第2話 リヒドの悩み
スチュアート家現当主であるリヒドは、非常に困っていた。
どうにもここ最近、とあるメイドに多大な勘違いをされているような気がしてならないのだ。
女性に告白された事は星の数ほど。またリヒド自身もフェミニストというか、とても紳士的な男なので、向こうから気があるんじゃないかと思われる事も多々あったが、今回はその比ではなかった。
例えば数日前にも、こんなエピソードがあった。
その日リヒドは、夜遅く書斎で書類関係を整理していた。
「少し遅いな……」
壁時計に目をやりながら、リヒドは独り呟く。
長丁場になりそうだったので、眠気覚ましにとコーヒーを頼んだのだが、少々時間が掛かっているように思う。
何かあったのだろうかと、苛立ちよりも先にメイドの心配をする辺りがお人好しのリヒドらしい所だが、なにぶん少し手が離せず、様子を見に行けそうにない。
けれど、やはり階下まで行ってちょっと様子を見た方が良いのではないだろうか――そう悩んでいた時だった。
こんこん、とドアをノックする音。無事に来れたのだと胸を撫で下ろしつつ、「どうぞ」と応える。
「お、お待たせしました旦那様」
入ってきたのは、これといって特長のない――ともすれば、記憶にすら残りそうにない年若いメイドが、危うげにコーヒーの乗ったトレーを持ちながら、書斎へと入ってきた。
――ああ、この娘か。
記憶に残りそうにない影の薄い少女ではあったが、リヒドはその顔をよく見知っていた。
それは、ここ最近妙に遭遇する機会が多く、エキセントリックな言動が目立つ不思議な少女。
そして何より――どうにもこの少女が、自分に好かれていると誤解している節があるという点が、リヒドの印象に強く残っていた。
「だ、旦那様。コーヒーです」
ガタカタと手元を震わせながら、奇跡的にもコーヒーを零さず、カップを机の上に置く少女。よほど緊張していたのか、少女はカップを置きおえたと同時に深く息を吐いて、重大な仕事を完遂した男のような顔で額を拳で拭った。無駄に男前だ(女子だけど)。
「ご苦労様。ずいぶんと遅かったけれど、何かあったのかい?」
「も、申し訳ありません! 何故か胸がドキドキしちゃって……」
「そっかあ。僕と顔合わすのに、ちょっと緊張しちゃったのかな?」
「い、いえ! 多分コーヒーを運ぶ前に、腕立てをしたせいかと……」
そりゃドキドキもするわ。運ぶのも遅れたりするわ。仕事なめとるんか。
「いや、うん。何で腕立てをしていたかはわからないけれど、あまり無茶はしないでね? 仕事もあるんだから」
「はいっ。でも体だけは丈夫なんで問題ないです! 風邪も殆ど引いた事がないくらいなので」
「そうなんだ。僕は割と風邪を引きやすい性質だから、君が羨ましく見えるよ」
「そ、そんなっ。私を見て悩ましいだなんて! 私にそんな劣情を抱くほどの魅力はありませんよ旦那様……!」
「えっ」
「えっ」
「…………」
「…………」
「……まあ、あれだ。とりあえず気を付けてね、色々と」
まだ言及したい事があったが、これ以上はやぶ蛇だと思い、リヒドは本心をぐっと喉奥に呑み込む。
「そういえば、このコーヒーはどこの銘柄だい? 確か色んな種類のコーヒー豆を取り寄せていたはずだけど」
「えっと、ですね。そのコーヒー? の銘柄は……」
「ちょ、ちょっと待ってちょっと待って! 何でコーヒーって言った後に疑問符が付くの? これコーヒーなんだよね? コーヒーでいいんだよね?」
「えへへ…………」
「肯定して!」
何で
もしかして、あれか。銘柄が分からず、笑って誤魔化そうとしただけか。よく確認するとちゃんとコーヒーの香りもするし、問題はなさそうだ。
「もういいや……。ありがとう、仕事に戻ってくれて構わないよ」
「あ、はい! 失礼いたします!」
深々と頭を下げた後、そのメイドは小走りでドアを開け、書斎から慌ただしく退室して行った。
今までの騒々しさが嘘のように静まり返る書斎。メイドが出て行ったのを見計らってから、リヒドは盛大に溜め息を吐いた。
「思い返せばあの時、砂糖も何も付いてなかったなあ……」
