏み込んだような感触がした。靄の質が、さっきと違う。
さらさらと小川の流れる音が聞こえる。
小鳥が鳴く。
苔を踏むと、虫が転がり出す。
「あ」
帰ってきたのだ。
見知った形の山道に出た。
このまま、これまで通りの生活に、戻れるのだろうか。
――先祖返りは、普通より死に近いのかもしれんのう。
老婆の声が、耳の奥に甦る。白妙のことを話したら、出がけに、そんなことを言っていた。幸いあれと、祝いを述べてもくれた。
(分からないけど)
見慣れたはずの、小屋に帰る。戸を開けると、最後に見たときのままだった。
「明葉達、無事かな」
「寝込んでいた者達か? どうだろう。捜させておこうか?」
「無理しないで。もし、見かけたら、教えて」
「分かった」
子狼姿の白露王が、短い首を動かして頷いた。白露王は、山を下りる頃から、呪いがとけていないのか、ほとんど子狼の姿ばかり取っていた。
「ましろ、疲れたろう」
「大丈夫。貴方が道案内してくれたから」
(あ、あの色糸、そろそろ染めないと)
やりたいことなんて思いつかない、と最初は思ったけれど、室内をぼんやり見ていると、少しずつ、泡のように浮かび上がってくる。
「ねぇ白露王。あの里で貰った木の実、幾つか持って帰ってしまったけど、問題ない?」
「実?」
懐から取り出すと、白露王が眉間にぎゅむと皺を寄せた。
「うーん。外の人間に与えない方がいいな。外にはあまり生えてない木の、実だから」
「そうなんだ。ごめんなさい、煮出して、糸を染めようかなって思って、持ってきたの」
「食べたり、植えたりしなければ問題ない」
何の実か、聞こうとしたとき。
人の声が近づいてきた。
迷いなく、こちらの方へ来るようだ。
ましろは慌てて、戸の陰に隠れる。白露王が足下で、じっとした。
「しかし、面倒じゃのう」
中年くらいの、男達が、弓や斧をさげて、山道を抜けていく。
「本当に、おるのかのう」
「おぉ怖い怖い」
「何にしても、おっかない」
「ただの小娘が、狼にさらわれただけじゃないかい」
ましろは、注意深く、聞き耳を立てる。
「皇子の目の前で、狼にさらわれたんだろ?」
「慈悲深いのか何なのか、皇子もよく分からん御方だ」
「狼なんか追っても、今更だろうにのう。その娘も、獲物と見なされたんなら、もう命なんぞなかろうに」
(もしかして、私のこと? 私が、狼についていったのが、そういう話になってる?)
それとも、他に誰かが、狼に連れ去られたのだろうか。男の一人が、嘆息した。
「こないだ、畑の境界を広げすぎてた権助んとこも、狼の怒りを買って食われたくらいだ。あんまり山ぁ歩きすぎると、よけいな怒りをぶつけられそうで、恐ろしい」
「そうだのう」
そのまま、身をすりあわせるように、男達は震えて、山に入り、去っていく。
「……白露王、今のって」
「うん。ましろが俺達についてきたのが、あの黒い奴には、さらわれたと見えたのかもしれないなぁ」
悲鳴と物音が、遠くから聞こえた。
ましろは白露王と顔を見合わせる。
「どうするの?」
「見てきてもいいが、お前はどうする?」
「どう、って」
「お前が早く見つかれば、山狩りをさせられている者も早く家に帰れる。だが、お前自身がどうなるのか分からない以上、あんまりすすめることもできない」
悲鳴が重なった。
「もし、他の人が私と間違われて射られたりしてたら、嫌」
自分だって怖い。けれど、人違いも恐ろしい。ましろは一度目を閉じ、ぎゅっと力を入れた。
「行く」
「じゃあついてこい。俺の方が、安全な道を選べるだろう」
白露王が勇ましく駆け出す。子狼の足だが、とても速い。ましろも慌てて後に続いた。
何度か、鳥を撃つ者を見かけた。狼は見ない。皆、人を恐れて隠れているようだ。
水汲みに通い慣れた小川が見えてくる。
「!」
驚くあまり、思わずましろの足が止まった。
川原に数人、村人がいた。膝をついて、うなだれている。後ろに縛られた手は、時間が経ったせいか、薄紫に変化していた。
その中に、ましろに村へ来いと言った少年も混ざっていた。
「どうしたの!?」
駆け出そうとしたましろの足下で、白露王が「よせ!」と短く吠える。だが、制止が遅かった。
「撃て」
その声は、こんな鄙びた山奥でも、清く、凛と響いていた。
木立に隠れて見えにくい位置に、あの黒衣の男が、涼しく笑って立っていた。周囲に、優雅な踊り手の女や、狼に対処できる武具をまとった者、長持ちを運ぶ者や、もっと多くの者達を連れている。
