第2話(その二)
シートベルトを締める音が機内にあふれた。隣のグリーンもかちゃりとシートベルトを締めた。深く背もたれに倒れて目を閉じて、深呼吸をしている。さっきまでの軽快な態度とは一変していて、具合が悪くなったように見える。顔色はただでさえ白いのに、血の気が引いて青かった。
「大丈夫ですか?」赤梨が尋ねると、グリーンはわざとらしく乾いた笑い声をあげた。まるでそれは自分を鼓舞するような、誤魔化すようなものだった。一度深く息を吐いて、意を決したようにきりりとした目で赤梨の顔を見た。
「実は、私は高いところが苦手でね。いやあ、君と話していて随分と気が紛れていたんだが、今のアナウンスで現実に引き戻されてしまった。まいったよ。君は怖くないかい?」
話す声は震え切っていた。べつに、と赤梨は言った。おお、とグリーンが関心する。
「すごいな、私は君がうらやましいよ。そんなに平然としていられるなんてね。私には無理だ」
ガタガタと機体が揺れた。途端、グリーンがひっと小さく悲鳴を上げた。
なあ、とグリーンが赤梨の方を見た。なんですか、と尋ねる。
「こんなおじさんがこんなことを言うのも恥ずかしいし気味悪いんだが、手を握ってもいいかな? もし私の席が運悪く引き裂かれたとしても君と手を繋いでいればシートベルトを外してどうにか助かるだろう。どうかな、いいかい?」
何を馬鹿なことを言い出すのかとも思ったが、別段断る理由も見当たらなかったので、いいですよ、と赤梨が手を差し出した。グリーンはがばりとその手を掴んで、ありがとうと握手をしたかと思えば今度は両手で赤梨の右手を握った。ぶるぶると震えが伝わってくる。
変なことになったなあと思いながら赤梨はグリーンの向こうにある窓からぼんやりと外を眺めた。フランスの街が見えた。ついに来たのだと心が躍った。親には感謝してもしきれない。我儘を聞いてくれて、背中を押してくれた。続けるにしてもやめるにしても、せっかくなんだから楽しんでおいでと、今日、空港で見送ってくれた両親のことを思う。
もうすでにお土産は何にしようかと考えていた。せっかくだからフランスっぽいものを買っていきたいなと思いながら、隣で震えるフランス人をちらりと見る。着陸したらこの人に教えてもらおうと思いついて、もう一度窓の外を見た。どんどん街が眼下を滑っていく。
パリ=オルリー空港に着陸したときにだくんと揺れた。隣のグリーンはびくびくと肩を震わせていた。ぎっちりと閉じた瞼を薄めに開けて、もういいかい、と呟いた。もういいですよ、と赤梨が言うと、深呼吸をして、握手をした。
「いやあ、本当に助かったよ。今回も無事でよかった。ああ、生きて帰ってこれた」
かちゃんとシートベルトを外すとグリーンは意気揚々と椅子に座りなおしている。もう怖くないらしい。ご機嫌に鼻歌も歌っている。
外は天気がよく、からからと晴れていて旅行日和に思えた。その天気のように元気になったグリーンに、赤梨はお土産は何がいいか尋ねた。
「そうだねえ、フランス土産と言えばワインだが、君はまだ歳が若いから無理か。うーん、せっかくなのだからルーブル美術館で何か買うといいよ。あそこはびっくりするほどお土産のラインナップが素晴らしい。もし、絵なんて二度とごめんだと思ったのならマルセイユ石鹸やゲランドの塩なんてどうだい? 日本は清潔な国と聞くし、おにぎりはソウルフードだろう? どちらをとっても君の国にぴったりだ。親御さんもきっと喜ぶ」
「ありがとうございます。じゃあ、そこらへんを探してみようと思います」
何、これくらい大したことないよ、とグリーンは手を振った。
日本は春休みであるので成田からの直行便はほぼ満員だった。ぞろぞろと降りていく彼らを見送ってから、グリーンは意気揚々と席を立った。リュックを背負った赤梨を早く早くと催促する。
入国審査と手荷物検査を終えてターミナルに出てみると人が絶えず行き交っていた。みんな大きなリュックと自身の腰ほどの高さのスーツケースを転がしている。
赤梨もそれらに漏れず、リュックこそ通学に使っているもので小さいが、スーツケースは大きい。中身は旅行期間中の着替え程度だが、帰るころにはもっと重たくなっているだろう。
グリーンはターミナルを抜けた先の改札まで赤梨のことを送ってくれた。グリーン曰く、「命の恩人にこれくらいのことはしないとね」とのことだった。
「ありがとうございました」赤梨が頭をさげると、そこに手を差し出された。その手を掴んで握手をする。
「何、気にすることじゃない。何せ君は命の恩人だ。そして未来の画家だからね。素敵な旅になるといいね。君のこれからを楽しみにしているよ」
グリーンはさらりと帽子を外して手を振った。改札を間にして赤梨も手を振り返す。赤梨が切符を買いに行くのを見て、グリーンも帽子を被りなおしてすたすたと歩いていった。
scene2.
