第3話 毒にも薬にもならぬ話
私は、嫌な女である。窮屈な女である。人の不幸を見て、「他人の不幸は蜜の味」と平気で口にできる女である。ただし、正直に口に出せる分、幾ばくか救いがあるとも思っている。
私は今年で二十一になり、大学三回生であるが、家から大学まではおよそ一時間程度で着く。自宅から駅までは三十分で、そこから快速電車でさらに三十分である。一回生の頃は、徒歩の代わりに自転車を使っていたので、四十分程度の道程であったが、事故による自転車の大破を機に、適度な運動を行う為にも、徒歩に切り替えた。私は、ケチな性質であるから、自転車の購入費を抑えたかったのもある。
ともかく、普段は一時間の道のりを、今日は鈍行に乗って、一時間とちょっとかけて学校へ行きたいと思う。今日は珍しく早起きをし、又朝から随分と機嫌が良いのである。早起きは三文の得という諺があるくらいだから、鈍行に乗ったとして、何かしら益得があるのかもしれぬ。駅へ向かう道を普段は使わぬ路地をも歩いた。
東岸和田駅。私の始点である。七時二十分、やはりかなり早い。それから、数分待たずやってきた快速電車を見過ごし、反対のホームに停まっていた各停に乗った。
JR阪和線を利用する時、ほとんどが学校へ行く目的であるが、又、天王寺へ繰り出す場合もある。どちらにせよ、始点における電車は快速であり、鈍行に乗車するのは、まったくこれが初めてのことであった。この三年間、毎日決まったルーティンしか繰り返していなかった自分に毒づきたくもあったが、同時に、その枠から抜け出せた自分を褒めたくもあった。
車内はすし詰めの快速に較べて、涼しく、実に快適であった。三十分間、立ちぼうけということもない。
椅子に座り、かばんを膝の上に抱き、東岸和田と書いた看板が左へ流れていくのを見やった。出発進行。
確か次の駅は下松だったかしら。うろおぼえの記憶の教える通りであれば、東岸和田、下松、久米田、和泉府中、信太山、北信太、富木、鳳、である。鳳から向こうは、とてもじゃないが覚えていない。上野芝、だとか、そんな名前だったか。こんな具合である。
下松、下松、退屈な車内アナウンス。車掌さんはこんな朝からでもはきはきした声である。私も見習いたい。
次は久米田。久米田といえば、どんなところだったかしら。そうだ、久米田池がある。行基さんがお造りになったため池であると聞いている。
ひどく暇なものだから、こんなお話を考えてみた。久米田池に関する逸話である。
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1 久米田池
久米田池という名は、その地に造られた、久米田池がその発祥である。というのが専らの通説でございますが、では、そもそも久米田池というのは、どのような由来なのでございましょうか。辞書を開かば、久米田池は、神亀二年(七二五年)に、聖武天皇が行基さんに水不足の解消の為に竣工の勅令を賜りなさった。そうしてその十四年後の天平十年に完成し、籠田(すなわち水のこと)が変化し、久米田になった、とあります。ですが、これはまったくの誤りであり、事実は別にあるのです。
この土地は、先程も述べましたが、水の乏しい地域で、それゆえ十分な稲作を拡げることができないでいました。この土地は不思議なことに雨が少なく、それが水の乏しい原因でありました。住人は、雨の降らぬことを随分訝しく思っておりましたが、行基さんが竣工を命ぜられてこの地にやって来た時、行基さんはすぐにピンときました。
雨を独り占めしている者がおるのだ、行基さんはそう仰られました。住人たちは互いに顔を見合わせましたが、行基さんはしたり顔で、犯人の棲家へ向かいました。
河童です。当時、河童はあちこちに生息しておりました。以前、行基さんが水不足の地へ趣いた折にも、河童が水を集めていた為、すぐに気が付いたのです。
河童は童子のような身の丈でありながら、米俵十俵ほどの岩をやすく持ち上げ、又、水の中ならばその速さにかなう相手はおりません。行基さんには、河童を成敗する不思議の力、神通力の類はありませんから、かつて河童を退治したのと、同じ策を用いることにしました。