男の声に従って、数人が弓を引いた。紙を後ろに結びつけた矢が、ひょう、と空気を裂いて飛ぶ。呪い矢だろうか。
身を守るものもなくて、ましろは後退して木陰に逃げ込む。だが、後ろから忍び寄っていた狩人達が、ましろの背を押し、突き転がした。小川のほとり、小石の上で、ましろは取り押さえられてしまった。
「無事だったか? ずいぶん捜させたぞ」
男が微笑み、近づいてくる。
「とても無事を祈ってる感じは、しないわね」
うつ伏せに地面に押しつけられ、ましろは相手を睨みつけた。
男は、いっこうに気にしない。
「お前の友人らは口がかたい。獣の子一匹、石つぶてを投げていたくせに、今になってどうした友情かな」
ましろについて、少年や、他の村人達は、この男に何も言わないでいたようだ。もっとも、言えるほど知らない、ということもあるのかもしれない。
「一人では嫌だったか? 家の者も留守居のようだが、ともに招こうか」
「貴方ねぇ!」
呆れ果てて、ましろは言葉が選べない。
「いったいどうして、私なんかを」
言い募ろうとしたとき、ぎゃっと、嫌な声がした。
「は……シロ!?」
この場で、本当の名を呼んでよいか分からなくて、ましろはとっさに言いかえた。どうにか振り向くと、ぶたれた子狼が、半分目を回しながら、籠に放り込まれるところだった。
「シロは関係ないでしょ!?」
「アレは手向かった」
「どうするの」
「どうもしないな。お前が来ると言うのなら、子犬一匹、飼うことも許されぬでもない」
白く、ふくふくしているためか、白露王は狼とは思われなかったようだ。ただし、今すぐ殺されはしないだろうが、このままだとどうなるか分からない。
ましろは歯がみしながら、男を睨んだ。
「貴方は一体何なのよ」
男が微笑む。艶やかで、女のようでもあり、けれど凛として、底が知れない。
「この御方は帝の御子であらせられる」
横から、お付きの者がぴしゃりと言う。
自分で名乗る名前がない、というのも、変な話だなとましろは思うけれど、それ以上聞いても無駄なようだ。
(庶民には、教えないってこと? それとも)
知っていて、当たり前の名前なのだろうか。
「教えて。どうして私を連れていこうとするの、見せ物にでもしたいの?」
「よいね。見せ物も」
窮地を、自らの言葉で招いてしまったことに気づいて、ましろは青ざめた。
「ふざけてないで。どうしてなの」
「なぜ、なぜ。女はそればかり言う」
興ざめしたように呟いてから、男は扇を開け閉めし、不意にましろの顔をあげさせた。
「いにしえの生き物を、そうだな、見せてやりたい者がいる。そうだな、それがいい」
行きあたりばったりとしか思えない言葉に、ましろは何度目か、ぞっとした。
(このまま嫌がっていても、埒があかない)
白露王は籠の中で目を回している。
他の狼達は、いないのか、近づいてこない。
少年達は怒りを押し殺し、充血した目で権力者達を睨んでいる。
(決めた)
ましろは、深く息をつく。
(いざとなれば、隙をついて逃げればいい)
貴矢が、彼らの元から逃げ出したように。
「……ついていってもいいけど、一つ教えて。貴方が捜していた、呪い品を受け取った女の人は、無事?」
「あれは回収した。考えれば、それなりに重要な貴族の、差し金の娘だったものでな」
(落ち着いて私……!)
人を人とも思わぬ言葉に、ましろは怒りで目の前が白くなったり暗くなったりしつつ、もう一つ聞いた。
「従者の子も無事なの?」
「あの女に対して、かいがいしく世話を焼いているようだな」
なぜ聞く、とは言わずに、男の黒い瞳が、ましろを貫く。
「ついて、行ってもいい。でも、嫌になったら、すぐに帰して。シロも、ちゃんと大事にさせて」
「――いいだろう」
ましろが断っても、どうせ、殺すか無理に連れていくか、したことだろう。
だからこれでいいのだ。
(なのに、どうして)
「お前と似た境遇の者もいる。楽しみにしていろ」
震えが止まらない。ましろは、見知らぬ女達に引き渡され、おそるおそる身繕いされ、彼女らと同じ衣装を着せられた。縄で手足を結ばれたまま、ましろはぼんやりと空を見る。
どこかで、狼が遠吠えする叫びが聞こえた。
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