1-7
雷雨になった。どこかの木に落ちたらしく、焦げ臭い。頼りない小屋とはいえ、雨露がしのげる家へ、ましろは急ぐ。
薄暗い中、走っているうち、人声がした。
ひゅう、と風を裂く音がする。
「ましろ!」
ここしばらく聞き慣れていた声が、ましろを呼ぶ。背中が冷たい。足が滑って、ましろは斜面を転がったのだ。
ふと気づく。横手の地面に、いくつか、矢が突き立っている。
狙われた? どうして?
「私、」
狼と間違えられた? 違う。こんな大きさの狼なんていない。鹿とも、影が違うのに、なぜ射られた? 耳と尾があるから?
(それとも、あのとき)
黒衣の男に、目をつけられた――あいつが、ましろを射たのだろうか。
あんなに、優雅な手つきや物腰だったというのに、あの笑みで、人を射るのか。雨の中、わざわざ弓矢を取りに、人の中に戻って、それからまた来たのか? ましろが目の前にいるときに、殴りつけたりするのではなくて?
悪意を想像したためか、実際に射られた衝撃なのか、がくがくと、膝が震える。
近くでしきりと、白露王が騒ぐ。だが、ましろの耳に入らない。
「ましろ」
不意に、ましろの目の前に人の顔があった。恐慌にかられかけたましろの手を取り、丁寧に、目をあわせる。
その、白と茶の混じった、狼のような毛色の男が、ましろの背を強く押した。
「立て。追われてる」
「えっ? あの、貴方、誰」
「白露王だが」
あの、ふくふくとした子犬。あるいは、立派な狼。であれば、ましろにも分かる。だが。
「貴方、白露王?」
目の前にいるのは、朱色の飾りを縫いつけた上着、白地の帯をまとった男だった。
「シロとは呼ばないのか」
きょとんとしたふうに、男が聞く。凛々しいが、さほど押しつけがましくもなく、不思議な力強さのある男だった。
見たことがある。以前、狼かと思ったら人で、見間違えたと、思ったことがあった……。
「人間なの?」
「違う。狼だ」
「でも」
「お前も、その姿だろう? その話は後だ」
あれは、幻や見間違いではなかったのだ。
呆然としたましろを、白露王が押し上げ、やがて抱えあげる。人間の、手足だった。
知らない人だ。嫌悪と恐怖が、再びわいた。
「ましろ、嫌でもいい、今は走れ」
白露王がましろを励ます。平生と変わらない、落ち着いた声音だった。
嫌だ、と思っていた気持ちが、その声でしぼむ。あの、不思議な狼と、同じ人だ。だから、怖くない。
(大丈夫)
白露王の肩からおろしてもらい、ましろは走る。駆けているうち人の足音が遠ざかった。
「何だったの、あれ。さっきの、黒い、あの人なの?」
雨足が弱まり、ましろは冷えて凍えた手を、どこともなく前へ伸ばした。
近くを見ていた白露王が、戻ってくる。彼は、ましろの手を取ろうとしたが、ましろは思わず引っ込めた。気を害した様子もなく、白露王が呟いた。
「何だろうな。さっきの男とは違うが、同じ群れにいた人間のようだ」
「どうして、私を射たの……?」
「お前だと気づいていて射たとは限らないが」
白露王が、ましろをしげしげと見つめてくる。そして、頭をわしゃりと撫でた。
「怪我はないようだな。よかった」
間近で、心底よかったと微笑まれた。ましろは、こんなに凍えているのに、温かい気がして涙が出た。
どこかで狼が遠吠えする。白露王が斜面を仰いだ。
「何? どうかしたの」
不安になったましろに、白露王が穏やかに言う。
「いや。山越えをしようとして、山の中腹辺りで野宿をする人間がいるようだ。南の斜面は崩れるかもしれないから、様子は見に行かない方がいいらしい……」
「そんなことも、分かるの」
瞬きのうちに、白露王を見失った。
「えっ」
見回すと、子狼の姿も見あたらない。
落ちたのか、それとも、仲間の元へ帰ったのだろうか。何度か、白露王を呼んだけれど、見つけられなかった。
(寒い……)
雨で冷えていて、このままでは体温が下がりすぎてしまう。ましろは諦めて、いったん小屋に戻ることにした。
(白露王は、人間にもなれるのね……)
胸元に入れたことが、何だか大いなる誤りだった気がした。ましろは頭を振り、考えを頭から追い出した。
(あれっ)
茶と緑の細道を歩いていて、極彩色が目に留まる。嫌だなと思ってしまったのは、さっき人間に射られた恐怖が、胸内にまだ残っていたからだ。しかし、相手は武器を持っていなかった。うつ伏せで、倒れている。
「大丈夫?」
斜面で転んだのだろうか。山に似合わぬ、黒く長い髪が、ぐしゃぐしゃにもつれて、木の梢にまで引っかかっている。緋色の着物は裾が長く、脚半などにも手が込んだ染めが施されていて、やたら高貴な女のようだ。
「ちょっと、ねえ」
まさか、死んでいるのではあるまいか。
肩を引っ張って支え、ましろは相手をひっくり返す。寒いというのに、泥だらけの顔は、ひどく赤い。短い息を、繰り返していた。
「よかった、まだ息がある……熱があるの?」