というのも、河童の好物は酒ですから(後にきゅうりという説が一般的となりますが、あれもまた誤りなのです)、河童のいぬ間に、そっと酒を寝床の置き、草木も眠る丑三つ時、数人のお供を連れ、再び河童の棲家を訪れました。しかし河童は酒を一口も飲んでいません。河童は警戒心の強い生き物ですから、怪しいものには手を付けません。とはいえ、行基さんもそれはお見通しのようで、翌日からすぐにため池の竣工を始めました。やがて池の形ができ、あとは水を溜めるだけという段ににあって、京より祈祷師を呼び、一ヶ月間、一切雨が降らぬようにしました。住人は苦しみましたが、それ以上に苦しんだのは河童でした。どころか、怒り心頭の様子さえ見せ、ついに、行基さんが忍ばせた酒を浴び始めました。途端に酔っ払い眠りに落ちたところを、縄で縛り、池の底へ横たえました。それから乾いた土をかぶせ、頭だけ露出するように埋め立てたのです。
目が覚めると河童は暴れ始めましたが、乾燥した土に力を奪われ、やがれ身じろぎ一つしなくなりました。やがて雨止めの儀の効果が切れると、雨は河童のいるところ目掛けて、すなわち、ため池へ向かって降り注いだのです。
立派なため池を造り、行基さんは得意顔でしたが、苦しみに喘ぐ河童を見ていた住民たちは気の毒そうでした。
ため池を造ったことで、その地での農業は捗りましたが、この事実を知る村人らは、採れた米を苦々しく噛み締めました。
苦い米の田、これが縮まって苦米田、久米田、という訳でございます。
以上が、久米田池にまつわる逸話である。いくら退屈しのぎとはいえ、つまらないことを考えてしまったものである。特に、終わりの部分なんかは、やっつけもいいところだ。物語に対する愛情が完全に失せてしまっている。
これは、久米田の地域に密かに住んでいた渡来人を、行基さんが目ざとく見つけ出し、雨乞いの生贄として生き埋めにした、という史実を言い繕った寓話である、と注釈付けることで、せめてもの体面は保たれたと思っておきたい。
そうこうしている内に、信太山である。今度はも少しばかり上手に物語をしようと思う。
2 信太山
あの山には天狗がいる。誰もがそう噂していた。一人の村の若い男が、度胸試しのつもりで、友人二人を連れ、おっかなびっくり山へ足を踏み入れた。
男の名前は左之助、年は今年で十五になる。村一番の怪力で、また腕っ節も立ったが、人一番幽霊や化物の類を恐れた。それをからかわれることもしばしばあったが、ついに堪忍袋の緒も切れたのか、普段から彼をからかっている二人の友人を連れたって、山を登り始めたのだ。
太陽の高い内に出発したが、すっかりあたりは暗くなり、来た道の方向もわからなくなってしまった。友人らはもはや身を寄せ合って震えているような態だったが、左之助は拳を樹木に打ち付けて、自身を奮い立たせた。
その時、左之助があまりにも強い力で幹を殴ったものだから、めしめしと音を立て、木が中折れし、倒れた。 土煙を立て、どしんと木が倒れる。怪我はないかい、二人にそう問うたが、おかしなことに返事はない。
おい俺をからかうんじゃないぞ、語気を強めて、脅かすような口調で言うが、やはり応えない。不安になって、幹を乗り越えるが、二人の姿もない。
木が倒れた拍子にどこかへ転げ落ちたのだろうか、すました顔で色々考えてみるが、自分ひとり取り残されたことを意識し始めると、いよいよ心細くなってきた。やがて、堪えきれなくなったところで、左之助は半狂乱になりながら腕を振り回し暴れ出したのだった。
彼の腕のひと振りで木々はなぎ倒され、その叫び声に、眠れる兎や狐は逃げだし、草花ですら身を固くした。
「やれやれ坊や、どうしたんだい。帰り道がわからなくなったのかい」
呆れた声で現れたのは若い女だった。こんな山奥に突如として顕れる女は、もののけの類に決まっている、左之助は乾坤一擲、彼女に殴りかかった。が、女はなんでもないように左之助を拳をいなし、一足で彼の下にまで歩み寄ると、まるで母の如く、彼の頭を抱いた。
「坊や、落ち着きなさい。こんな時間に、迷惑だよ」
優しい声だった。どのくらいそうされていただろうか、平静を取り戻した左之助は、あわてて彼女の腕を振りほどき、倒れた木の幹に腰を下ろした。
「す、すまねぇ。俺としたことが、随分、取り乱しちまった」
「私は構わないけどね、怒ると怖いのがこの山にはいるから、精々気を付けなさいな」
女は、左之助の判断によれば、十七、八、くらいだが、言葉を失うほど美しかった。
肌は真雪のように白く、それでいて血色良く、瞳は宝石もかくやという程に輝き、緑なす濡れ髪、妖艶な唇、耳の形ですら芸術であった。が、なにより彼が目を離せなかったのは、背中から伸びている、羽だった。
しなやかそうで、柔らかそうで、又、指で押せば心地良い感触が帰ってきそうだった。色について言及すれば、夜の闇に融けてしまいそうなくらいに黒く、けがれの一つすら見つけることができない。
