2-4
*
日が落ちると、急に寒くなる。開けた場所に、狼の人達が集まってきた。子どもはいない。皆、寝かしつけた後だと、周りの会話から分かってきた。
「ましろ」
白露王に呼ばれ、ましろはごく、と唾を飲み込む。周囲の視線が、みっしりと突き刺さるようだった。白露王と、それ以外に利路がちょっと微笑んでくれたので、私は何も悪いことはしていない、と、ましろは胸を張った。
車座になって、たくさんの人の中、白露王の隣に座った。
人間である、ということに配慮してもらえたのか、ましろは、穀物と木の実を器に盛ったものを与えられた。周囲の者らは、果物の杯や何かを煮込んだもの、それに濁って甘い香りのする酒を並べて、談笑している。
ましろは木の実を口に入れる。意外とおいしい。何の実だろう。茶色だけれど、煮たら青緑色が出そうな気がする。
笑い声が、空気を和やかにしていた。焚き火を囲む人々をそっと観察してみる。一枚布を羽織り、袖を通して帯で止めるだけの上着。筒型の下衣に足を通して履き、編み靴や草鞋、あるいは裸足で座っている。男女の違いはほとんどなかった。ただ、男達は刀か弓矢を腰に下げている。
すっと、端の方から静かになった。よろめきながら、枯れ木よりも細い老婆が、意外にしっかりとした足取りで現れた。焚き火の前で立ち止まる。
「婆様」
老婆の前で、一度膝をついて頭を垂れ、白露王が再び座に戻った。老婆は頷き、また頷きして、自分のためにしつらえられた、可愛らしい刺繍のある布の上に腰を下ろした。近くだったため、反射的にましろは、老婆の杖を受け取った。見た目より、ずっと重たくて、驚いた。
いくつか、白露王が老婆に説明する。老婆は、知っていると頷いている。
「ところで白露王。その娘はどうするのだ?」
不意に、はっきりと声が通った。老婆の言葉に、白露王が首を傾げる。
「どう、とは?」
「ここに置くのか。返すのか」
「この子の……ましろの望み通りにします。俺が呪いを踏みつけたりして、こいつらが心配して無理に連れていこうとするから、ましろが心配して様子を見に来た。事情はそういうことなので」
「では、ましろ。お前はどうしたい」
老婆の目が、ましろを射る。初対面なのに、驚くほどまっすぐに、目の奥の、奥、どこか遠くを見通された。
「私、は」
自分の中が、透明で、明るくて、何もないようで、不思議に風が通るようだった。
そこにある答えは、決まっていた。母もいなくて、見知らぬ人の中にいるなら、どこにいても変わらない。ただ、ここで、これまで通りの生活ができるとは思えなかった。
「一度、帰ります。ここは、狼の里でしょう? 私は人間で、たぶん人間のすることしか、しない。できない。それに、……母を、待っていないと。出かけたまま、戻っていない母を。私が、あの場所からいなくなっていたら、会えないかもしれない」
「ふう、む」
老婆が唇を動かした。
「では、望むようにしよう。白露王、お前が連れてきた者だ、お前が送り届けよ」
「分かりました。他にも聞きたいことが」
「何だ」
「ましろは自分を人間だと言うが、耳と尾が出る。どうも親父殿と似ている気もするし、遠い親戚か何かだろうか」
「いや。お前の父親とは関係がないだろう」
老婆は、薄青くさえ見える、澄んだ目で空を撫でた。
「おそらく、先祖返りだろう」
「先祖返り……」
「遠い昔、神々と精霊と星の息吹が、まだ獣と人と植物と鉱石と通っていた頃。人と狼も情を交わしたことが、あっただろう。その血が、ふとしたときに甦る。その娘は、ひどく遠い血の、甦りだ」
再び、獣達の視線を浴びて、ましろは口を引き結ぶ。狼の、子ではないが、先祖のどこかには、それが、いたのだ。
「それは、その娘の落ち度ではない。生まれ育ちの中で、発現しないこともあるが……兄姉はおらぬか。そこにも、同じ者がいないか」
ましろは、老婆に視線を向けられ、急いで頭を振った。
「いません。私は母さんと、二人きりで暮らしていたので」
「そうか。母か父の係累には、何度か現れたものかもしれない。悪いものではないゆえ、気に病むことはない」
「こんなに、似て見えるんだがなぁ」
白露王が嘆息する。周りの人々が鼻を鳴らして、いや似てない、いやいや、どうか分からない、などと、ましろのことを品評した。
老婆が、やれやれとため息をつく。
「白露王。お前がそう感じたのは、おそらく近しく思えたからだ。理由のいかんはあえては言わぬが」
「理由?」
何だか微妙な空気が漂っている。
(何?)
知りたいが、今ここで辺りを見回す勇気は、出なかった。
白露王が、空気をまるで気にせずに言う。
「よく分からないが、まぁ、しばらく逗留してもよいというのは、約束されたな。他に聞いておきたいことはなかったか、ましろ」
「えっ……あの、母のことを……」
不意をつかれて、ましろは思わず言ってしまった。老婆が、まっすぐな眼差しで、言葉を返す。
「白露王から話は聞いている。捜させる、と言うから、捜させていよう」
「あぁ。捜させている」
「では、それでよい。あえて言うことはない」
辺りが静かになる。ましろについては、話が終わったのだ。ほっとしたような顔で、周りの者が、火に薪をくべる。
「では西端の畑について――」
知らない土地の、知らない会議は、ましろには呪文のようで意味が分からない。
思い出したように、体の疲れと、眠気が襲ってきて、ましろは小さく船をこぐ。
白露王が、ばさ、と自分の上着の中に、ましろを押し込んだ。
「えっちょっと待って、何!? 暗い!」
「まぁ寝ていろ。こうしていれば、迷子になることもないし」
子どもみたいだと周囲がからかう。白露王は、ましろの背中辺りを叩いてあやしながら、
「外で子狼になっていたとき、こうして助けてもくれたからなぁ。おんなじだ」
笑っていた。
ましろも、初めは、恥ずかしいやら何やらで慌てていた。だが、人の視線が遮られる安堵感は、やがて再び睡魔を呼んだ。
会議はのんびりと進んでいる。
「白妙(しろたえ)様がおられればなぁ」
ひそひそと呟く声に、白露王が苦笑いしている。
「白妙は戻らない。だったら、俺達がやるだけだな」
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