1-9

 遠吠えが聞こえる。時折、白露王が耳をあげる。それでも前足に載せた顎は、持ち上げることがない。何かに耳を傾けている。

 ましろは結局、小屋のすみに古布を敷いて、白露王を隠すようにして寝かしておいた。眉間に皺を寄せつつ、明葉はそれ以上文句を言わない。日が落ちて、急速にまた寒くなる。

 明葉もましろも、うとうとした頃。貴矢が、目覚めて、悲鳴をあげた。

「おっ、狼……!?」

 怯えて見つめる先に、もしや大きな狼に戻った白露王でもいるのかと思ったが、違うようだ。貴矢はましろを見て、指さしている。

「化け物っ……」

(しまった)

 何かの弾みで、耳と尾が出てしまったのだ。首をすくめ、ましろは耐える。

「貴矢様っ」

 明葉も飛び起きて、貴矢を押さえた。

「いったい、何が」

 明葉の視線が、ましろに止まる。一瞬、明葉が鋭い眼差しになった。

「……ちっ」

(舌打ちされた!)

 舌打ちし、何事か文句を言った後、明葉が落ち着き払って、貴矢に告げる。

「貴矢様。あれは模様です」

「はぁ!?」

 明葉の無茶な話ぶりに、貴矢が声を裏返す。明葉は構わず、きらきらした目で丁寧に説明した。

「この者は、山で染色や機織りの試みをしているそうです。新たな髪飾りの開発、あるいは山歩きの際に狼の襲撃を受けぬまじないの、一種なのではありませんでしょうか」

「は? え? そうなの?」

 戸惑いながら、貴矢がましろの方を見る。

「……、いや! だめ! あのしっぽ、動いたじゃないの!」

「違います貴矢様。火の加減で、動いたように見えるだけでございますよ。ね。こんな小さな私ですら、恐ろしく思いませんのに、貴矢様は本当に、繊細な方ですこと」

 立て板に水のごとく、とうとうと明葉は喋る。彼女の余裕ぶりと真面目ぶりに、貴矢は首を傾げながらも頷かされてしまう。やがて、貴矢様は疲れているのですよと、眠らされてしまった。

「ふう」

 一仕事した、とばかりに、明葉は額の汗をぬぐった。そのまま眠る体勢に入る。

「ちょっとっ、何か、言う、ことはないの」

「何がですか」

 半身を起こし、明葉がましろをじっと睨む。

「貴方がもののけだろうが何だろうが、構いません。鍋にして人間を食べるような人でなければ、それでよろしい。私は眠いのです。貴方の、その意味不明な耳と尾に、関わり合っている暇は、ないのです」

 それでは、とばかりに倒れ、背を向けて、明葉は完全に、応対を拒否した。

(変なの)

 むずむずする。気味悪がられたり、妹と間違えられたことはあるけれど(それはごく最近、白露王限定のことだが)、こんなふうに、どうでもいいと言う人間は、初めてだった。

 そわそわしながら、ましろも、掛け布にくるまって目を閉じる。白露王や他の人の寝息が、穏やかに重なっている。何だか、胸がいっぱいになった。

 貴矢はまだ微熱があったが、剣呑な目で、山暮らしをけなす元気があった。明葉が適当にとりなしている。

 ましろは蔓を干して、いつも通り水汲みに出た。白露王が遅れて駆けてくる。

 ましろは川縁でため息をつく。普段通りではないくせ、ひどく穏やかだった。

「ましろ。お前の母親については、捜させているから」

「うん。その心配も、あるんだけれど」

「じゃあ何が心配だ」

 白露王が首を傾げる。

「おい!」

 そのとき、村の、少年が駆けてきた。

 それに遅れて、風の流れに、人の声が混じってきた。数が多い。ましろは立ち上がって、川を離れる。山道を進む。白露王が寄り道しがちなので、ましろは彼を抱きかかえた。

「何だ、何だ」

「何でもないけど」

 白露王の毛を吹いて遊んだら、嫌がられた。

「ごめんごめん、どうしたら許してくれるの」

「そうだな、ちょっと楽をしたいな」

 ましろは結局、白露王を懐に入れて歩いた。

(このまま、一緒には、いられないんだろうけど)

 桶の中で水が鳴る。不意に、足がすくんだ。気持ちの揺れかと、ましろは自分を叱咤する。だが、ちっとも足が動かない。

「白露王」

 どうしよう、と怯えて聞くと、

「それはそうだ。子犬でも、大人に真剣に囲まれたら怖いだろう」

 白露王が落ち着いてましろに答えた。

(大人、って……)

