1-3

 変な日だった。ましろは早朝の空気を吸いながら、瞬きした。

 昨日は、本当に妙な日だった。狼が喋るとか。ましろを、同じ父の子だと言うのとか。

(夢みたいな話)

 どうせなら、母さんが戻ってきた夢を見られたらよかったのに。ため息をつく。身が細るような寂しさが、ましろの胸に押し寄せてきた。

 顔をあげる。外は明るく、すきま風にもすがしい太陽の匂いが混ざっていた。

 伸びをしてから起きあがった。打ち身を作ったのか、体のあちこちが少し痛む。

(もしかしたら、狼が喋るなんて、幻覚かも。あんまりにも長く、お母さんがいなくって、私おかしくなってたのかもしれない)

 あまりぴんとこないが、そういうことにしておいた。

 ましろは戸を思い切って全開にする。

 一瞬、あの狼が立っていたら、とひやりとしたが、そんなこともなかった。気にしすぎだ、と内心照れ笑いした。

 今日は、古い布の染めかえ、その準備をしたいと思っている。

 ましろの母は、すぐれた染色家でもあった。まっしろな生糸が、色の染みついた、もとは白いはずの母の手にかかると、木イチゴの色、橙の色、草木の萌えいづる色、空の青と、様々な色に染まっていく。指先に術がかかっているようだ。

 ましろが染めたことのあるのは、小さな、自分用の手ぬぐいくらいだったが、色のもととなる木の皮や草集めは、母にくっついて行っていたし、作り方も見よう見まねで覚えている。

 機を織るより、山で遊びながら色のもとを探す方が、ましろの胸は躍るのだった。

 ともあれ、母の不在のうちに、頼まれものの布を早く仕上げろと催促がきてもいけないから、今のうちによく練習しておこうと、ましろは考えていた。

 花色のままに染まる植物もあれば、正反対の色となることもある。同じ草でも、思うような色のとれない日も、ままあるものなのだ。

 やることがある、と決めると、その日は忙しかった。時期には少し早いが、目当ての草を取ると、ましろは畑の脇の木にひっかけて干しておいた。乾かしてから使うつもりだ。

 それから、思い出したように畑にも手を入れる。また、水を煮立てて、古い金属を沈めて、少し腐らす。色止めに使う予定だ。

「もう少し、取ってこようかな」

 山へ入る。

 狼にまた、出会うだろうか。ちょっとだけ、期待ともいえない、ふわふわした気持ちになった。

 はらはらと花の落ちかかる山際を歩いていく。散り終わって間もない黄色の小花を、いくつか、集めた。

 浮かれて鼻歌を歌いながら、ましろは斜面をおりていく。

「おや。こんなところに天女が」

 不意に藪から声が掛かった。

 驚いて、びくりとする。また斜面を滑り落ちそうになった。

 仰向けに天を見たところで、思いのほか強く抱き留められ、息が詰まった。

「大丈夫かな?」

「危ないじゃない!」

 息が詰まっていた分、反動で思い切った声が出た。助けてもらっておいて失礼かと思ったが、何だか妙な寒気がして、それどころではない。

「これはすまない。天女が飛び立てぬとは思わなかったので」

 黒髪の男が、さも分かっているように、仰々しく言葉を返した。

「離して」

 男の衣は、黒一色だ。見たところ普通だが、手触りは艶やかで柔らかく、さぞかし着心地もよいだろう。光の角度によっては、薄く紋様が入っていると分かる。

(こんな布を使うくらいだ)

 貴族か豪族、商人の類だろう。この辺りを歩くなら商人だろうが、それにしては身動きが仰々しい。しとやかに体が動く。

(嫌な、予感がする)

「天女は可愛らしい姿をしているものだな」

 にこ、と笑って、女のように整った面立ちの男は、目を細めた。

「さて人身に身をやつした天女を、驚かせた詫びをしよう。酒と米に、これから狩る獣でも捧げようか」

「いらない。私はただの村人だし、構わず行ってちょうだい」

 いつまで経っても離してくれそうにない。無理にもがいてふりほどくと、

「さて」

 閉じたままの扇を口元に当てて、黒衣の男が首を傾げた。

「姿を見られて恥じる天女とは珍しいな。では着物を」

「いらないって言ってるのに!」

 黒衣の男は、艶然と笑う。年の頃はましろとそう離れていないだろう。だのに、若さに似合わず、臈長けた風情があった。

「遠慮はいらない」

 男は無造作に、袖に入れていた薄布一枚を持ち上げて、ましろの肩に柔らかくかけた。

 結んだばかりの、橙の実のような色だ。

「似合うけれど少々派手かな」

 ではとばかりに、男が、自分の羽織っていたものまで、ましろにかぶせようとする。

 からかわれているにしても、ましろには意味が分からない行動だった。

「いや。やめて」

 布を差し戻し、ましろは慌てて距離を広げた。ふと、男が道を振り返った。ぎしぎしと音を立てて、車が近づいてくるようである。

「本当はつれて帰りたいものなのだが。野の者は、そうも行くまい。気が向けばまた、会うこともあるだろう」

 男が嘯いた。甘やかな香りが、一瞬遠ざかり、また香る。自分が触れた、さっきの布だ。それと男自身から、流れてきている。

(何これ)

 怖い。

 一瞬だけ強く睨みつけて、ましろは身を翻して山道を下った。

(よかった。耳も尾も出なかったんだ)

 悲鳴も聞かなかったし、何とか人間らしく振る舞えたのだろう。

 だから、ましろは知らなかった。

 ほっとしたましろを見送りながら、黒衣の男は一人呟いている。

「最近の天女は、獣の耳と尾を持つものか?」

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