観光客の多い駅構内で切符を買って電車が来るのを待った。周りを見渡すと意外と日本人も多くて、少し気が楽になった。
近郊急行鉄道網RER・C線。シャン・ド・マルス・トゥール・エッフェル方面行き。長ったらしさに感動する。都内じゃこんなに長い名称はない。数分も待てば電車が来た。赤梨はそれに乗り込んで反対のドアの近くにもたれた。
車窓から目に入ってくる街並みは日本のそれとは違っていた。中世の家屋が立ち並ぶ。日本にも古い家屋はあるが、日本のように木造家屋ではなく、目の前に建ち並ぶのは石造建築で見るからに古い。古いのに味があって絵に描いてみたいと思う。日本の風景もいいけれど、初めて見たこともあって、吸引されるように外を眺めた。
見れば見るほど初めて見る街並みに心が躍った。描きたい――朝霧の静かな街も、人の行き交う昼時も、夕焼けに朱く染まる街も、街灯と星と月の照らす夜の街並みも、どんな風景でも、きっと描いていて楽しいだろう。
乗り換えの駅に着き、電車を降りた。サン・ミッシェル‐ノートル・ダム駅は赤梨と同じように観光に来た客も多い。ここがあのノートルダムのせむし男の舞台か、と街を眺める。
レ・ミゼラブルでもその名を知られるヴィクトル・ユーゴーの名作であり、そのノートルダム大聖堂の前に捨てられていた醜い赤ん坊——カジモドが鐘つきとなった聖堂が対岸に見えた。近くを流れるセーヌ川沿いのバス停留所へ向かいながら景色を眺め続けた。
流石はユネスコ世界遺産になるだけのことはある。登録名は「パリのセーヌ河岸」だったか。
正直、こんなに心が躍るとは思っていなかった。ついたところでビクビクして終わってしまうとか、不安なことばかりを考えていたけれど、今は楽しくて仕方がない。ここから見えた景色を描きたいとか、この場所を描きたいとか、いろんなことを考えたが、それはどれも、描きたいという願望ばかりだった。
バス停留所について、バスに乗り込んだ。
降りそびれるのが怖いので、入り口付近の席に腰を下ろす。
前に持ってきたリュックからスケッチブックを取り出して鉛筆を走らせた。今見てきた景色を形に残したい。かりかり、しゃっしゃと鉛筆の音が心地いい。やはり自分は絵を描くのが好きだ。けれども、やはり、どうしても、なぜか途中で描けなくなる。
またか、と赤梨はため息をついた。あれだけ心が躍っていたのにどんよりと重たくなった。跳ねるように高鳴った心臓も、今は普通に脈を打っている。バスの向こうに見える風景を描きたいけれど、まるで描けない。窓枠が額縁に見えてきて、他人の描いた風景画がその向こうに広がっているように思えた。
誰かはきっと、この風景を描いている。誰かはきっと、思う存分描いている。文字でも、絵でも、音楽でも、きっとこの目に映った世界を誰かはきっと表現している。
なのに。赤梨は景色を眺めるのをやめた。手元のスケッチブックに現れた風景を消すように鉛筆でぐるぐると円を描き続けた。
結局、自分には描けない。機内でのグリーンの言葉を思い出した。魂をすり減らして描いたもの。今の自分は魂をすり減らしている。すり減らして、まるで描けちゃいない。描きたいものが目の前に溢れて、頭の中で出来上がっていくのにいつも途中で崩れ去っていく。まるで砂で城を作り続けて、強風や荒波に飲まれていってしまうように。
どれくらいぐるぐると鉛筆を回し続けていただろうか。芯はずいぶんと短くなってしまった。がりっと鉛筆がスケッチブックを削った。真っ黒になった絵はまるで今の自分の心のようだ。だとしたら、今削れて白く下地の見えたこの傷は、心に出来た傷なのか、それともこの真っ暗闇な心の中に差し込んだ一筋の光なのか。どっちだろう、と自嘲気味に赤梨は口角を歪ませた。