幸い、小屋はすぐ近くだ。重たげな着物だが、着せたまま引きずっていく。畑の手前で何枚か脱がして、薄もの姿で小屋に入れた。
ましろは、女の、泥のついた顔や手足を拭ってやる。女が、ふと目を開けた。
「意識はある? 分かる?」
ましろが問いかけると、女は、柳眉をぎゅうとひそめた。
「なぁに、この、小汚い、野蛮な子は」
「は?」
それだけ呟いて、女は顎を上向けた。再び意識を失ったようだ。
ましろはしばらく、ぽかんとした。が、ひとまず、女に大事はなさそうなので、着物をかぶせて隅に寝かせた。自分も着替えて、少し多めに火を焚いて、暖かくする。
高熱が出ていると言うのに、目が覚めるたび、女は口うるさく罵りの言葉を吐き出した。
濡らした布が冷たすぎる、水が多すぎる、喉が渇いた、甘いものがほしい、布団が薄い、寒い、うるさい、黙るな、何か話せ――。
疲れはてた頃、夜が明けた。女も、熱がずいぶん下がって、楽そうに眠り込んでいる。
「変な人を拾ったものね」
ましろは、やれやれ、と腕を回し、伸びをした。水を汲みに行って、何か温かい食べ物でも作りたい。女が、粥が食べたいと言っていたし、自分もお腹がすいていた。
(とっておいた穀物を煮よう)
ましろが決めて、桶を手に小屋を出ようとしたときだった。
聞き慣れない異音がしていた。火を焚いていたから、木が燃え崩れる音だと思っていたのだが、違うようだ。かりかり、と小屋の戸を、何かが爪でひっかいている。
(何かぶつかってるのかしら……)
「白露王?」
問いかけると、驚いたように、その音がやむ。返事はない。ましろは、おそるおそる戸に近づいた。開けると、戸の前に、ましろの胸元辺りまでしか背丈のない、まだ幼い女の子が、栗色の下げ髪を揺らして、目を見張って立っていた。子狸みたいにびっくりしているが、可愛らしい少女である。
「貴方、誰?」
ましろの問いかけに、少女はびくりと肩を揺らす。長い茶の睫毛が、細かく震えた。
「姫君を捜しています。こちらに、来てはいませんか」
少女は、こわばった、甲高い声で一生懸命に言う。言いながら、視線が勝手に、小屋の中をさまよった。
「あっ」
ましろが止める暇もない。少女は、文句の多い女の胸に飛びついた。
「よかった! まだ生きておられる」
「あんまり近づかない方がいいわ。その人、まだ熱が高いの」
ましろが声をかけると、少女は安堵と不安の混じった顔で振り返った。
「熱冷ましはないのですか」
「あいにく、ここにはないの」
「何です、いったい!」
助けてもらっておいてなんですけれど、と言いさして、少女は自分の胸元から、いくつかの包み紙を取り出した。顎をあげて、生意気に言う。
「乳鉢などはどこです」
「そんないいものはないけれど」
木の椀などを渡してやると、少女は嘆息した。手早く、包みの中身をそこへ開ける。黒い粒や茶色の粉など、ましろの見たこともないものが、椀の中で混ぜ合わされた。
「ぼけっと見ていないで、お湯を沸かしてください。あっついの」
一瞥もくれずに言われ、ましろはむっとするよりも、なんてしっかりした子なんだろう、と感心した。
急いで小川に行き、きれいなところを探して、水を汲んで戻る。湯を作る。湯は、細かな泡が立ち、焦げ臭いくらいに煮立てておいた。少女が差し出した椀に注ぐと、苦くて塩っぽい、妙な香りが立ち上った。
「うっ」
「どうしました?」
「それ、飲むの?」
「貴矢きや様が飲まれます」
病人の名は、貴矢と言うらしい。
「飲む方が、具合が悪くなりそうね」
ましろは思わず、正直に感想を述べる。
すると、まじまじと、ましろの足先から頭のてっぺんまで眺め尽くして、子狸みたいな少女が呟いた。
「呆れた。薬というものは、こういうものです。甘づるなどでごまかしたものもありますけれど、苦い方が、気持ちにも効きます」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
いくぶん、眉間と鼻の頭に険しく皺を寄せて、少女が短くうなる。本当に、警戒した子狸みたいだ。
「とにかく……貴矢様を少し、起こしてください。そう、肩の辺りを支えて」
少女の手慣れた指示に従って、ましろは貴矢に薬を飲ませる。その間に少女は、使った道具を片づけていた。
「ねぇ、これで治るの?」
「治らないと困ります。山越えをして、都へ戻らないとならないんですから」
「都?」
しまった、と少女が顔をしかめる。
「あの、あんまり顔をしかめないで。せっかく可愛いのに……」
「うっかりした自分に腹が立っただけです。あぁもう。こんなところを通るなんて。だから私は反対したのに……」
ぶつぶつと、少女は呟いた。
「あの方の、気が知れません。あの方も、それからあの方もです」
「あの方?」
「いろいろです」
いろいろあるんです、と、幼いかんばせで大人顔負けの渋面を作られると、それ以上聞けなかった。
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