左之助がじっとその羽を凝視していると、えらく老成した話しぶりだった女が、年相応の生娘のようにはにかみ、
「なんだい、この羽が珍しいかい」
左之助は静かに、何度も首を上下させた。
「触れてもいいか」
「いいけど、むしらないおくれよ」
も一度頷き、漆黒の羽に指を伸ばす。触れると同時にある種の感動を覚えた。この感動は、そのまま幸福と置き換えられよう。
「ところで訪ねてもよいか」
「なにをだい」
「あなたは、もしかして、……」
「そうさ、天狗だよ」
言い終える前に、遮って女が答えた。もったいぶる左之助とは対照的に、至極あっけらかんと言い放った。「みんなはお山の天狗、と呼んでるよ。これも何かの縁だ、あんたの名前も教えてくれるかい」
こうして、左之助とお山の天狗は邂逅を果たしたのだった。
それからというもの六十年間、左之助は足繁く彼女の下へ通いこんだ。妻を娶り、孫も生まれてなお、心から離れぬものがあったのだ。
彼は病を患っていた。当時、不治の病であったそれは、三年前に彼の目から光を奪い、その上、耳から音すらも喪わせたのだった。
かつては村一番の怪力坊で名を馳せた彼も、年には勝てぬ。目と耳を失くしてからは、外出することもなくなっていた。
が、ふと思い立ったように、寝たきりのはずだった左之助は立ち上がり、家族の誰もが驚いた。そのまま、ごく自然な素振りで、丁度散歩にでも出かけるかのような気軽さで、下駄を履いて、出て行ってしまった。行き先は、山。
「ああ久しぶりだね、左之助、えらくやつれたんじゃないかい」
真上からの風を感じて彼は立ち止まった。懐かしいとすら呼べる感覚であった。
「ここ三年、姿を見せなかったね。何かあったのかい」
左之助は自身の置かれた病について、素早く簡潔に説明した。勾配を上るだけで息を切らし、手探りで茂みをかき分けた末に、彼はほとんど瀕死の体だったのだ。
「もう死ぬのかい、左之助」
いつくしむ言葉も、もう彼には届かない。代わりに彼女は、初めて彼と出会った時のように、優しく抱きしめた。
最期に一つだけ頼みがある。消え入りそうな声で、辛くも呟く。
名前を受け取ってくれないか。
彼女は、お山の天狗と自称したが、あれほどに美しいおなごに無骨な名称では味気ないと、常々考えていた左之助は、彼女の名前を考案していた。頭を捻った末、少し気障すぎやしないかと思いながらも、十分の出来を思いついたが、気恥かしさの為か、今まで言い出せなかったの彼女の名を、ついに口にした。
翅乃荼
羽、そしてかやの白い花を意味する名だが、ロマンティストでありながら、はにかみ屋であった彼は、実のところ早々にこの名を決めていた。されど見栄っ張りの性格も邪魔をして、口にするのが憚られていたのだ。
「翅乃荼。良い響きだね。こんなに心に落ち着く名前なんだ、あんたの気持ちも伝わってくるよ」
気に入ってくれたかい。口にすることなく、左之助は目を閉じた。
「こんなに良い名をもらったんだ。ただじゃわりに合わないね」
左之助を横たえると、翅乃荼は大きく羽を振るわせ空高く飛び上がった。それから、あれ以来一度も触れさせなかった羽を引き抜き、指を離す。ひらひらと舞う羽根は、彼の胸の上に落ちた。
まったく閉口ものである。第一に、先程用いた久米田池のそれと、お話の急所が変わらない。そもそも信太山、などという山が実在するのどうかもわからぬ。そして語彙の少ないのも我ながら情けない。彼女の美しさを表すのに、もっと他の言葉は選べなかったのだろうか。どこかで見たような文句を、つらつらと並べ立てただけである。
それに、どうやら私の愛情は長続きせぬものらしい。真に満足の愛情を以て彼らに接するのであれば、左之助を病にするべきではなかった。むしろ、彼自らの手でもって彼女を殺させ、幕引きとするべきであった。
愛する人を手にかけることによって、悲恋は完成せしめられる。これでは不完全である。
ああ、もう気付けば鳳じゃないか。次の駅は、津久野というらしい。
ここから先の駅は、常から通過しているくせに、先も述べたが、名前さえ知らぬ。津久野という名も、今初めて聞いた。
次は上野芝、辛うじて名ばかり知っているが、到着したところで景色に見覚えはむろんなかったし、特別感慨を抱く訳でもなかった。百舌鳥、三国ヶ丘、堺市、いつもであれば、後ろ二つの駅のどちらかで鈍行に乗り換えている。そうして川を一つ越え浅香、又一つ超えれば杉本町。浅香には浅香山という山が、確かに存在するが、もう山も川も沢山なので、最後は街についてなにかしら物語ろうと思う。
3、杉本町