ついにルーブル美術館前についた。バスを降りて歩いていると、広場のようになったところにはピラミッドがある。あたりに噴水もあって、涼もうとしている人もいる。日差しは春にしては少しばかり強かったので、噴水の近くは涼むのにちょうどいいかもしれない。
scene3.
チケットを購入しようと受付に行くと、今日は金曜なので夜の二一時過ぎまで開館していると言われた。それと、学生でまだ一八歳になっていないので無料だと微笑まれた。どうも、とチケットを受け取ってふらりと館内を見て回る。
ラッキーだった。ゆっくり見ることが出来そうだ。
六万平米以上の展示面積を誇るこのルーブル美術館は全ての展示作品を見るのに一週間はかかると言われている。以前、ネットで調べたときに、赤梨はその記述を見つけて、まっすぐにまずはモナ・リザのもとに行こうと心に決めた。
ゆっくり見れると思っていたが、予想していた以上に人が多かった。いろんな国から、自分と同じようにここに作品を観に足を運んでいた。さすがは来場者数世界一位の美術館である。作品を観ている他の客の迷惑にならないよう気を付けながら人の波の間を縫った。
そして、他よりも人だかりの大きな場所を見つけた。ようやく、観れる。
ぞろぞろとツアーの観光客たちが流れていく。人の壁が消えていき、赤梨に微笑みが向けられた。
ああ、と声が漏れた。「こりゃすごいや」と呟いた。モナ・リザは綺麗だった。いつもそこで変わらぬ微笑みを万来の人々に向け続けているのに疲れを知らぬようで、今も自分に向けて微笑んでいる。
堂々たる面持ちで、そこで微笑む美女を切り取ったような絵だ。どこか憂いを帯びているようにも見えるし、優しく微笑んでいるようにも見える。
シンプルな三角形の構図で描かれており、その底辺を作る手も、その上にあるふくよかな胸も、首も、顔も、光源を同じくする光によって照らされてモナ・リザに様々な表情を持たせている。らしい。
パンフレットに描かれたそんな解説をたらりと読んでポケットに押し込んだ。
どうしたら、こんなに素敵な絵を描けるのだろう。どうしたら、こんなに魅力的な女性が生まれるのだろう。どうしたら——
赤梨は閉館間際までそこに居続けた。何もかもを忘れて、そこにいるだけの葦のように立ち続けた。ただ目の前にいるモナ・リザを見続けた。周りにはもう人がいない。閑散としたそのエリアに立ち尽くす赤梨に警備服を着た男が寄ってくる。閉館を知らせるように警備員が赤梨の肩を叩いた。
確かに人はいなかった。どこを見ても、誰もいない。まるで自分だけがこの美術館を貸し切って自由に見て回っているような、モナ・リザの微笑みを一身に受けているような気分になった。
それを邪魔するように肩を叩いた警備員に、すみません、と謝って、赤梨は外に向かった。あの人も仕事なのだからそんなことを思ってしまっても申し訳ないのに。頭を振って、明日もまた来ようと一人頷いて、足を進める。最後にもう一度だけ、今日の分としてもう一度だけモナ・リザを見ようと振り向こうとしたとき、後ろで、ドガン! と音がした。爆風に背中を押されて前のめりに倒れ込んだ。
何が起きたのかわけが分からなかった。爆発に巻き込まれたような気がしたが、ここで爆発が起きるとは到底思えない。強く打ちつけた胸をさすりながら起き上がって後ろを振り向くと、モナ・リザがあったあたりに煙が起きていた。
「そんな……」
モナ・リザが壊された……?
