ダ・ヴィンチ・ウィッチ
久環紫久
第1話魔法の筆とキミの腕(その一)
scene1.
「君はこんな話を聞いたことあるかい?
まるで絵空事のように荒唐無稽な話なのだけどね、この世界にいくつもある名画の数々は『魔法の筆』によって描かれたものだ——という話さ。それは名高い画家たちの魂の宿った、絵よりも素晴らしいその画家の最高傑作である——とも言われている。魂の宿るその筆で描かれた絵画は観る者全てを虜にするという——画家にとっては夢のような話なんだ。
例えば有名どころで言えば——初期ルネサンスのマサッチオやサンドロ・ボッティチェリ、フィリッポ・リッピなど、名前を挙げれば暇がない。彼らの絵画はさも魂を宿しているかのように荘厳で、美麗で、神聖だろう? 単にそう言ってしまうのは語弊を生むばかりであまり好ましくないのだが。私が言いたいのは、今の時代でも人の心を動かしてしまうような魔力があるということだ。それは、その魔法の筆を使って描かれたからだ、という噂があるんだよ。
君がこれから向かうであろうルーブル美術館——そこに展示されている『モナ・リザ』もそのひとつだよ。かの高名なレオナルド・ダ・ヴィンチが様々な実験を重ね、そしてついに描き出した最高傑作、なんて言われているがね。私に言わせれば、彼の愛用していた筆のほうが——最高傑作なのだと、そう思っている。
当然、その絵画が素晴らしいとも私は思っているよ。そんな荒唐無稽な話もまさに本物の話であるかのように、贋作など到底足元にも及ばないそれくらいの真実味が絵に宿っているのさ。あたかも魔法の筆が本当に存在するのではないかと裏付けるようにね」
その男はそれからコーラをがぶりと飲んだ。失礼、と言って逆流してきた空気を吐き出す。がふりと盛大に音を出して、少し涙目になった。目を細めて、すまないと謝った。ふう、と一息をついてから男は、
「しかしながら、ここまでやって初めてコーラを飲んだ気にならないかい?」と言った。
なりません、と男の隣の席で、
まただ。また描けない。ぱたりとスケッチブックを閉じた。
小さくため息をついてもう一度開いてみるが、筆は進まない。描くのをやめて、頼んでいたコーヒーに口をつける。砂糖とミルクをふんだんに入れたものだから、もはやカフェラテと呼んだ方が正しいかもしれない。糖分が脳を刺激するような気がした。けれども想像力は刺激されず、絵を描く気にはならなかった。
隣でしゃべり続けるフランス人の画商はキャメルのスーツを着て、これまたキャメルの中折れ帽を浅くかぶっていた。とても流暢な日本語を話して、突然話しかけられた時はびっくりしたが、気さくで人が好さそうだったので、すぐに警戒心はなくなった。
「実は私は浮世絵の買い取りに行っていたんだ。君は日本人だから知っていると思うけれども、歌川広重や葛飾北斎をはじめとする浮世絵画家の描いた浮世絵たちは、非常に素晴らしい。それ以前に優雅で魅力的だった水墨画に対して、彩色をつけて様々な対象を描いた浮世絵というものに、その当時の画家たちがどれだけ表現の自由を夢見たのだろうと思うとどきどきする。それを裏付けるようにあのゴッホのような偉大な西洋画家たちに影響を与えたという逸話まであるのだからね。
その逸話をもっと詳しく言えば、モネやドガなどの印象派を代表する画家たちがこぞって浮世絵からインスピレーションを受けて、絵画のもつ新たな可能性を見出していったのだよ。
ああ、そうそう、骨董品の伊万里焼もそうだよね。私もいくつか持っているが、あれを手に入れるのはとても骨が折れた。その当時買おうと思っていた車を我慢して、壺を買ったくらいだ。当時は私も若かったから——といってもまだ三十路に足を突っ込んだばかりだがね——女性の気を惹きたいという本能を押し殺してどうにか買ってみたんだ。
