1-6
*
眠ると、母親の夢ばかり、見る。不安だから、ではあるだろう。
でも。と、ましろは思う。
(お母さんが、私を捜しているのかな。帰ってこられない事情が、あるのかな)
切々と、その気持ちが、胸に残って痛い。
いつもなら、一瞬目が覚めかけて、また布団をかぶって眠る。
だが、いつもと違い、涙ぐんだましろの頬に、柔らかいものが押し当てられた。
温かくて、ふわふわして、くすぐったい。
(何、これ)
片手で払いのけようとしたが、相手は軽々と逃れていく。ようやくのこと、ましろは、寝ぼけ眼でそれを捕まえることに成功した。
まだ夜も明け切らぬ中、ましろの手の中にいるのは、真っ白で、ふわふわした柔毛の生えた、小さな生き物。
ころころとした子犬だった。
かわいい。撫でて、ましろはうとうとする。
「ましろ、ましろ」
子犬が、慣れたふうに呼びかけてきた。
「俺だ。白露王だ」
「はくろおう?」
子犬がしゃべったことを、自然と受け入れた後、我に返る。
「子犬じゃなくて……狼?」
「そう。訳あって、ちょっとこんな姿に」
「白露王?」
「そう」
抱えた子犬――子狼の、鼻面を見て、ましろは呟く。
「この、むっくむくのもっこもこの生き物が」
「だからそう言ってる」
むぎゅ、と、子狼はましろの鼻に、小さな足裏を押しつけた。ましろは子狼を抱いているうち、温かくて幸せな気持ちになる。
(あ、だめ)
眠い。瞼が開かない。
「おい、ましろ」
おい、おい、と子狼がましろを呼びながら、頬を叩く。だが、柔らかくてちっとも痛くない。気づいたら朝になっていて、子狼の姿はどこにもなかった。
(変な夢、見た)
寂しすぎて、あんな夢を見たのだろうか。気恥ずかしくて、ましろは慌てて戸を開ける。
天気がよいので、空腹も忘れて、昨日作った液体にあれこれ加えて、小さな糸玉を放り込んだ。よどんだ液から引き上げると、糸は鮮やかに、発光するような黄色をしている。
別の鍋には赤茶の水。それで色止めをすると、また元の水へ浸す。繰り返すうち、黄は太陽のような橙にも似た色に固定された。
(あの子狼に、ぴったりの色ね)
これで首輪を編んでやったら、真っ白な毛と相まって、可愛らしく凛々しいことだろう。
(あ、あの犬は、夢の中のことだった)
糸を干しているうち、空腹がよみがえった。
沢におりて、水を汲んでこよう。うまくすれば、魚も穫れる。
ましろは桶を片手に、山道を下る。
途中、何度か人の声を聞いた。驚いて、草むらに隠れてしまったけれど、人の声はちっとも、ましろのいる方へは近づいてこない。
狼が出るから、山の奥までは上がってこないのだろうか。
(それにしても変ね。猟師は何人かで山に登るけれど、犬の声もしないから、違うみたい。山菜採りにしても、人の数が多すぎるし)
隠れているうち、人の声は木々のざわめきであったように、ごく自然に消えてしまった。
茂みから、山道に踏み出したとき。
ぬかるんだ、落ち葉の上を踏みつけて、ましろは滑った。
「うわ」
木を掴もうとした手が空を切る。
腰を打ちそうになったが、寸前で真下に、白いものが転がりこんだ。ましろの下に入り込んだそれは、ぎゅん、と妙な音を立てる。
「えっ、何!?」
「お前は、いつもいつも、危なっかしいなぁ」
ましろが飛び起きると、下から、白い(踏まれてちょっと汚れているが)子犬もとい子狼が現れた。
「白露王?」
「そうだ」
「夢じゃ、なかったの?」
「何でだか、小さくなってしまってな。家に帰れなくなった」
小さいくせに何だか偉そうに、子狼姿の白露王が、顔をあげて宣言した。
「しばらく夜露をしのがせてもらおうかと思って、行ったんだが、お前、寝相が悪いから踏みつぶされそうになったぞ」
「勝手に来ておいて、何その言いぐさ!」
寝ぼけていたことや、目が開く寸前まで泣いていたことを思い出して、ましろは恥ずかしくなって、白露王に桶をかぶせた。白露王が戸惑いの声をあげる。
「おい、ましろ。出してくれ。暗い」