いつもの書斎でコーヒー事件を反芻しつつ、リヒドは万年筆を走らせる。
リヒドはどちらかというと甘党で、コーヒーには砂糖もミルクも入れる派なのだが、あの日のメイドが届けてくれた時は、何も入れる物が無かった。
おかげでリヒドはブラックでコーヒーを飲む羽目となり、結果的には目が冴えたので良かったが、何だか複雑な思いでその夜を過ごす事になるのだった。
そして今宵。今日も仕事の書斎関係に追われ、深夜まで回りそうだったので事前にコーヒーを頼んでおいたのだが、果たして。メイドは何人か雇っているし、またあの子が運んでくれるとは限らないが、しかしおそらくはそうなるであろうという、妙な確信がリヒドにはあった。
そうして、しばらく書類と向き合っていると――
こんこんっ。
とドアをノックする音が響いた。
「今回は時間通りだったな……」
その事実にホッとしつつ、リヒドは「どうぞ」と入室を促す。
「し、失礼いたします……」
入ってきたのは予想通りというか何というか、リヒドが気になっているメイド――存在感が薄い割に、奇怪な行動で目が止まる少女、その人の姿であった。
「旦那様、こ、コーヒーをお持ちしました」
言って、メイドはリヒドの元へと危なかっしい足取りで近寄り、机の上にそっとカップを置く。
メイドの挙動にハラハラしつつ、リヒドは「ご苦労様」と礼を述べて、コーヒーを見やる。
その周りに、砂糖やミルクといった物は見当たらず、並々と注がれたコーヒーしか視認できない。ちゃんと頼んでいたはずなのだが。
「君、砂糖とミルクは? 前もって頼んでいたはずなんだけど」
「………………あっ!」
あ、これアカンやつや。この反応は忘れたとか、絶対そんなオチだ。
「ひょっとして、忘れちゃった?」
「それならありますよ。このポケットの中に」
「何今の!? ねぇ何今の!?」
何故わざわざフェイントを掛けるような真似をした!?
「いえその、話している内に他の忘れ物を思い出しちゃって……」
「あ、ああそっか。ちなみに、その忘れ物って何だい?」
「そんな大した物ではないんですが、えっと、『あの夏置き忘れた、大切な思い出』とか面白そうな事を言った方がいいですか?」
「うん。そんな芸人魂みたいなものは見せなくていいからね?」
一体主人である自分に何を求めているんだ、このメイドは。ボケに突っ込めと言うのか。
「はい。ご所望の砂糖とミルクです」
言って、リヒドに手渡す。
よく見るとその手は小刻みに震えており、緊張しているのが窺えた。きっとこの部屋に入る前からずっとこうだったのだろう。
「大丈夫? 手が震えているようだけど」
「す、すみません! どうにも止まらなくて……」
「また腕立てでもしてたのかい? 前にも言ったけど、ダメだよ。いくら体力勝負っていっても、女の子なんだから」
「そんな! どえりゃー可愛いだなんて! 照れちゃいます!」
ついに空耳どころか、勝手に捏造まで始めてしまった。あと、何だその方言は。
これ以上話していたら、向こうのペースに巻き込まれてドツボに入ってしまいかねない。
そう危惧したリヒドは、
「改めてご苦労様。もういいよ」
とメイドを下げらす。
「はい。失言いたしました!」
それを言うなら『失礼』だ。まあ確かに、度々奇天烈な事を口走ってはいるが。
最後まで忙しなくバタバタと書斎から出て行った彼女の背中を静かに見送って、疲弊したように深く嘆息するリヒド。
「参ったなあ……」
どうやらあのメイドは、完全にこちらがゾッコンだと思い込んでいるらしい。
勘違いなのだが――勘違い甚だしいのだが、しかし、本当に困っているのは……。
「何だかだんだん、彼女の事が可愛く思えてきちゃったんだよなあ……」
ぼやきながら、心を落ち着けようとカップを手に取り、コーヒーを啜る。
コーヒーの黒い水面には、困ったように眉をしかめながらも、少し照れたように苦笑するリヒドの顔が映っていた。
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