1-11
「気は変わったか?」
男は何かを確信するのか、いっさい、反論を許さないふうだ。
ましろは苛立ち、毛を逆立てる。
「変わらない。私は、どこへも行かない」
後ろにいる少年が、おい、とおそるおそるましろを呼ぶ。
「何だ、そいつ……」
「いいからっ、離れて」
ましろが小声で叱るが、少年は一歩踏み出した。男の手がましろの髪を掴み、引き寄せる。それを少年は弓で振り払った。
流れるような動作で矢をつがえる。
「おい、お前」
ひょうと、矢をすぐそこの地面に向けて射て、少年が男を威嚇する。
「俺は無駄な矢は使いたくない。それに、嫌がる女なんて捨ておけばいいじゃないか」
少年の方は武装しているというのに、男はいっこうに、余裕の構えをとかなかった。
がやがやと、年輩の一行が道をおりてくる。何人かが「ややっ」「これは!」と騒ぎ立て、足を早めた。
村人かと思ったが、着物が違う。どうやら、また黒衣の男の連れらしい。
「そこな狩人は、人捜しの村人か。よく仕事せよ」
と叫びながら、ましろと少年を追い払おうとする。どうやら、先程男がましろを連れて行こうとしたのを、目撃していない連中らしい。少年は構わず、男を睨む。
「誰だか知らないが、女に無理に言うことを聞かせるような男は、しんどいぞ」
「は! 聞かぬ女というものは、今のところ見たことはないな」
「そいつは?」
少年がましろを顎で指す。
「ソレは野の獣ゆえ、女のうちには入らない」
男が笑う。嘲笑よりは明るいが、いい気持ちなどしなかった。
少年は表情を変えなかった。
「とにかく、誰だか知らんが、獣だというならそれは山のものだ。山に返してやれ」
(貴方が言う!?)
さっきまで、山から里へ連れて行こうとしていたくせに。思いつつ、少年に庇われ、後ろ手で向こうへ逃げろと指示されると、何もいえない。
黒衣の男には、逆らわない方がよいかもしれない。だが、逃げるなら、今しかない。
「名を知らぬと言うか。は! 次の今上帝にもなろうかという者も、落ちたものだな」
男の、激しさを込めた物言いで、周りの年輩者達がひどく慌てた。男を必死にいさめ始める。男はそれらを振り払い、軽々と、彼らの太刀を奪い取り、抜いてしまった。
少年が渋面を作ったまま、弓を構えた姿で後ろへ引く。初めから、射るつもりなどなかったはずだ。だが、行きがかり上、まずいことになっていた。
そのとき、どざざ、と崖から何かが落ちてきた。狼に踏みしだかれた人間が、どん、と小川に飛び込んだ。やいやい騒ぎながら、狼達が人間を蹴散らしてゆく。不謹慎にも、狼達はひどく楽しそうだった。鞠のように跳ねて、白い子狼も降ってきた。
「白露王!」
ましろは慌てて子狼を拾う。幸い、濡れても汚れてもなく、怪我はないらしい。
「無事?」
「あぁ、お前も怪我はないようだな」
崖上から矢が飛んでくる。狼達が嫌がりながらも、うまく避けては、その辺りの人間を追い払う。
矢をつがえていた少年も、初めは困惑していたが、やがて、黒衣の男らがこちらに気を払っていないことに気づいて、駆けだした。
機会を作ってやったのを、無駄にする気か。少年に、視線で訴えられたので、ましろも慌てて、白露王を抱えて下手の藪へ逃げ込んだ。狼達が顔をあげる。
「あっ白露王!」
「さらわれたぞ!」
(えっ、私、白露王をさらったわけじゃないんだけど!?)
