第2話 てっぽうと少女
○てっぽうと少女
子供の頃、ふぐと食べると死ぬと聞かされてきた。ある日、我が家にふぐ鍋がやってきた際、父や母や姉などはおいしそうにふぐの身をついばんでいたが、私はというと、母に「ふぐは食べたことのない人が口にすると、たちまち苦しくなって、子供だと死んでしまう」と諭され、隣りでハンバーグにフォークを突き立てていた。
そのまま、特にふぐと接することもなく、かといって敬遠することもなく、十五年ほどすごし、大学三年生になった時、サークルの忘年会でふぐを食すこととなった。わたしは、未だに母の忠告を純粋無垢に信じ続けていたから、辞退を願ったが、先輩に引き止められ、訳を話せと詰め寄られ、かくかくしかじか物申したところ、腹を抱えて大爆笑された。
そんなに笑わなくたっていいじゃないか。と口を尖らせて反駁してみせるが、よほど面白かったのか、涙をすら拭いながら、先輩は私の肩を叩き、ふぐというものについて教えてくれた。
ふぐ毒は、化学的にはテトロドトキシンと言われ、人間にとっては致死性の高い毒物であり、摂取すると比較的短時間で発症し、運動神経に大きなダメージを与えるという。アフリカの一部の部族では、仮死薬として用いられることもあるらしい。
むろん、ふぐはその猛毒を体内に持つが、かといって、ふぐの全身に毒素が回っているという訳ではない。日本でよく食されるトラフグなどは、内臓以外の部位はほとんど食べられるし、十分な処置を施した後であれば、肝を食べることもできるし、それは大変な美味であるという。
一度、ハコフグを口にした際は、食事中に泡を噴いてぶっ倒れた、と先輩は磊落に大笑いしたが、それを聞いたわたしが、再び辞退を申し出る思わないのかしら。
店ののれんを押しのけ、団体客ということで2階に通されながら、私の内心はというと、少し怯えていた。というのも、幼い頃の教育というのは偉大で、化学的な根拠を聞かされたところで、もしかしたら運悪く中ってしまうのではないかしら、などなど考えていた。直前に聞いた先輩の体験談も利いているのかもしれない。
そんな私の心の裡を、先輩はいちいち見抜きさってしまって、呼吸不全に陥った時には、俺が息を吹き返すまで人工呼吸をしてやるなんて、冗談のひとつを飛ばすものだから、わたしは三度の辞退を希うところだった。
席につき、ビールを注文したところで、ふとメニューに目がいった。コースでの食事だから、お品書きに目を通すことなどないが、すこし手持ち無沙汰になったのだ。
てっちり。
たしかに、ふぐ鍋はてっちりということを聞いたことがある。刺身はてっさ。ふぐに恐怖を抱いて育ってきたものだから、ことさら気にかけることもなかったが、いざふぐ屋に座って鍋を待つ身となれば、むくむくと興味が沸いて出来て、思わず先輩に訪ねてみた。
「てつ」というのは「鉄砲」のことだ。と、さも自分が名づけ親かのごとく胸を張って言う様は清々しい。しかしなにゆえ「鉄砲」なのかしら。
そりゃあ当たれば死ぬからだよ。なるほど、納得である。
ビールが運ばれてくる。サークル一同乾杯。みな、良い飲みっぷりである。私も続いて。
ふぐは食えぬが、酒ならば何杯でもいける。自慢ではないが、私の肝臓は尋常の日本人に較べてずいぶん頑丈である。
次に給仕さんが持ってきたのは、ゆびきというもの。なんだこれはとしげしげ眺めてみると、どうやらふぐの皮であるらしい。
ポン酢に浸かったそれを一口パクリ。ほとんど味がしない。ほんのり磯臭い。けれど歯ごたえがいい。なんだこれは。得もいえぬ感触。私は、初めて食す謎の食感に、目をまんまるくして驚いていたが、先輩をはじめとするサークルの諸兄らは、まるで食べ慣れたコーンフレークみたいにぱくぱく平らげていく。
まぁ、まずいものではない。とはいえとりわけうまいものでもない。こんなものなのかしら、ふぐというのは。
続いててっさ。皿の向こうまでうっすら見えるくらいの薄さで切られてふぐの身が整然と並んでいる様は、なるほど美しい。刺身というからには醤油をつけて食べるものだろうと思っていたが、これもまたポン酢。一枚、一枚、ぺらぺらと剥がして食べる私の隣で先輩は、皿の上の身をすべてひとまとめに箸ですくってしまって、そのまま乱暴にポン酢に付け、一飲みしてしまった。
なんて粗野な! とあにはからんや思ってしまった私の思考をも、この妙に敏い先輩には、またしてもお見通しのようで、てっさはこうやって食うものなんだぜ。と仰った。
こればかりは、さすがに先輩と言といえど、本当かしらと訝しまざるを得ない。
騙されたと思って。では、騙された体で。ぱくり。
なるほど、うまい。
そして、鍋の出汁がいよいよ沸騰してきた頃合を待って、給仕さんたちがてきぱきとメインディッシュを運び込んできた。特大の皿に、これまた大量のふぐの身が敷き詰められている。
ふぐはねぇ、沸騰させたら火を弱めて、それからお湯が沸騰しない温度を保つんだ。得意顔で先輩がふぐの身をぽいぽい鍋に放り込んでいく。
なるほど、なるほど。感心のしっぱなしである。これは? アラ。これは? 身、ここの部分がうまいんだ。あとはできるのを待つだけだ。
そこで先輩はライターをカチリ。一服なさった。さも、僕は食べないから、みんなで好きにお食べよ、と言わんばかりである。なんというブルジョアジー。ではお言葉に甘えよう。
先輩の合図を待って、鍋に箸を突っ込む。ほほお、これがてっちりというものか。茹でたふぐの身は、弾力があって、それでいて柔らかい。噛むたびに味が出てきて、実においしい。
ちらと先輩に目をやる。先輩は、煙草をアテにビールばかり飲んでいて、一向に箸に手を付けようとしない。仕方ない。どれひとつ。
ぽとりと先輩の皿にふぐを入れてやる。そうすると、先輩は、得もいえない奇妙な顔をして、――あれは喜んでいるのか、怒っているのか、はたまた悲しんでいるのか――わしわしと私の頭を撫でた。
なんだか心臓のあたりがチリチリする。まるで、鍋を焦がすコンロの炎のようだ。
も一度、先輩をチラと盗み見る。今度はちくりと心臓が痛んだ。
ああ、さては毒に中っちゃったのかしら。
ふぐの毒は即効性というが、さてはて、こはいかに。人工呼吸も悪くない心地である。
ふぐのどく。はやきおそきか。ふくのとき。どくあたりなば。はるとおからじ。
ツギハギだらけの一句であるが、宴もたけなわ、酔いもしとど。毒に中ったと思って、平にご容赦。
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