「やだ、知らない」
「ましろ」
「知らないったら」
子狼がよろめく。可哀想になってきたので、ましろは桶をはずしてやった。
「貴方、って呼ぶのも、白露王って呼ぶのも、何か、似合わないわね。シロ?」
「白露王だ」
「シロ、で十分よ」
「そうか? 妙だぞ、ましろ」
「シロ、シロ」
調子に乗って、ましろは白露王の頭を撫でてやった。撫でているうちに、呼び名については、うやむやになったようだ。白露王はおとなしくしている。
「ところで、そんな姿になった、原因は分からないの?」
「何だろうな?」
子狼姿の白露王は、首を傾げた。短い手足でしきりと跳ねる。
「呪いかな」
「簡単に言うわね。そういえば、昨日妙な首飾りが落ちてて……」
「それかもしれないな」
小さなしっぽを振って、白露王は本当に簡単に言ってのけた。
「どうやら呪いにかかってしまったようだ」
「! 何でそんなに落ち着いてるの」
確か崖の下の、川に、あの首飾りは落ちたはずだ。ましろは白露王を抱えあげた。
「どこへ行くんだ、ましろ」
「決まってるでしょ! あれを取りに行くの」
「あれ? あぁ、あの不機嫌な石か。呪いをといてくれと頼んだところで、ふてくされているからどうだろうなぁ」
「どうして貴方は、そんなに余裕なの!」
ましろは子狼を振り回す。白露王は、困った顔をした。
「狼だからだ。たいていの呪いには打ち克てる」
「そういうものなの? ただの、犬の仲間みたいなのに」
「ううん、どこか行き違いがあるようだな」
つぶらな瞳で、白露王はましろをじっと見た。
「山犬とも呼ばれて、呼び名はいろいろあって混ざっているが――俺が言っているのは、山の奥に里を持つ、山の主のような、者のことだ。獣としての狼の姿をとるが、里ではたいてい、人のようでもある」
「何それ」
「何だろうな? お前は人間の里に近い、山際で暮らしている。お前も、人よりも猟師らがあがめて畏れるものの側に、近いと思うが」
「山神様みたいな?」
「あやかしとも少し違うから、まぁそんなところだろう」
鷹揚な子狼の様子に、ましろは、自分が真剣に悩んでいるのが、だんだんばかばかしくなってきた。
「つまり、神様みたいなものだから、貴方は呪いなんて、自分でとくことができるのね? 心配しなくてもよかったの」
「まぁ、どのくらいかかるか分からないが」
不意に、ばたばたと人の足音が近づいてきた。驚いたましろが硬直しているうちに、白露王はするりと飛びおりて逃げてしまう。
「待って」
慌てて、茂みの手前で捕まえる。白露王は身をよじっていたが、ふと思いついたように、ましろの着物の中にすぽりと入った。
足音が遠ざかる。山道の、上か下を、駆けていったようだ。
「何だったのかしら」
着物の上から子狼を撫でる。白露王はうんともすんとも、言わなかった。
「? どうしたの」
そのときだった。
「やぁ、つまらんなぁ」
すがしい、若い男の声が、ため息のように放り出される。
上の道から、茂みを分けて、人がおりる。
闇が、落ちてきたのかと思った。
よく見れば、細かな紋様が織り込まれた絹の黒衣。結い上げた髪、帽子もとてもよいものだ。涼しげな目元、ひとはけ紅をはいたような頬や唇。女か、と一瞬見間違えたが、安定した重心具合は、男だった。
身構えたましろは、しばらくして、相手を見たことがあると気がついた。
「貴方、この間の……まだ山にいたの?」
黒衣の男は答えず、少し目を見張った。
「これはこれは……そちらこそ、まだ山に?」
「それは」
山に住んでいると、なぜだか答えられなかった。嫌な予感がする。この人に知られてしまったら、まずいような、予感がした。
狼が間近で、こちらを見ているときみたいに、緊張が走る。
「関係ないわ」
「それもそうだ」
黒衣の男の視線が、ふらりと、ましろの後頭部の方へいく。
(しまった、耳……!)
男が目を細める。どうやら、今、ましろには例の耳と尾が生えているようだ。
――この、もののけめ!