ありえない。信じられない。あれだけの作品をいとも容易く平然と破壊した?
「なんで……」
赤梨が呆然とその煙の向こうを見る。煙が晴れたら、そこにモナ・リザはいるのだろうか。今も変わらず微笑んでいるのだろうか。
「まったく、君は絵をなんだと思っているのだね!」
煙の向こうから声がした。赤梨の近くで鋭く舌打ちをした音がする。舌打ちのした方向を見ると、そこには、ついさっき赤梨の肩を叩いて閉館を知らせた警備員が苦々しい顔で煙の向こうを睨んでいた。
「また貴様か、グリーン。グリーン・タイムオウル!」
その名前には聞き覚えがあった。今朝の旅客機で話し相手になってくれたフランス人の画商の名前だ。今、懐に入っている名刺に書かれた名前の持ち主だ。
「君こそいい加減、絵に興味を持ったらどうだね、ブラウン・ヴィディオスターくん?」
煙が晴れてゆく。そこには無傷のモナ・リザとあの全身キャメルのフランス人がいた。にこりと赤梨に微笑む。
「赤梨くん。モナ・リザはまだ微笑んでいるかい?」
「はい、今も変わらずです」ぽかんと赤梨は答えた。
「それはよかった。ところで赤梨くん。君は、この作品を観て、どう思ったかな? まだ、描きたいと思っているかい?」
こくりと赤梨は頭を振った。
「私の思った通りだったろう? ほら、私は観る目があるんだよ。君はきっと描くと思っていた。素晴らしい、これで君の未来はさらに彩り豊かになるだろうね」
「余計なことをしやがる!」
腕を広げてシャワーでも浴びるように幸せそうな顔をしたグリーンに警備員の服を脱ぎ捨てたブラウンが噛みつくように吠えた。手のひらをグリーンの後方にあるモナ・リザに向ける。グリーンが興ざめだとでも言いたいように頭を垂れた。それからまっすぐにブラウンの目を睨み射抜く。
「私は画商だ。絵が好きなのだよ。命よりも大切だ。君のように人生がつまらない男には魅力は霞ほども伝わらないのだろうがね。だから私は君たちと決別したのだ。絵を守るために」
「
おやおや、とグリーンがため息をつく。
「相変わらず君はバカだな。作戦を敵に教えてしまうとは。さては"ノウキン"というやつか」肩をすくめて首を横に振った。
「貴様もまとめてぶっ壊せばいいだけだ。馬鹿だろうがなんだろうが、好きに言うがいい。俺様は、ずっと昔から貴様が気に入らなかった」
「奇遇だな。私もずっと昔から君が気に入らなかった」
「印象派の第二席として、貴様を殺す。せいぜい大切な絵画でも守れるといいな」
「おやおや、第二席は空席ではなかったかな? 君には少し、荷が重いだろう」
がりりと歯を食いしばったブラウンがジャケットの胸ポケットから筆を一本取り出して、「
「血気盛んだこと」
呆れたようにグリーンも同じように筆を懐から取り出して「
鼻先から始まり、前身から、まるで絵画の世界から現れ出たようにそこに立つ。どこか紳士の雰囲気を醸し出すパワードスーツはまるでグリーンの人となりを表しているようだった。
scene4.
グリーンが変身した瞬間にブラウンがいたるところに火炎球を生み出した。いらいらとした表情を兜に隠し、ばつばつと火炎球を出し続けている。煌々と燃える太陽を小さくしたように見えたそれは小さくばちばちと爆発を繰り返している。
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