1-2
*
翌朝、風が高いところの雲を吹き払っている。狼の足跡は、自分が踏んだせいか、蹴散らされ、残っていなかった。
震えていても、仕方ない。ましろは水を汲みに出かける。
(今日こそは、お母さん、帰ってこないかな)
小枝を踏む。その音に驚いて小鳥が逃げる。
考えごとに沈んでいて、気づかなかった。
ふと目をあげる。
深い藪の横を、斜面に沿って山道が通っている。その、まっすぐ先に、灰色に見える、大型の獣がいた。
息を吸い込み、ましろは足に力を入れる。
木漏れ日で、ちらちらと、獣の表面がまばゆく輝く。獣は、太い四つ足で地面を踏み、軽快に歩いてくる。
(狼……!)
こちらが気づくのに遅れて、狼が顔をあげた。怪訝そうに。やがて、目を見開いた。
(まずい)
ましろは慌てて、逃げだそうとしたが、体が硬直して動かない。
(大丈夫、きっと、こっちが手を出さなければ……それと、向こうが飢えていなければ、噛まれたりしない……と、いいな)
震えながら、ましろは桶を握り直した。
いざ飛びかかられたら、桶を盾にするつもりだ。だが、あの太い足、ちらりとのぞいた舌と牙の大きさを思うと、戦える自信なんてひとかけらも残らない。桶なんて、きっと粉々になってしまうだろう。
狼が目を細める。その吐息が、はっきりと聞こえる。
(だめだ)
狼が、こちらに関心を持ったようだ。ましろが目を逸らしたのに、狼の視線が離れてくれない。
狼からできるだけ遠ざかろう。じりっと、ましろは斜面に寄る。狼が、一瞬唸り声をあげた。
桶を構えたとき、ましろの爪先が空を切った。崖に近づきすぎて、足を滑らせたのだ。一瞬の浮遊感、直後にばさばさと派手な音が、肩と耳元、全身を覆い尽くした。
受け身も取れず、ましろは斜面を転がり落ちた。ひどく長い間、転がった気がした。実際にはほんのわずかな距離であったらしい。
目を開けると、二、三歩で登れる位置に、先程までいた道があった。
(痛い……)
ふんふんと、鼻息がましろの頬に当たる。
何だろう、と穏やかな気持ちでそちらを見て、肝がつぶれた。
「嫌っ」
先程の狼が、至近距離でましろを見ていた。灰色に見えた獣は、近くだと、真っ白に輝いている。太くしっかりとした毛並みが、今にもましろを突き刺しそうだった。
無駄だと思いながらも、腕を振り回して、ましろは這って逃げようとした。狼は、ふんふんと鼻面を寄せてきて、離れない。
「なっ、何なのよ!?」
苛立って叫ぶと、狼は再び首を傾げた。
見た目は立派な狼だ。それなのに、その仕草は、身近な小鳥みたいな、危険性のない生き物のようである。
ましろは、近くにあった小石を掴んで投げつける。狼はひょいひょいと逃げるが、離れていかない。近づいてもこない。
ましろが、だんだん妙だなと思い始めていると、狼は首を傾げたまま、舌を出した。
「お前、親父殿の匂いがする」
「親父って、私そんな歳じゃないんだけど……! え?」
遅れて、理解が追いついてくる。狼は再度、若い青年の声で喋った。
「親父殿の、落とし子か」
うんうんそれでか、と独り合点して、狼は頷いている。
ましろはどうにか、開いたままになった口をいったん閉じた。が、すぐに開け閉めした。
「貴方、何」
「何、って」
狼は反対側に首をひねった。
「狼だが。山犬と呼ぶ者もいるな」
「見れば分かるわよ! そうじゃなくて、何で、どうして喋ってるの!」
「お前が、親父殿の子だからじゃないのか?」
「は?」
親父、って。何?
