1-8
熱が下がると、かえって疲れが出たのか、貴矢はあまり喋らなかった。たまに、自分がどれほどすばらしい屋敷にいて、多くの者にかしづかれていたのかを自慢するが、そうした屋敷を見たこともないましろには、おとぎ話みたいに、ぴんとこない世界だった。
子狸みたいな少女は、ましろが誤って「子狸ちゃん」と呼んでしまったことから、非常に怒ったものの、自分の名前をようやく明かしてくれた。
「明葉(あきは)です」
数えで十四という歳に、大人びている理由が分かった。全体がこぢんまりしているせいで、外見が歳よりも幼く見えるのだ。
具合の悪い者と、それを見守る者、それらと一緒に、狭い小屋にいるのは気詰まりなので、ましろは表に飛び出した。
昨夜取り込みそびれた糸や布は、色がいくらか落ちてはいたものの、陽光と風で乾いていた。
草を煮立てようとすると、明葉が仁王立ちしてましろを追い立てる。臭いがひどく、貴矢の体に障るからだめだと言うことらしい。薬の方が臭うのだが。
仕方がないので、蔓を取ってくることにした。乾かしてから、小さな籠を編むのだ。
山は雨に洗われ、鮮やかな、濃い緑色に輝いている。茂みが揺れるたび、ましろは、
「白露王?」
と振り返った。あの子犬もとい狼――男の人でもあったわけだが――は、どこへ行ってしまったのだろう。何日も一緒にいたわけではないのに、見つからないことが寂しかった。
小川のところで、いつもの、昔から石を投げてくる乱暴な少年に出くわした。何かを叫んでいるようだが、ましろは舌を出して、さっさと上の山道に駆け戻った。
蔓を選んで巻き取り、小屋に戻る頃、狼の遠吠えが近くで響いた。
以前、白露王は、襲わないようにと言ってくれたらしいけれど、怖いものは怖い。
硬直したましろの近くで、きゅうんと、小さな声がした。
(まさか、白露王?)
ましろは、慌てて茂みに手を入れる。がさがさとあさっていると、後ろから、ぽかんとしたふうに声が聞こえた。
「ましろ? どうした。何か落としたのか」
藪につっこんで、顔にひっかき傷を作っていたましろは、思いがけず後ろに現れた子狼に、返す言葉が見つからなかった。
「何、なの」
「うん? 何だ?」
昨日は雨が降っていた。
それなのに白露王は真っ白で、ふわふわした、子狼だった。どこも汚れていない。
「どこ、行って……急に、いなくなるから、怪我したのかなとか、……よく考えたら、あの、人間に捕まっちゃったんじゃないかとか思って……」
「あぁ。心配してくれたのか。ありがとう」
気負いなく、白露王が微笑んだ。
「あのとき、近くに仲間もいたのでな。ついて行って、うるさい人間を追い払った」
以前、村の少年が言っていた。山際の畑で、人が狼に襲われたと。そのときと同じことを、白露王はしたのだろうか。察したのか、白露王はましろの手に鼻息をかけた。
「怪我はさせていないと思う。山や狼への畏怖を忘れ、山に感謝しなくなった者、奥へ近づきすぎた者を、警告ののち、追い払うのが狼の仕事だ。追って、逃げる者なら、それ以上傷付けはしない。獲物の鹿でもあるまいし」
子狼の顔で、難しいことを言う。不思議な威厳があるのだった。
その日、ましろは、小屋に戻るまでは白露王と一緒にいた。白露王は山道のどれがイノシシの道で、どれが鹿の通り道なのか、よく知っていた。白露王は、「お前はまだ小さいから、この道は避けないと、イノシシに突かれて危ないからな」と、教えてくれる。
白露王が教授する。ましろはそのたび、自分の尾がぱたりと揺れる、そのことに気がつくのだ。
(やっぱり、私、狼の子なのかな)
でも、母さんは人間の姿だったし、腑に落ちない――父さんが誰なのかは、よくは知らないけれど。
「お前の親は、山のことを教えてくれなかったのか」
白露王がそんなことを言う。小さな木の実を拾いながら、ましろはむくれる。
「そんなことない。機織りも、畑のことも、母さんが教えてくれたわ」
「だが、小屋にはいないようだな」
「……母さんは、布を売りに出かけたの。まだ、戻ってきてない」
ましろの声が暗くなる。
白露王が尾を揺らした。
「行方が分からないのか」
「うん」
素直に、ましろは頷いた。
「でも、大丈夫。きっと、帰ってくるから。それで、えぇと、何の話だったっけ。母さんはいろんなことを教えてくれた、だから大丈夫なの」
無理に話を変えたせいか、白露王が首を傾げる。
「母親以外の者は教えなかったのか? まぁ、狼は情が深いから、親父殿がほかに娘を持っていたと分かったら、俺の母も黙っていなかったろうし、親父殿が姿を見せなくても仕方ないか」
「そもそも、私のお母さんは、狼と結婚なんか、してないと思うんだけど」
「うーん。親父殿に似ている気もするんだがな。大昔は、動物は皆、互いに入り交じっていたと言うし、もしかしたら先祖返りなのか」
「そうなの?」
自分の尾と耳がある理由が、分かるかもしれない。動悸をしずめながら聞いてみると、
「さぁ」
白露王は気の抜けた答えを返した。
「俺はそういうことはよく分からないな。婆様なら分かるかもしれない。狼の、年寄りだ」