 ましろは気づく。見回すと、白っぽいのや灰色や、とりどりの狼が、あちこちの茂みに隠れていた。

 狼に、取り囲まれた。

 白露王がのんきに、ましろの胸元から顔を出す。だが、彼がいても、自分の体よりも大きく思える狼達に囲まれると、足が震えた。

(私、うっかりすると食べられるんじゃないかしら)

 嫌な想像をした。身震いすると、狼が少し、どよめいた。ましろは、出してしまった尾を、自分で掴んだ。震えないよう、しっかり伸ばして、手を離す。

「白露王」

 咳払いして、狼が喋った。

「お変わりなく、と言いたいところですが、なぜそのようなお姿に」

 慇懃な狼の周りを、他の、若そうな狼がうろうろとついて回る。

「呪いを踏んづけたようでな」

 子狼姿のまま、白露王はけろりとした口調で返した。

「まぁ、そのうち治る」

「お言葉ですが、どれほど迂闊であられるのか」

(怒られてる、怒られてる)

 殺気、のような、苛立ちの雰囲気がする。

 白露王は気にせず、首を傾げた。

「迂闊ではあったが、問題ないだろう。この通り、俺はぴんぴんしている」

 ものすごく何か言いたそうに、狼達がそわそわした。

(そりゃ、元気でも子犬になってしまってるんだから、普通はもっと、怯えたり驚いたりするでしょうよ)

「呪物自体は川に捨てておいた。人の手に取られることはないだろうし、少し流せば、呪いは消えよう。元々、誰かへ既に、呪いの多くが受け渡された後だった。残りを、俺が大半、引き受けてしまったみたいだったし」

 では、と、狼の代表みたいな者が、前足で土を引っかいた。

「犯人はどうするのです。貴方をそのようにした犯人! 狼を見くびり、侮り、痛めつける愚か者には制裁を!」

 ましろはびくりとした。狼達が、ふうふうと荒い息で賛同している。

「残り物であっても、我々が迂闊にくらうほどの呪術、危険きわまりないものを用いた人間をそのままにしておくのですか」

「別に、殺されたわけでなし」

 あくまでも鷹揚に、白露王が言う。

「いいじゃないか、別に。俺は怒ってない」

「しかし、貴方は、ただの可愛らしい――ごほん、凛々しい子犬のようなお姿に、されたわけです」

「そうだな」

 ましろの懐に入ったまま、白露王は頷いた。否定はしないらしい。

「そんなことより、ちゃんと見回りして、怪我なく元気に暮らすんだぞ」

「貴方が言わないでください」

 ましろと同じことを思ったらしい狼が、ぴしゃりと、叩きつける。幾頭かの狼は、包囲を狭めてきた。鼻息が、ましろの足にかかりそうだ。ましろは自分の手を引き寄せて、ついでに白露王を掴もうとした。が、白露王はひらりと、ましろの懐を飛び出した。

「お前達はいったい、何なんだ」

 呆れの混じる口調で呟くや、瞬きの間に、人の姿になる。飛びかかってきた狼に、拳や肘を次々に叩き込んだ。吹っ飛ばされた狼達が、木にぶつかり、斜面を転がり落ちていく。

「ちょっと、あの人達、貴方の仲間でしょ? 大丈夫なの」

「構わん。たまにあることだ。血気盛んな若い奴もいることはいるし、いないと賑やかじゃないからな。相手をすることは、これまでにもある」

 狼達は、白露王に飛びかかり、転がされては戻ってくる。

(何か、楽しそうね?)

 ましろも見たことがある。もっと子どもだった頃、里の近くでは、たまに、ましろの耳を気にしないで一緒に、山菜とりをする子もいたのだ。姉妹連れの子と遊んだとき、小さな子どもが、遊んでほしくて姉や、年上だったましろに飛びかかったものだった。

「白露王!」

 慇懃な話し方の狼が、自分では飛びかかりもせず、傍観しながら声をあげた。

「無理に変転されますな! 呪いの影響か、命を削られておりますぞ」

「爺は心配性だな。このくらい、どうということもない」

 白露王の口調は変わらない。きゃうん、と、投げ出された狼が転がっていく。

「ともかく、放っておけ。子犬みたいな格好で里へは戻れんだろう? 治ったら帰る」

「……戻られぬのは、それだけが原因か?」

 疑い深そうに呟いて、代表狼が一声鳴いた。それを合図に、狼達がぞろぞろと木立に消えていく。やれやれと息をついて、白露王はくるんと、また子狼に戻った。

「今日は難儀だな」

 前足で引っかかれたので、ましろは白露王を抱き上げる。

「貴方、凛々しいんだか、か弱いんだか、分からないのね」

「そうか?」

 白露王がしきりと首をひねる。

「これほどすばらしい生き物は、そういないと思うんだが」

 ましろは思わず吹き出した。

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