第3話 両思い



 リヒドがメアリーを懸想しているのは間違いない。

 そう確信を抱くようになって二週間あまりが過ぎ去った。その間リヒドとは、書斎にコーヒーを届けに行った日を最後に、顔を会わせていない。

 元々、何かと忙しい方なのだ――屋敷に帰る事すら稀で、今まで何度も会えていただけでもレアケースだったのである。会おうと思って簡単に会えるものではない。

 それに。

 自分はなんて事のない一般庶民。しかも住込みのメイドとしてお世話になっている身だ。そんな自分が身分違いの恋なんてありえないし、何より重過ぎる。きっと周りも猛反発するだろうし、そんな過酷な環境、メアリーには絶対に耐えられそうにない。

 だからこそ、これ以上リヒドの恋情を燃え上がらせてはいけないのだ。あくまで事務的に――されど失礼にならないように。多少素っ気ないと思われるかもしれないが、リヒドは雇い主であると同時に、こんなメイドにも対等に接してくれる良いお方。そんな尊敬にすら値する人を、落ちぶらせるような真似だけは決して許されない。

 などと決意を固めながら――今日も今日とてメアリーは、日課である屋敷の掃除に勤しんでいた。

 今日は屋敷の窓掃除。屋敷が広い分窓の数も多く、掃除も一苦労だ。今回は何人かと手分けして窓を拭いているのだが、小窓から大窓まで様々あり、なかなかに時間を喰いそうである。しかも他のメイドはかなり離れた位置にいるので、メアリーの担当した区分はまだまだ終わりが見えず、しばらく窓掃除から抜け出せそうにない。

 季節は真冬。まだお昼過ぎだが、外は十分に寒く、開け放たれた窓から流れ込む風が異様に冷たい。

「う~。手が痛い……」

 バケツに入った水が、ガサガサになっている手にやたら染みる。見ると水が黒々と濁っており、そろそろ水を入れ換えた方が良さそうだった。

「よいしょっと」

 バケツを両手で持ち、メアリーは階下に向かおうと階段を目指す。

 掃除用の水道は裏庭にある。ちなみに今のは二階。裏庭に行くには、まず階段を下りなければならない。

 そういえば、と廊下を歩きながら、メアリーは少し前に書斎へコーヒーを届けに行った事を想起する。

 あの時のリヒドは、何故かメアリーと話した後、より疲れを濃くしているように見えた。普段通り話しただけなのに。

 あれか、やはり日々の仕事の疲れが蓄積しているのか。働かせてもらっている身としても、何とか疲労を解消してあげたい。

 そう考えて、以前疲れには甘味が良いと小耳に挟んだ事があったので、コーヒーの件より前の日に甘い物を渡した事があったのだが、



『何て言うか、うん。まさか角砂糖とかじゃなくて、粒状の砂糖をそのまま渡される日が来ようとはさすがに思わなかったよ……』



 と、妙に残念そうな顔をされたのが記憶に強く残っていた。おかしい。ちゃんと包み(それも可愛らしいやつ)に入れて渡したはずなのに。

 やはり、庶民が口を付けるような安い物では、食べる気にもならないという事だろうか。我ながら浅はかだった(それでも受け取ってはくれたが)。

 今度からは、ちゃんとした物をあげよう。庶民であるメアリーがあげられる物なんてたかが知れているが。

「グラニュー糖だったら、旦那様も喜ぶかなあ……」

 リヒドがいたら「違う。そうじゃない」とツッコミが飛んできそうな事を呟きつつ、バケツを運ぶメアリー。

 そうこうしている内に、階段へと辿り着いた。

 ちょうどそこは、洗濯物を運んでいる時に、偶々居合わせたリヒドによって助けられた所でもあった。



 ――旦那様、今頃何しているんだろう。



 他のメイド達の話では、大事な会合があるとかで、夜遅くまで帰ってこないらしい。つまりその間は、決して会う事はない。自然、溜め息が漏れる。

「ちょっと待って私! がっかりしちゃダメじゃない!」

 これではまるで、恋する乙女そのものではないか。

 そんなはずがない。恋慕しているのはあくまでリヒド。まさかメアリーがそんな間違いを犯すはずがない。

 リヒドに恋してしまうだなんて、お門違いもいい所。それぐらいの分別はメアリーにも付いている。

 首を横に振り、邪念を払う。今は仕事に集中せねば。

 決意を新たに、メアリーはバケツを持ち直し、階段を下りる。

 ところで、階段は上る時よりも下る時の方が筋肉を使うというのはご存知だろうか。

 諸説あるが、階段を下る時は上る時と比べて、全体重が膝といった関節部にのし掛かり、また身体が前に倒れないよう踏ん張りを付けなければならないので、その分負担が大きいらしいのだ(逆に上る時は、心肺系に負担が掛かるらしい)。

 そのせいもあったのだろう――ただでさえ窓拭きなどで体を酷使した上、重い汚水の入ったバケツを持っていたら、たとえ普段軽く筋トレ(出稼ぎ前から習慣となっていたので、やらないと気分が乗らないのだ)をしているメアリーといえど、例外ではない。