束の間、ましろはぽかんとした。
「貴方のお父さん? 狼じゃないの?」
「狼だが。一族を率いる、立派な狼だった」
「おかしいでしょ! 私、そんなものの子じゃないし! 第一、そうだったとして、貴方が喋ってる理由にはならない」
「俺は人の言葉も話せるが。今は狼の言葉で話している。狼の言葉がお前に分かるのは、お前が俺の親父殿の子だからだろう」
「どういう意味」
「お前、狼の子じゃあないか。狼の話す言葉を、理解できてもおかしくはない」
狼が呆れ気味に、ましろを見やった。視線が、ましろの顔よりも少し上に行く。そこにある、ふさふさと毛の生え揃った自前の耳を、ましろはとっさに片手で押さえた。
「違う! 私のこれは、そんなんじゃない」
これほど立派な耳と尾を持っていて、自分が普通の人間だと言い張るのも難しい。
狼ではない理由を説明する言葉は、あまり思いつかなかった。
「とにかく! 私の親は人間なの!」
「そうか? お前が知らないだけかもしれないぞ」
狼は落ち着き払って答えると、ぱたり、と一度しっぽを揺らした。
「まぁいい。ほら、いつまでも座っていないで立て。怪我はないか」
狼が頭を押しつけてくる。肩と頭で、ぐいと力強く押されて、ましろは簡単に立ち上がれた。
「うちはどこだ。送ってやろう」
「どうして。いらないわよ」
「危ないだろう。ほら!」
狼を振り払って逃げようとしたが、ましろはすぐ横の崖をまた踏み外した。ずず、と土がえぐれる。
草を掴んだが引き抜けた。狼がましろの体の下に滑り込み、全身で踏ん張って、止めてくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
まるきり力みもない、飄々とした狼の様子は、ましろを拍子抜けさせた。
(狼って、もっと怖いものじゃないのかしら)
近くで見ると、恐ろしげな顔をしているのに。喋るときにちらりと見える牙は、ましろの顎の骨なんて簡単に噛み砕いてしまいそうなのに。触れると温かい。そして、優しい。
(変な狼)
狼が首を傾げた。
「ところで、お前、名前は?」
ましろは、相手をじっと見つめる。相手も、じっとましろを見つめ返した。
相手は、初対面で、しかも狼で、人間のように話す輩だ。
(怪しすぎる)
名前など、言わなくてもいいだろう。
「助けてくれたことには、お礼を言わなくちゃいけないけど。それとこれとは、別」
「名前を名乗ったからといって、呪ったりしないぞ? 人間の中には、狼を呪術師か何かと間違えて、まじないをかけてくれと祈ってくる奴もいるが、まじないとか、そういうことをするのは人間だけだ」
「そう言うと、かえって怪しいんだけど」
「俺が先に名乗ろうか? 俺は白露王(はくろおう)と言う」
「はくろおう?」
そうだ、と狼が頷いた。
「白い露。真白い狼の一族。四つの氏族の中でも、もっとも強くて大きな狼だ。親父殿もそうだった」
「貴方のお父さんって、この山に住んでいるの?」
「住んでいた。もういない」
どうして、だとか、何匹くらい住んでいるのかとか、聞いてみたいことが沢山、ましろの胸に兆してきた。落ち着いた声音を聞いていると、何だか狼と話している感じがしない。
「あ」
ひや、と、胸底に刃みたいな違和感が甦る。
狼なら――もしかしたら。
(お母さんの、ことを)
知っているんじゃないだろうか。
信じるわけではないけれど、もしましろが、狼の血を引いているのなら。母のことを、狼は見たことがあるのではないか。
もしかすると、小屋を出て、帰ってこない母の、足取りの一部でも、知ってはいまいか。
「あの……」
「ん? どうした」
ふさふさした尾が、ましろに触れる。
ましろの尾よりも立派で、耳もましろより大きい気がする。
(何だか、現実味がない)
狼が喋るなんて、化かされている気がする。
「……何でもない」
狼に途中まで送られて、ましろはよく分からないまま、小屋に帰った。
夜更けに雨が降ったが、雨漏りを避けているうちに、眠ってしまった。
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