1-4
*
妙なことが立て続けに起こったので、小屋に戻った頃には、ましろはすっかりくたびれていた。日は中天を越えている。
眠たくなって、ましろは少しだけのつもりで、小屋の前の小さな物置に腰掛ける。そのうち寝そべって、眠ってしまった。
夢の中では母に出会った。母はいつも通りの微笑みを浮かべていた。ましろは、母さんどこに行ってたの、と追いかけながら、涙が出た。母は謝り、それから、おもむろに歩き出す。待って。どこへ行くの。
待って。置いていかないで。
「おい」
ふわっとした感触が顔を撫でた。くすぐったくてくしゃみが出る。夢はその一瞬で破られた。ましろは、物置台に足もあげて寝そべった姿で目が覚めた。
至近距離で、大きな目がこちらを見ている。ましろが、ぎょっとして体を起こすと、その生き物は「どこか悪いのか?」と人の言葉で聞いてきた。
しきりに、毛の密集した柔らかな尾が揺れている。たぶん、さっきあれがましろの顔を撫でたのだろう。なめられなかっただけましと思って、ましろは気合いを入れ直した。
「どうして狼がここにいるの」
「どうしてもこうしても。ここは山だ。狼は山に出入りするものだ」
「そういう意味じゃなくて」
(どうして私のところへ来たのかってことよ)
言いかけて、ましろはやめる。何だか、会いに来てほしかったみたいに響きそうな気がしたのだ。
白露王と名乗ったこの狼は、言ったじゃないか。ここは山だからと。狼の行動範囲に、たまたまましろがいただけだ。白露王は、ましろに会いに来た訳じゃない。
何となく苛立って、ましろは桶をつかみ、水汲みに出る。
白露王は、当然の顔をしてついてきた。
昨夜の雨で、小川は少しだけ増水していた。だがずいぶん落ち着いている。
なぁどうするんだ、とばかりに、白露王が悪気のない顔でこちらを見上げている。
ちょっと迷ったが、桶に水と、雨で洗われた山菜を突っ込んで、ましろは小屋に戻った。湯を沸かす。山菜を湯に突っ込んで、ましろは戸口に立っている白露王を追い払おうとした。だが、彼はくるくるとからかうように身軽に逃げて、そうしてじっとましろを見上げた。
(何なのかしら)
会いに来たわけじゃないのに、つきまとうなんて。
「どうしてつきまとうの」
ぽろっと言葉が転がる。白露王は首を傾げた。
「前も言っただろう。お前は、親父殿のはぐれっ子だろうから。まだ一人じゃ餌もとれないようだし、ここは年長者の俺が見てやらないとと思ってなぁ」
「……私は狼じゃないし、自分で自分のご飯くらい何とかする。それに、貴方がいたって、餌をとる役にも立たないじゃないの」
「立つさぁ。見ろ。そのうち小鳥が炉端にとまる。人間は、それを生では食えないが、焼いて食べるとうまいんだろう? そうするといい」
「おかしなことを言うのね」
小鳥が近くを飛ぶことはあっても、小屋に飛び込むことはほとんどない。入るとしても迷子で、すぐに出ていってしまうものだ。
それなのに、鼻で笑ってすぐに、ひょいと鳥が入ってきた。太った野鳩だ。羽を動かして小屋に入った。炉端は熱いだろうに、ちょこんと止まる。
嫌な予感がして、ましろは聞いた。
「ちょっと。貴方が何かしたの」
「していない。ただ、来るだろうなと思ったからだ」
「どうしてよ」
「うーむ、説明が難しいなぁ。狼だから、かな。必要なときに必要なものが現れる。普通の狼と同義じゃない、狼だからな」
「何を言っているのか分からないわ」
「でも、鳥は来た。食べろ」
あまりに真摯な物言いだった。その、まっすぐな目。白露王は、不意にましろの心臓を掴むようなまねをする。
胸が詰まって、ましろはうまく喋れない。食べないでいると、もったいないからと白露王は自分で食べてしまった。
(何て変な狼なんだろう)
小屋にいるのが落ち着かなくて、ましろは外へ飛び出した。
ざふざふと、露に濡れた草を踏みつけて歩く。当然のように、白露王が四つ足で駆けて、ついてくる。
「ついてこないで」
怒りも露わに言い放ち、ましろは歩く。戸惑ったようにくるんとその場で回った白露王は、やがて音も立てずに隣に並んだ。
「なぁ。どこへ行くんだ」
「どこだっていいでしょ」
「飯の支度をするんじゃないのか」
「いいじゃない別に。貴方のご飯じゃないわ」
「お前の腹が空くじゃないか」
当たり前みたいに言われて、ましろは苛立つ。どこまでお人好し(?)なんだろう。
「貴方お腹空かないの?」
「空くよ」
「じゃあおうちに帰って、食べてくれば」
「おうちと言ってもな。野山で兎か鳥でも穫ってくれば、すぐに済むし」
「じゃあそうすれば」
ましろがそっけない物言いをしても、白露王は一向に気にしなかった。
鳥がいやなら、と、彼はさっきの川縁におりていった。人間がいやしないかと、ましろはひやひやした。幸い、葦がそよいでいるくらいで、人の姿は見かけない。
岩陰で何やら、水面を見下ろしていたようだが、ざぶりと水音がして、白露王が戻ってきた。
「ほら」
鼻面と前足が濡れている。ましろは足下で飛び跳ねる魚に目を見張った。
「イワナとヤマメ、どっちだか忘れたが、穫ってきたぞ」
「どうやって穫るの」
「目の前に泳いできたところを、手でばーん、だ」
ばーん、と白露王が手を振る。自分でもやってみようと思っていたましろは、特にこつがないと分かって、ちょっとがっかりした。
「うん、でも、ありがとう」
(この狼は、こういう、不思議な者なのかもしれない)
妙な納得感が、わいてきた。
近くの大きな葉っぱをむしりとって、それで、跳ね回る魚を包む。蔓で縛れば、そう簡単には逃げられない。
「ここで食べて帰ればいいのに」
白露王は不思議そうに聞く。
「人に見つかったら、嫌なの」
「何でだ?」
「だって」
嫌な具合に、ましろの心臓が音を立てた。
この、目の前の、完璧な狼に向かって、言うのが格好悪く思えた。
ましろの耳と尾が出たようで、白露王の視線がその辺りに行く。
「ましろ」
「何」
「人が呼んでる」
そう言う白露王は、岩陰になっていて、ましろを呼ぶ人間からは見えない位置にいた。
ましろ、と、小川の下流の方で少年が呼んでいる。昨日、村へ来ればいいと言った者だ。
白露王が、ちろりとましろに視線をくれた。
「お前、ましろと言うのか」
「そうだけど」
「そうか」
何か言いたげでもある。ましろは感づいて、固い声音で言い返した。
「言っておくけど、しろ、っていう言葉が入っているからといって、貴方と関係あるわけでは、ないから」
白露王は答えず、ふわりと尾を、払っただけだった。
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