杉本町には鬼が出る。という話が、にわかに沸き起こった。お化けや妖怪の類でも、信じられぬというのに、鬼ともなれば、白い目をすることくらいしかできぬ。しかし逆に鬼というのは、又興味深くもあった。このご時勢に至って鬼という言葉は、聞き馴れぬ響きである。若者のスラングの内、veryの位を示す接頭語、もしくはhardの意味の形容詞として現れるばかりであったが、それが実際に出たとまことしやかに、人の口から口へと走り回るのは、すこぶる面白い。
人面犬や口裂け女でもなく、鬼。とはいえ、私には関係のないことのようにも思えた。噂の中心に立つような人間でもないし、そういった面倒事は極力避けて通る主義だ。
と思っていた矢先に、
私は、
鬼と出会った。
頭から角が生えている。想像よりも長い。突起物程度のものかと思っていたが、鹿くらいはあるのではないか。背丈は私よりも少し高い、いや、私が背を丸めて卑屈そうに歩いているに過ぎない一方で、鬼はしゃんと背筋を伸ばしているのだ。
目が合う。少女であった。私の中の鬼像が音を立てて崩れていく。鬼というのは、赤や青の筋骨隆々の体に、トラ柄パンツではなかったのかしら。その代わりに現代の鬼は、無地のパーカーにタイトなジーンズであった。
「あの、……」
声をかけられた! 私の他に誰もいないことを二度三度確認してから、返事をする。
「私は鬼ですが、そんなにこの角が珍しいですか?」
どうやらあまりにも私が視線を隠さずじろじろ見るものだから、顰蹙を買ってしまったらしい。
「いえ、そういう訳では……。あなた、鬼なんですか?」
「ええ、まあ。こないだ、ようやく出てこれました」
首肯する。真に、彼女は鬼であった。これならば、杉本町に鬼が出るという噂が囁かれることについて、異論を挟む余地はない。
鬼といえば凶暴で、凶悪で、生き血をすすり人を見境なく喰う、といったイメージであったが、彼女にそんな素振りはなく、どころか、ハイボールを片手に、ローソンのLチキを食んでいる。
「本当の鬼?」
「本当に鬼です。間違いなく。なんなら、もっとご覧になられますか?」
いえ結構です。今やハイボールやLチキは、血や人肉よりも美味ということなのかしら。
「でしたら、ちょっと尋ねてみても、いいですか」鬼というものに、私は興味津々であった。少し興奮さえしている。
「ええ、なんでも。ちなみにこのハイボールとLチキはあそこのローソンで買いました」
そんなこと、手首にかけてあるローソンの袋を見れば分かる。
「炒った豆やひいらぎの葉、鰯の頭が苦手というのは、本当なんですか?」
鬼といえばこの三つを苦手として、節分の際には、鬼を外へ追いやるには豆をまき、ひいらぎの葉と鰯の頭を飾るというのは、有名な習慣である。
「苦手……というよりも、触れてはいけない、という契約をしています」
彼女は、訳のわからぬ答え方をした。契約、とは一体どういうことなのだろうか。
「一年に人を喰ってよいのは、節分の晩に、一人のみ。又、右手には必ず盃を持ち、なみなみ注がれ酒を零さぬようにすること。それから、豆、ひいらぎの葉、鰯の頭にはけして触れぬこと。人間が減り過ぎぬよう、鬼が人間を食い過ぎぬよう、はるか昔に人間と鬼が交わした約束なのです」
鬼である彼女直々の言葉ではあるものの、にわかには信じられぬ話である。
「嘘ではありません。嘘を吐いたって、しようがありませんから。……質問は、以上ですか?」
他にも沢山聞きたいことはあったが、節分という行事が人間と鬼との契約の下に成立したものである、という事実が、衝撃的であった。ぽかんと口を開け、今目の前に鏡があったなら、きっと白痴の顔をしているだろう。
「私も、質問をしてよろしいでしょうか」
「ん……ええ、どうぞ」
「今日は何月何日、今は何時ですか?」
「二月三日、十八時三分……」
私は戦慄した。
河童、天狗とくれば、もう鬼を書く外あるまい。街と鬼、一見ミスマッチと感ずるかもしれぬが、私にはかなりハマっているように思える。
が、この物語には大いなる欠陥がある。これは、いわばご都合主義で笑って済ませられるような失敗ではない。人間側の契約内容である。断じて失念していた訳ではないが、どうにも書ききれぬ。思いつかないのである。
しかし、契約内容を思い出せぬほど、人間は、鬼を忘れ去っている、と、まとめの言葉を付け足してみると、丁度良い出来のようにも思えるから、これでおしまいとする。
短編集 終末禁忌金庫 @d_sow
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