(嫌だ)
これまでのように、きっと罵りや、嘲り、恐れの言葉を投げつけられる。
肩がこわばる。視線は外せなかった。ましろが目だけでも逃げ出せば、怒鳴られるかもしれない。この男は、人外の者を木切れで平気で打ちそうだ。そんな冷気をまとっていた。
ましろは、黒衣の男の、白い面を盗み見た。
「ふむ……」
女のような、繊細な美しさに、憂いと好奇が行き過ぎた。ふと男が、口調を低く改めた。
「ついてはこないか?」
「どうして?」
反射的に、疑問が口をつく。耳と尾は、緊張でぴんと張りつめる。逃げ出せるよう、手足にも適度に力が戻る。
「どうして? 面白いことを聞くな。理由が必要か?」
男が、喉の奥で笑った。ましろは構わず、言い返す。
「私は、ついていかない。貴方のことも知らないし」
第一、母を待っていなくてはならないのだ。
とはいえ、下手に答えると、何をされるか分からない――だから、ましろは慎重に、それ以上のことは言わなかった。黙り込む。
考えの読めない男は、子犬に吠えられたように、少しだけ目を細め、典雅に笑う。
男にしては身のこなしが緩やかだ。それでいて、眼差しがころころ変わる。面白い、と言ったくせに、不愉快さや、憤り、喜びや楽しみが、目にいくつも、移ろい流れる。
(小川みたいに、移ろっていく……)
「あるいは、捕まえに来るかもしれないが。そのときは、それが運命だろう」
「は?」
艶やかに笑んで、男は衣の裾を翻した。
人の大声が近づいてくる。誰かを、捜しているようだ。
男は、声に背を向けた。山道に似合わぬ貴人の姿で、すいすいと歩いていく。
ましろは思わず声をかけた。
「貴方、あの人達から逃げているの?」
「逃げているとは人聞きの悪い。私は遊んでいるのだよ。捜し物は見つかっていないし」
ましろの横を通り過ぎ、男は、またと呟いた。
「いずれ、な」
ふわふわと、よい香りがした。母が、山を下りて布を納めにゆくとき、白粉を出してくるが、それと似た、華やかな香りだった。
胸が、しめつけられる。恐怖か、それとも懐かしさからか。
「……何なの、あれ」
やはり貴族なのだろう。手指もきれいで、重いものを持ったことがないようだった。
ましろの懐が、もそっと動いた。突然子狼が、顔を出す。
「うわ、シロ?」
「あれは、妙な生き物だな」
少し目を細めて、白露王がため息をついた。
「妙な匂いがした」
「あっ、焚きものの匂いかしら。すごーく高級そうな、いい香りだった」
「そうじゃなくて」
まぁいいか、と呟いて、白露王は再び引っ込んだ。
「ちょっと待って。シロ、そこに居座るの?」
「眠い」
ちょっと鼻声である。
風が梢を揺らしている。空気が湿ってきたので、雨が近い。雨音だろうか。ざわざわと何かが駆けてくる。
(違う)
先ほどの人間かと思ったが、ざわめきが、不意に吠えた。ましろの体が、再び固まる。
それらは、犬とは違っていた。長く、遠吠えをする。姿はまだ、見えていない。
体が震えるような、捕食者の叫びだった。
(怖い)
白露王が、ましろの着物から顔を出した。
小さいながら、小さく遠吠えしようとして、せき込んだ。
「知り合いなの?」
「身内だな。襲いはしないだろうが、構うなとは伝えておく」
白露王に、小さななりで、気遣われた。ましろは胸がちりちりした。着物の上から白露王を手で掴み、押しつぶす。
「おい、何だ。何をする?」
「こんっなに、可愛いのに」
(可愛いのに……狼なんだ)
分かってはいる。でも、小さくてふわふわしていて、短い手足で踏ん張って駆けたりする様は、見ていて心が和んでくる。だから、恐ろしげな狼が、仲間として白露王を呼ぶことが、つらかった。白露王が彼らと話せることは、何だか、ましろだけの狼ではないと思い知らされ、裏切られたようで。
さみしかった。
(私のなのに、って、思った)
ましろはその考えにぞっとする。野生の生き物は、飼うことなどできない。小鳥や魚が、いくら可愛くても、人は彼らの生活を侵してはいけないのだ。
「どうした、ましろ?」
首を傾げて、白露王が懐から前足と顔を出す。ましろがしばらく黙っていると、顔をなめてから、ぴょんと山道に飛びおりた。
「何を気に病んでいるのか知らないが。止まっているより歩かないか? 他の狼はもうこちらには来ないはずだし、そろそろ雨が来る」
「さっきまで、寝ようとしていたくせに」
「昨日はろくに寝ていないからな。夕暮れ時に子狼になったせいで、寝床を探すのに苦労した」
「仲間のところには戻らなかったの?」
「見回りの途中だったし、戻ろうにもこの姿だ、かえって心配されそうでな。元に戻ってから帰ろうと思って」
「ふうん」
薄暗くなる山中を、小走りに歩き出す。静けさを割って、白露王が雑談を投げてきた。
「そういえば、小屋のところに変なものが干してあったな」
「草とか、糸のこと?」
「そうなのか? 太陽みたいな色のものもあったな」
「あれはね、結構いい色が出たと思うの。シロにも似合うわ」
「何だ? あれで何か作るのか」
「量が少ないから、作れるとしても帯くらいかなぁ」
シロには首輪とかになってしまうね、と言いかけて、やめる。また、これは野生の生き物だと、思い出した。知らず、ため息が出る。
「貴方って、変わってる」
「何がだ?」
「喋るし、呪いのことも知ってるっていうか、分かってるみたいだし、子犬になっちゃうし、ぼんやりしてるみたいで優しいみたいだし、何だか変な狼」
白露王は片耳をそびやかし、瞬きをした。
「子犬じゃなくて、狼だ」
「そうね」
「お前も、ずいぶん変わってるが」
「そうね、……よく言われる」
「しかし、そう悪くない」
「悪くない……」
それは不思議な響きのする言葉だった。ましろの後ろで、思わずはみ出したしっぽが揺れた。
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