「きゃっ――!?」

 体が傾き、バケツが大きな音を立ててひっくり返える。

 落ちた直後のメアリーは、周りの景色全てがスローモーションに感じられた。

 清流のように遅々と過ぎる景色。バケツが転がる音すら、遅れて耳朶を打つ。

 同時に、今までの記憶が早捲りされる本のページのように駆け巡る。

 そして、その最後は――



「リヒド様…………」



 走馬灯の中で、次々と思い浮かぶリヒドの顔。

 そのどれもが、困ったような苦笑を浮かべていたけれど。

 見ているだけでホッとするような、とても温かな笑みで――――



「危ないっ!」



 意識すら落ちかけていた刹那、その声だけははっきりと聞き取れた。

 メアリーの体に襲う衝撃。だがその衝撃は誰かに抱きとめられた事によって相殺され、すぐに温かな感触がメアリーを包み込む。



「まったく、君はいつも危なっかしいね……」



 頭上から掛けられる、呆れを混ぜつつも心底安堵したような声。

 誰あろう――それはメアリーの記憶に最も深く刻まれた人物。

 メアリーのご主人様――リヒドであった。

「リヒ――旦那様! どうしてこちらに!? まさか、これが噂に聞くジャパニーズカゲムシャ!? ハラキリ!?」

「いやいや、カゲムシャ違うから。本人だから。あと腹も切らないから」

「え、それじゃあ本当に旦那様? だって夜遅くまで帰ってこられないって聞いたのに……」

「うん。さっきまで向かっている途中だったんだけど、うっかり忘れ物をしちゃってね」

「『あの秋置き忘れた、大切な恋心』とかですか!?」

「いや違うからね? ていうかそれ、別バージョンもあったんだね……」

 その様子だと、特に怪我もなさそうだね。

 そう言って、リヒドはメアリーをそっと床に下ろす。

「あ、ありがとうございます! すみません、また助けていただいて……」

「そうだね。ちゃんと周りを見て気を付けなきゃダメだよ?」

「はい! 蜘蛛に命じます!」

「うん。肝ね。蜘蛛に命じても意味ないからね?」

 本当に大丈夫? と再度訊ねるリヒド。

「それにしても、タイミング良く間に合って良かったよ。なんだかにすら思えるけど」

!? やだ、やっぱり私の事を!?」

「えっ」

「えっ」

「…………」

「…………」

「いや、故意だからね? 恋愛の方じゃないからね?」

「そ、そんな恋よりもずっと愛してるだなんて、どれだけ本気なんですか旦那様……!」

「ええええええええっ?」

「ええええええええっ?」

「………………」

「………………」

「…………ぷっ。あはははっ!」

 と、何が可笑しかったのか、突然腹を抱えて大笑するリヒド。

 そうして一頻り笑った後、リヒドは呆気に取られているメアリーに向き直り、「ごめん。訂正するよ」と言葉を発する。



「どうやら僕は、君の事を好きになってしまったらしい」



「………………」

「………………」

 暫しの沈黙。その間、じっと見つめ合うリヒドとメアリー。

 そして――



「こけええええええええ!?」



「鶏!? と、とりあえず落ち着いて落ち着いて!」

 突如奇声を上げたメアリーに、リヒドが両肩を掴んで「どうどう!」と宥め始める。

 深呼吸を一つ。ついでにスクワットもしつつ(スクワット中、何故かリヒドが目を点にしていた)、気持ちを安定させたメアリーは、改めて雇い主の顔を見やる。

「すすす好きって! 旦那様、やっぱり私の事を……!?」

「うん。好きだよ」

 今回は否定したりせず、「君には負けたよ」と苦笑を滲ませながらも、リヒドははっきりと己の想いを告げた。

「君は、僕の事が好きかい?」

「そ、そんな恐れ多い! 私なんてただの庶民ですし、旦那様の隣りに並ぶ資格なんて……」

「そんなの問題じゃないよ。確かに周りから何かと言われるだろうけどさ、重要なのはお互いの気持ちだ。君はどうなんだい?」

「わ、私は…………」

 真摯な瞳で見つめられ、メアリーは顔を伏せて逡巡する。

 身分違いだと思っていた。リヒドにはもっと相応しい女性がいると思っていた。

 けれど、そのリヒドがメアリーを好きだと言ってくれた。身分差など障害ではないと言ってくれた。

 メアリーの真なる想い。

 瞼を閉じればすぐに浮かぶ、見ているだけ胸がとても温かくなれる、優しげで素敵な笑顔。

 もしも。

 もしも本当に、自分にもその資格があるのだとしたら、メアリーは――



「私も、旦那様――リヒド様の事が大好きですっ」



「…………良かった!」

「きゃっ!?」

 エミリーが想いの丈を吐きだしたのと同時に、リヒドがガバッと唐突に抱き付いてきた。

「少し心配したよ。思い悩んでいるみたいだったから、ひょっとしたら断れるんじゃないかって」

「リヒド様……。でも本当によろしいんですか? 私、何の取り柄もありませんよ?」

「そんな事ないよ。君ほど一緒にいて楽しい人は他にいない。少々天然過ぎる所もあるけれど、まあ、そこも含めてチャームポイントさ」

「リヒド様。私、まだ十七ですよ?」

「うん。天然ね。定年じゃなくて」

 クスリと笑みを零しつつ、リヒドは若干顔の距離を離し、メアリーの少し濡れそぼった瞳を見つめた。



「僕と幸せになってほしい。一緒に付いてきてくれるかい?」

「はい! 喜んで!」



 リヒドのプロポーズに、迷いなく笑顔で首肯するメアリー。

 そうして二人は自然と距離を縮め、大窓から陽光が差し込む中、太陽に負けないくらいの熱いキスを交わした。





「……ところで、君の名前って何だっけ?」

「今更になってそれを訊くんですかリヒド様!?」

 最後の最後で、初めてツッコミ側に回るエミリーなのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ご主人様、その恋はいけません! 戯 一樹 @1603

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