ざざ、と風が山を渡る。谷に吹き込み、斜面を駆けあがっていく。わずかに見える空は青い。大きな雲が、早足に過ぎる。
「先祖返りは、死者と話せる」
白露王がぽつり、と呟いた。
「え、何。よく聞こえない」
「そういえば、お前は母親を捜しに行かないのか」
「え?」
「一応、仲間にも、捜してみるように言っておく。近づきすぎないように、気づかれないように、傷つけないようにとも。だが……山での行動が分かった後、お前は、母親を探しに行くのか?」
捜しに行くつもりであれば、――行方が分からなくなったそのときに、すぐ、出かけていっていたのではないか。怪訝そうな白露王に、ましろはうまく返せない。
「……だって……」
「川向こうで、ずいぶん前に女を見た仲間がいる。その日は、日が暮れてから雨になった」
「やめて」
「もしかしたら、ましろ、お前、母親がもうどこかでって思って、探せないんじゃ」
「やめてって! 言ってるでしょ!」
八つ当たりだった。子狼の頭を押さえつけて黙らせる。白露王が嫌がって逃げる。
ましろは、狭い山道を駆けだした。
「おい、」
「来ないで」
本当は、たぶん、分かっていた。母さんはきっと、町まで行けなかったのだ。探したい、けれど、まだ山にいたらどうしよう。
(怖い)
暗闇に落ちていくようだ。母さんがいなかったら、ましろには帰るところがない。
一人ぼっちは、もう嫌だった。
「ましろ!」
上方から、叫ばれる。手を掴まれて、引き留められた。弾みで、こらえていた涙がこぼれてしまう。泣きたくなかった。泣いたりしたら、認めてしまいそうで。
「悪かった」
人の姿をした白露王が、ましろの前で、謝罪する。狼のときと変わらない、真摯な目で。言葉が出なくて、ましろは首を左右に振った。
「それより、貴方、早く元に戻る方法でも、探したら。見つかったら、帰れるんでしょ」
「ましろ」
困惑した白露王が、するりと縮んで、子狼に戻る。
「あまりいじめてくれるな」
「うん。ごめん……八つ当たりなの」
「知ってる」
白露王はそれでも、離れなかった。
ましろは、この時期にしか咲かない種類の、花を拾って歩く。
不思議なことに、白露王は、まれに、子狼姿がにじんで消え、元の狼に戻ることがある。人間の姿になるのは、当人の意志でできるようだが。
「どういう仕組みなのかしら」
可愛がっていたシロが、ふかふかの大型動物に変わるのは、頼もしいやら、寂しいやら、だ。ましろの不満顔に首を傾げつつ、大きな狼に戻った白露王は、前足をかいた。
「待ってろ」
ひょい、と白露王は藪へ消える。
しばらくして、しとめた鹿を引きずって戻ってきた。血塗れの狼を洗って乾かしてやり、ましろは鹿を焚き火にかざす。
「生で食べないのか」
「村では、酢や酒で煮たり、漬けたり、干したりして、そのまま食べることもあるそうだけど」
なますなどは、冷たくてあまり好きではない。少しの飯を、あつあつの焼き魚とともに食べるほうが、性に合っていた。
そもそも、ましろの母は、川魚にいる虫などを嫌って、魚類は必ず火を通して食べていた。ましろも、まねをしている。
「貴方、人間の格好をするくせ、狼の姿でも食事をとるの?」
「そうだな。どちらもある」
「あ、忘れてた」
焼きながら、ましろは我に返った。
「私、人を拾ったんだった」
狼をつれて帰ると、いろいろとうるさそうなので、鹿の一部だけ貰って、ましろは一人で小屋へ戻る。
「何ですそれ」
うたたねしていた明葉が、物音に気づいて起きる。ましろの持ち帰ったものを見てまなじりをつり上げた。
「鹿。もらった」
「もらった、って……どなたにですか」
「知り合い。腕利きの、猟師みたいなもの」
「猟師」
怪訝そうに、明葉が見つめてくる。ましろは肉を煮て粥に混ぜ、少し回復してきた貴矢と明葉にもすすめてやった。不可解だ、という顔をしつつも、明葉は検分してから口に運ぶ。頷いて、貴矢にも与えた。
「ましろさん。それで、あの、戸口にいるのは何なのです」
食べ進めながら、明葉が半眼になって言う。
「何?」
ましろは、きょとんとして振り返る。戸口に、白い子犬もとい狼が、近づいたり離れたり、飛び跳ねたりしているのだった。
「ちょっ……シロ!」
「あれ、もしや」
「シロ! あれはちょっと預かってる子犬で」
「あれは犬ではなくて、」
「犬! 吠えるし」
ましろは、目で訴える。訴えられた白露王は、口を開け、首を傾げた。
「きゅん?」
「何か違うけど! まぁそれでもいい!」
ましろは立ち上がり、無理矢理、子狼を捕まえて、小屋の裏手に駆けていく。
「ちょっと、何でついてきたの!」
「俺の話を、聞いてなかったのか。夜露をしのぐ寝床がほしいんだが」
「そりゃ、放り出したくはないんだけど。今、人がいるのよ」
「あぁ、いたな」
ぱたぱた、と子狼がしっぽを揺らしている。
「どこかで見たような気もするが」
「えっ」
「気のせいかも」
(何だろう、もやっとする)
頼りない白露王の、小さなふわふわした耳を、ましろは掴んで撫でて、憂さを晴らした。
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