数頭の狼が、ましろについてきた。少し年輩の狼が、併走しながら声をあげる。
「そんなに気に入ってるなら、連れて帰りなされ! 白露王」
「えぇ?」
抱えられた白露王は、何とも煮えきらないそぶりである。
息が切れてきたましろは、家へ向かう途中の道で、白露王をおろして、歩き始めた。
狼達に取り囲まれて、怖くないと言ったら嘘になる。だが、白露王の態度が変わらないので、たぶん大丈夫だ、と、信じたかった。狼達にせっつかれて、白露王が仕方なさそうに顔をあげる。
「うーん。ましろ。お前、狼の里に、来てみたいか?」
「全然」
ましろの即答に、そうだろうな、知らない場所だもの、と白露王は共感の体である。
「まぁ、ましろの嫌がることなら、しない。連れて行かなくても、俺がたまに様子を見に来れば、俺の用事は足りるからな」
辺りの狼が変なふうにため息をつく。白露王は、子狼らしく後ろ足で軽く飛び跳ねた。
「用事って何?」
「ましろがお腹を空かせていたり、怪我をしたりがないように、見に行くだけだ」
ましろは、胸が詰まってしまう。嬉しいのか、悲しいのか、よく分からなかった。
小屋に戻ると、人の気配はまるでなかった。
室内は、荒れた様子がまるでない。器も片づけられ、火の始末もきちんとしてある。
明葉も貴矢も、望まないのに無理矢理連れて行かれたとか、この場で害されたりは、していないようだ。
ほっとしたが、小屋がやけに広く感じられた。寒くて、足が震えそうだ。畑の手前にいた狼達が、ぞろぞろと帰り始める。
「ましろ」
白露王が、小屋の戸口で、声をあげた。
「ましろ。大丈夫か? どこか、痛むのか」
どこも痛くない。怪我なんてしていない。なのに、ぼろぼろとこぼれるのは何故だろう。涙があふれて、透明に落ちる。
白露王が喋ろうとしたそのとき、後ろの狼が、白露王の首後ろをきゅっと噛んだ。
「あれっ」
白露王がびっくりする。そのまま、狼は白露王をくわえて、駆けだした。
「えぇっ!? ちょっと待って!」
追いかけなければいけないわけでは、ない。なのに、ましろは思わず、後を追った。
白露王はひたすら、叫んでいた。
「おい、こらっ、有王、お前、長をこんなふうにして、いいと思ってるのか!」
「だって、貴方はこうでもしないと、帰ってこないじゃないですか」
くわえている狼は喋れないので、併走している狼が代わりに答える。
「俺は、こんな格好で戻りたくはない!」
「戻ったら、婆様が何とかする方法を、見つけてくださるやもしれませんし」
「でもなあ」
「ちょっと、その状態で人の姿に変転しようとするのはやめてくださいね。人里でやるのは消耗するし、第一、呪いに対抗していて具合もお悪いでしょうに。あんまり無理をすると、死にますよ?」
不穏な会話に、ましろも走りながら胸が痛くなる。
「白露王っ」
返してとは言えなかった。ただ、無事であれば。それでよかった。そのはずなのに。
待って。一人にしないで。
怖い。後ろから真っ黒な、中身が空っぽな何かが追いかけてきているようで、振り向くこともできなかった。
(母さんもいなくて、助けたかった子達も、逃げて、私は変な人に目を付けられて、里にも、行けない、嫌な目で見られる、どうしたらいいの)
「ましろっ、ついてくるな!」
危ないからやめろと、白露王が必死に、短い首を回して叫ぶ。
「そのうち戻る、だからお前は残れ!」
声が出ないので、ましろは黙って首を振った。今見失ったら、白露王がどうなったか分からなくなる。仲間に連れて行かれるのだから、ひどいことにはならないのだろう。でも、もう一度会えるとは、限らない気がした。
狼達は走っていく。藪を踏み、木の根を飛び越えて粛々と進んでいく。
踏みわけ慣れた山道が、突然途切れた。
熊笹もちぎれて、青々と、名も知らない緑が茂っていた。狼たちは迷わず突き進む。
