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第一章
*
寝苦しい夜だ。狭い小屋の中で、ましろはため息をつく。
掛け布を深くかぶっては、引きはがす。全く眠気は訪れない。布を鼻の上に載せて、再びため息をついた。布には、家族の匂いが、うっすらと残っている。
とたんに、懐かしさが胸を締め付けた。
二人でやっと暮らせるくらいの、柱と屋根を揃えただけの小さな家。母と二人でいるときは、機織り機や預かりものの布生地、糸などがあって、端に寄せても狭いと感じた。それなのに、ましろ一人で寝ようとすると、どうしてこんなに広く、がらんとしているのだろう。すきま風が鳴いている。
もし、ましろがこうした体質でなければ、村にいて、もっと人に寄り添えたはずだ。小屋を建てるのだって、他の人の手を借りられた。
でも実際には、小屋は母と二人で、何度か作り直した。小屋は、大風が吹けば、軽々と吹き飛ばされかけ、大雨が降れば、雨漏りした。近くの小川の増水も、恐ろしかった。
預かりものの布や糸は、守らなくてはならない。それらは、雨風に耐えられる戸棚を作って、隠してあった。人間は後回しだ。
ましろは息を吐いて、機織り機を見る。母親の作った織り機は、ひっそりと眠っている。色鮮やかな織物は、途中から糸だけの姿で、母の帰りを待っている。
実は、ましろも、続きを織ってみた。だが、手が違うと、模様や風情が少し変わる。それで、機織り機を使うのをやめた。
ましろは、いつも通り、小型の箱みたいな織り機を使い、一反に満たない小さな布を織るだけだ。
昼間は、樹木の皮を剥ぎ、緑の葉を集め、乾かし、鍋で煮て生糸を染める。できあがったら、それを織る。糸は、以前は作っていた。だが、最近では客が持ち込む。布も、染めだけやってほしいという者があるから、よい色が出たときには預かり布にも色を移す。そうして布等と引き替えに、お金や食べ物を手に入れるのだ。そうやって、暮らしてきた。
(ねぇお母さん)
ましろは寝返りを打つ。
(私も、がんばってるよ。だからお願い……)
どうにか朝を迎えると、ましろは体を起こす。いつも通り、水を汲んだりしなくては、ならない。
(お母さん、早く帰ってきて)
祈りながら、ましろは小屋を出た。
*
小石が投げられた。石は、川縁かわべりの道を通り越して、すぐ脇の林に、間抜けな音を立てて飛び込んだ。ましろは顔をあげて、石を投げた者を睨みつけた。
「やぁい」
ましろが反応したのを面白がって、石の投げ手達が声をあげた。小さい子から、ましろと似た年頃の者までいる。
「狼憑き!」
「やぁい狼め!」
「……ふっるいのよ。そういうの。今時はやらないんだから」
小声で毒づいて、ましろは前を向く。小川の近くを通ると、こういうことがあるのは、分かっていた。決して彼らと目を合わさぬように、急ぎ足で先へ進む。
ましろが背を向けても、何度かバカにする笑い声が響いていた。だが、たまにこつんと石が飛んでくるくらいで、ましろには痛くもかゆくもなかった。ちょっと胃のあたりがもやもやするぐらいで、実害はない。
苛立ちで、頭に血が上ってくるが。
(大したことじゃ、ない)
小鳥が枝を離れて、賑やかに鳴きながら飛び回った。
(別にっ! 私が狼だろうと何だろうと!)
力一杯草を踏みつけた。赤ん坊の爪先よりも小さな花達が、恐れおののいて揺れている。
(ちゃんと山の神に供え物もしてるしっ、小さい畑も作ってるしっ、たまに小川で魚も穫るけどっ、別に、悪いこと、してないもの!)
ふん、と鼻息荒く結論づけて、ましろは立ち止まった。いつの間にか、ずいぶん山を登っている。他の山や谷が見下ろせる、高台に着いていた。風が涼しく、頬を撫でる。
ましろは近くの大木に手をかけ、足をかけてよじ登った。大振りの枝はごつごつとして、長年風雨にさらされて逞しい。ちょっとやそっとでは、折れそうになかった。
ましろは、曲がりくねっている枝の、ちょうどよいところに腰掛けた。膝を抱えて背を丸める。葉っぱを鳴らした風が、ましろの、茶色みを帯びた髪をさらって、はためかせた。
「……やだ、生えてる」
ましろは唇を曲げて呟く。衣の裾から、ふさふさとした毛がのぞいていた。毛先がすぼまった、立派なしっぽだ。ましろは、ちょっと触ってから、しっぽを自由に枝の上に置いて、そよがせた。
片手で頭に触れると、そこにも、柔らかな毛を生やした獣の耳がある。周囲の音を聞き取ろうとして、ぴんとそびえ立っていた。
うんと集中すれば、遠くの音や匂いも分かるのかもしれない。けれど普段はぼんやりとして、耳が出ていないときと違わなかった。
(何で、こんなものがあるんだろう)
慌てたりすると、飛び出してしまう。ましろの意志では、どうしようもなかった。
(これがあるせいで、お母さんは私を連れて、山で暮らさないとならない)
つらくなってくる。ましろはため息をついた。
葉達が、ざあっと音を立てる。露がおりているわけでもないのに、葉は黄緑の部分にきらきらとした光をためて、輝いている。まぶしくて、ましろは目を細めた。茶色の枝も、ひび割れやその影も含めて、とても滋味深く、美しい。
遠くの山は、薄青くけぶっている。雲が浅黄色になって、さあさあと流れていった。
新芽をむしって、ましろは噛む。初めは甘く、ついで、びっくりするほどの苦みが舌に走った。
「枝を鍋で煮て糸を染めると、きれいな色が出るのに。お前、あんまり甘くないのね」
