2-4

 日が落ちると、急に寒くなる。開けた場所に、狼の人達が集まってきた。子どもはいない。皆、寝かしつけた後だと、周りの会話から分かってきた。

「ましろ」

 白露王に呼ばれ、ましろはごく、と唾を飲み込む。周囲の視線が、みっしりと突き刺さるようだった。白露王と、それ以外に利路がちょっと微笑んでくれたので、私は何も悪いことはしていない、と、ましろは胸を張った。

 車座になって、たくさんの人の中、白露王の隣に座った。

 人間である、ということに配慮してもらえたのか、ましろは、穀物と木の実を器に盛ったものを与えられた。周囲の者らは、果物の杯や何かを煮込んだもの、それに濁って甘い香りのする酒を並べて、談笑している。

 ましろは木の実を口に入れる。意外とおいしい。何の実だろう。茶色だけれど、煮たら青緑色が出そうな気がする。

 笑い声が、空気を和やかにしていた。焚き火を囲む人々をそっと観察してみる。一枚布を羽織り、袖を通して帯で止めるだけの上着。筒型の下衣に足を通して履き、編み靴や草鞋、あるいは裸足で座っている。男女の違いはほとんどなかった。ただ、男達は刀か弓矢を腰に下げている。

 すっと、端の方から静かになった。よろめきながら、枯れ木よりも細い老婆が、意外にしっかりとした足取りで現れた。焚き火の前で立ち止まる。

「婆様」

 老婆の前で、一度膝をついて頭を垂れ、白露王が再び座に戻った。老婆は頷き、また頷きして、自分のためにしつらえられた、可愛らしい刺繍のある布の上に腰を下ろした。近くだったため、反射的にましろは、老婆の杖を受け取った。見た目より、ずっと重たくて、驚いた。

 いくつか、白露王が老婆に説明する。老婆は、知っていると頷いている。

「ところで白露王。その娘はどうするのだ?」

 不意に、はっきりと声が通った。老婆の言葉に、白露王が首を傾げる。

「どう、とは?」

「ここに置くのか。返すのか」

「この子の……ましろの望み通りにします。俺が呪いを踏みつけたりして、こいつらが心配して無理に連れていこうとするから、ましろが心配して様子を見に来た。事情はそういうことなので」

「では、ましろ。お前はどうしたい」

 老婆の目が、ましろを射る。初対面なのに、驚くほどまっすぐに、目の奥の、奥、どこか遠くを見通された。

「私、は」

 自分の中が、透明で、明るくて、何もないようで、不思議に風が通るようだった。

 そこにある答えは、決まっていた。母もいなくて、見知らぬ人の中にいるなら、どこにいても変わらない。ただ、ここで、これまで通りの生活ができるとは思えなかった。

「一度、帰ります。ここは、狼の里でしょう? 私は人間で、たぶん人間のすることしか、しない。できない。それに、……母を、待っていないと。出かけたまま、戻っていない母を。私が、あの場所からいなくなっていたら、会えないかもしれない」

「ふう、む」

 老婆が唇を動かした。

「では、望むようにしよう。白露王、お前が連れてきた者だ、お前が送り届けよ」

「分かりました。他にも聞きたいことが」

「何だ」

「ましろは自分を人間だと言うが、耳と尾が出る。どうも親父殿と似ている気もするし、遠い親戚か何かだろうか」

「いや。お前の父親とは関係がないだろう」

 老婆は、薄青くさえ見える、澄んだ目で空を撫でた。

「おそらく、先祖返りだろう」

「先祖返り……」

「遠い昔、神々と精霊と星の息吹が、まだ獣と人と植物と鉱石と通っていた頃。人と狼も情を交わしたことが、あっただろう。その血が、ふとしたときに甦る。その娘は、ひどく遠い血の、甦りだ」

 再び、獣達の視線を浴びて、ましろは口を引き結ぶ。狼の、子ではないが、先祖のどこかには、それが、いたのだ。

「それは、その娘の落ち度ではない。生まれ育ちの中で、発現しないこともあるが……兄姉はおらぬか。そこにも、同じ者がいないか」

 ましろは、老婆に視線を向けられ、急いで頭を振った。

「いません。私は母さんと、二人きりで暮らしていたので」

「そうか。母か父の係累には、何度か現れたものかもしれない。悪いものではないゆえ、気に病むことはない」

「こんなに、似て見えるんだがなぁ」

 白露王が嘆息する。周りの人々が鼻を鳴らして、いや似てない、いやいや、どうか分からない、などと、ましろのことを品評した。

 老婆が、やれやれとため息をつく。

「白露王。お前がそう感じたのは、おそらく近しく思えたからだ。理由のいかんはあえては言わぬが」

「理由?」

 何だか微妙な空気が漂っている。

(何?)

 知りたいが、今ここで辺りを見回す勇気は、出なかった。

 白露王が、空気をまるで気にせずに言う。

「よく分からないが、まぁ、しばらく逗留してもよいというのは、約束されたな。他に聞いておきたいことはなかったか、ましろ」

「えっ……あの、母のことを……」

 不意をつかれて、ましろは思わず言ってしまった。老婆が、まっすぐな眼差しで、言葉を返す。

「白露王から話は聞いている。捜させる、と言うから、捜させていよう」

「あぁ。捜させている」

「では、それでよい。あえて言うことはない」

 辺りが静かになる。ましろについては、話が終わったのだ。ほっとしたような顔で、周りの者が、火に薪をくべる。

「では西端の畑について――」

 知らない土地の、知らない会議は、ましろには呪文のようで意味が分からない。

 思い出したように、体の疲れと、眠気が襲ってきて、ましろは小さく船をこぐ。

 白露王が、ばさ、と自分の上着の中に、ましろを押し込んだ。

「えっちょっと待って、何!? 暗い!」

「まぁ寝ていろ。こうしていれば、迷子になることもないし」

 子どもみたいだと周囲がからかう。白露王は、ましろの背中辺りを叩いてあやしながら、

「外で子狼になっていたとき、こうして助けてもくれたからなぁ。おんなじだ」

 笑っていた。

 ましろも、初めは、恥ずかしいやら何やらで慌てていた。だが、人の視線が遮られる安堵感は、やがて再び睡魔を呼んだ。

 会議はのんびりと進んでいる。

「白妙(しろたえ)様がおられればなぁ」

 ひそひそと呟く声に、白露王が苦笑いしている。

「白妙は戻らない。だったら、俺達がやるだけだな」

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