山はこれほど深いのだろうか。
見たことのない草花が散見された。視界には緑と茶、赤や黄が入り交じる。まじまじと見るような、ゆとりはなかった。
初めは、さらわれる白露王を追いかけていたはずだった。ましろは気づけば、引きずられるように、追い立てられるように、狼達に囲まれて、足を切りそうな岩山や沈み込みそうな沼地を抜けて走っているのだった。
ほのかに、乳のような霧が流れてくる。
木立は暗いが、霧か靄のせいで、ぼうぼうと明るくなった。
どこで、幽冥の、境を越えたのだろう。
不意に体が軽くなる。水面を割って空中に飛び出した魚みたいに。子犬みたいに他の狼にくわえられていた白露王が、ふわり、と元の、大人の狼の姿に戻った。
「まったく! 無理に連れてこなくてもいいだろう。一応帰るつもりだったんだから」
「おやまぁ。白露王」
さっきまで白露王をくわえていた狼が、しれっと答えた。
「里に戻るぐらいで解けるような、大した呪いでなくて、よかったですね」
む、と白露王は口を閉じ、それから短いため息をついた。
「ましろ」
息を切らせ、ましろは白露王を見やる。今立ち止まったら、かえって、心臓が爆発してなくなってしまいそうだ。走る動物になったような気分だった。
白露王はちょっと困った顔をした。
「すまんな、こんなところに、連れてきて」
「ううん、いい。貴方が、この人達に何も、されなくて、無事なんだったら」
「うーん、ひとまず、ましろ、お前は俺のそばから離れるな。お前は俺の客人だ」
白露王はそう言って、ましろの足を少し押した。
「もう少し行けば、休める。すぐに、人里に返してやるからな、心配いらない」
ゆらゆらと、白い靄が流れていく。
ましろは、不安になりながらも、足下の白露王を信じて、前へ足を踏み出した。
*
「何だ。死ななかったのか」
青い、管玉を連ねた首飾りを、部下に拾わせ、男は短く吐き捨てる。
首飾りを贈られた女の方は、蒼白だった。
山中で、疲労により病を得たと、思われていただけに、寵愛を受けていたはずの相手からの呪詛だと知らされて、混乱も激しかった。
「なぜ、」
「なぜ? 愚問だな。帝のための浮かれ女が、帝が危うい今、私に鞍替えしようとしている。つまらんな? もう少し、どうかならなかったものか」
震える女の側から、飛び出そうとした、子狸のような少女を、男の周りの者が、杖でひっぱたく。
「しかし、山をさまよい歩いたわりには、元気そうだな? 何があった」
目を泳がせ、女は、己の従者を見る。少女は、唇を震わせて、こう答えた。
「わたくしが、貴矢様を見つけて、木のうろに運び、夜露をしのぎました。持ち合わせの薬で持ちこたえました」
「誰がつまらぬ嘘を申せと言った? それよりは、狼に拾われたとでも言われた方が、面白味がある」
「狼……っ」
貴矢が、男の呟きに反応した。
少女がはっとするが、止める暇もない。
「私を拾った娘は……おかしいとお思いでしょうが、獣の耳と尾を、持っておりました。初めは、もののけかと、気絶しそうにもなりましたけれど、あれは、獣神の娘でしょうねえ、人の食器を使い、人のものを食べ、人の言葉を話しましたもの」
浮かされたように話し出す女に、男は、ふうっと笑みを深くする。
「それは面白い。もう少し、詳しく話せ? 貴矢」
貴矢は、とうとうと語り出す。だが、熱でやられていた貴矢には、そう多くは思い出せなかった。すぐに話が尽きてしまう。
それでも、人の名をほとんど呼ばない、気を傾けない男に、覚えられたことが嬉しくて。
とりとめもなく、声をあげ続けた。隣で、従者の少女は、苦い顔でそれを見ていた。
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