耳をさげて、ましろは呟く。
東の方には湖が輝き、渡り鳥が羽を休めている。てんてんと動いている渡り鳥の姿を見つめて、ましろはぼんやりした。
日が中天にさしかかる頃、眠っていたことに気づいて、慌てて木をおりる。お腹がすいて、腹の虫が楽しげに歌っていた。
小屋に戻ると、布と引き替えた穀物を出して、火を通し、粥にして食べた。母親がいつ戻ってくるのか、分からない。だから、穀物は少しずつ使う。
(やだ……)
母は戻ってくるはずだ。それなのに、穀物があるうちには帰ってこないと、思っていた。
(嫌だ、私……お母さんが帰ってこないって、思ってる)
「帰ってくる。お母さんは。でも、帰ってくるとしても、畑をもうちょっと、よくしないと。帰ってきたときに、食べるものがなかったら困っちゃうものね」
ましろは口に出して、自分を励ます。
山には、柿やあけびや山ぶどうなど、食べ物が多い。だが、時期を外すと何もなくなる。保存食も作らないとな、と、ましろは一人で頷いた。
昼からは、畑の手入れをした。古びた木鍬で土を掘り起こし、水はけに必要な溝を掘って、畝を盛り上げる。青菜がしおれかけていたので、小川で水を汲んできてまいてやった。
水瓶にためておく、飲用の水も汲みに行った。往復して瓶がいっぱいになると、今度は採れた木の実を洗いに行く。洗った木の実は、川原の葦でつないで、腰につるした。
ざわざわと葦が鳴る。風が通りすぎていく。
小川に行くと、たびたび人に出会うものだ。人の気配が、小川に近づいてくる。さっきも嫌な目にあったので、ましろは緊張して、耳と尾をぴんと立てた。用は済んだので、人を避けて、山の際を歩いていく。
「あ」
昔からましろを揶揄する少年が、ましろを見つけて声をあげた。
ましろは足早に進むが、狼っ子と、からかう声を聞いて、ついには駆けだした。
心が不安定になると、獣の耳と尾が飛び出してしまう。どうしても。
腹に力を入れても、泣いても、笑っても、出るかどうかには波がある。ただ、気持ちが不安定な時はひどく出る。
自分がこんな姿でなければ、お母さんは苦労しなかっただろうか。
足音がまだ、ついてくる。振り切れないようだ。
ましろは息を荒らして振り返る。果たして、先程の少年がそこにいた。
「おい、聞こえてるんなら早く止まれよっ」
向こうも、ずいぶん息が切れていた。これほど追いすがってくることは、普段はない。
違和感があった。ましろは、顔をしかめて聞く。
「何。何の用」
ざわりと、風が鳴いて茂みを揺らした。
「また、狼が出たってよ」
「へぇ」
ましろは、つとめて冷ややかに言い返した。しっぽと耳だけが、不安定に揺れていた。
少年が、ぎしりと歯を噛んだ。
「山際の、畑に出た。畑仕事してたおっさんが、狼に襲われて、喉笛を噛みきられた」
ぞっとする話だった。
「狼なんて、滅多にふもとには出ないのに」
ましろが思わず言い返すと、少年は再び歯噛みした。
「出ないはずなのに出やがった。山奥に、狩りで入るときぐらいしか、見なかったのに。だからお前、気をつけろよ」
「何がよ」
「お前っ、狼っ子って言ったって、ほとんど人間の女の子みたいなもんじゃないか。狼なんて出たら、一発で食われちまうだろ。場合によっちゃ、村の、西の爺さんちにでも匿ってもらったらいいんじゃないか」
一息に、少年が叫んだ。
(村で、匿ってもらう……?)
「もしかして、心配してくれてるの?」
ましろは、思わずきょとんとした。バカ、違う、そんなんじゃない、と、少年は背を向け、駆けだした。崖の手前で、唐突に足を滑らせる。
「そっちこそ、危ないよ!」
ましろが声をかけると、彼は全力で崖を這いあがり、走って逃げてしまった。
(狼、ねぇ)
確かに狼は、怖い。山中で出くわすと、人間など即座に噛み殺されてしまうという。
(確かに、怖いけど)
山道を登って、ましろは母と暮らす場所へ戻っていく。
もし、家にましろがいなかったら、母はましろを見つけられないかもしれない。だから、村には行けない。そもそも、ましろには、村に居場所などないのだけれど。
小屋が見えてくる。ましろは物思いを打ち切った。
(あれっ、何だろう……)
いつもと少し、小屋前の様子が違っている。
「……何これ」
小屋の前に、足跡があった。細長い、円形の足跡だ。四つ足の獣のものに違いない。狐より、太い。犬、にも似ている。だが、違う。
ましろは、つい先程聞いたばかりの、生き物の名前を思い出した。
(まさか、狼?)
「誰か、いるの」
しんとした山間に、ましろの鋭い声が、吸われて消える。
緊張につられて、耳と尾が出てしまった。毛羽だった尾を自分で掴まえて撫で、ましろはゆっくりと、小屋の周りを見て回る。
足跡は、小屋の前を通過しただけで、畑も荒らさず、来たときと同じように茂みの中に消えていた。
(この辺りまで、狼が来たことなんて、これまでなかったのに……山に異変でもあって、見回りの経路が変わったのかもしれない)
「ここが狼の縄張り、だったら、一人で住むのは、危ない、よね」
でも。ここは、母さんと作った住まいだ。ここにいなくてはいけない。
ぶるり、と身を震わせて、耳と尾を出したまま、ましろは小屋に飛び込んだ。
すきま風さえ、身と心を恐れさせた。丸まって、空腹も忘れて、しばらく休んだ。
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