するとどうだろう。家に帰ればあの素晴らしい伊万里焼が待っている。家に帰るのが楽しくなったよ。見ていてワクワクするんだ。この壺を生み出した職人は一体全体どんなことを考えていたのだろうとか、どう思ってこの装飾を施したのだろうとか。その当時に想いを馳せるのだよ。それが楽しくて仕方ない。
そして、一目見た時にこれは守らなくてはならない作品たちだと思ったんだ」
搭乗員にコーラのお代わりを頼む彼は日本に浮世絵の買い取りに行っていたらしい。はるか昔、江戸時代に確立された浮世絵は、その当時、世界中の画家に多大な影響を及ぼしたと言われている。その昔から人気はあったそうだが、ここ最近は特に評判がよく、よく売れるのだとその画商は下世話に笑ってそう言っていた。
フランスのパリに向かう旅客機の中でついさっき聞いた『魔法の筆』が存在するという話は赤梨にとってとても魅力的に思えた。小さいころから絵を描くことに夢中で、その頃はよく両親の顔や花を描いて過ごしていた。小学生の頃など、休み時間になれば周りの同級生たちがサッカーや野球をして過ごす校庭の片隅で彼らをスケッチしていたくらいだった。
中学校に上がれば、一目散に美術部に入部した。体験入部の時期など他の部活動には目もくれず、毎日美術室に足を運んだ。男子生徒は赤梨を除いて三名しかいなかったし、残りの十数名が女子生徒の女尊男卑の蔓延る恐ろしい場所であったが、持ち前のマイペースで他の生徒たちを気にも留めずひたすらに絵を描き続けた。その成果もあってか、高校は美術部の名門であった東京芸術文化大学附属高校へ進学できた。
と、長い時間を絵を描いて過ごしてきた彼だったが、最近スランプにぶち当たった。思い悩む彼を見て、顧問が一度本場の雰囲気でも味わってくると良い、と提案して、赤梨はそれに乗っかって今空を飛んでいる。
「ところで君は誰か好きな画家や、お気に入りの絵なんてあるのかい?」
グリーンが楽しそうにそう聞いてきた。その問いかけに困ったように頭を掻いて、赤梨は少し唸った。
「実はこの人が好きとか、あんまりなくて。授業とか、色々画集を呼んで知ってはいるんですけど。俺は自分が思うように絵を描いてきただけだったので。でも、そうですね。強いて挙げるなら、レオナルド・ダ・ヴィンチの名前を挙げたいです」
「それはどうして?」
「すごいと一言で表せるからです。だって、画家だけじゃなくて、建築だったり、音楽だったり、そういった芸術方面のみならず、学者としても様々な方面で業績を残しているじゃないですか。"万能人"でしたっけ? 凄すぎてああなりたいなんて思えませんけど、俺も、そういう風に色んなものに影響を受けたいな、とは思うんです」
「少し、良い顔をしたね。君にはダ・ヴィンチになる素養があるのかもしれないな」
「なんですか、それ? 初めて聞くお世辞ですけど」
「お世辞なんてものじゃないさ。そうだなあ、まあ、近いうちに分かるんじゃないかな」
暇なフライトになると思っていたが、隣の画商のおかげで楽しい時間を過ごせた。自分の好きな画家の話をしたり、作風や描法について語り合ったり、空にいたほとんどの時間はその画商との会話で過ぎていった。
旅客機の窓から見える雲がどれだけ流れていっただろうか。ふと、思い出したかのようにフランス人の画商は手を打った。
「そうそう、そういえば名乗っていなかったね。私の名はグリーン。グリーン・タイムオウルだ」
さっと帽子を外して、これは名刺、と懐から一枚差し出されて赤梨はそれを受け取った。画商であることをアピールするような目に痛いほど派手な名刺だった。ピカソのような色調の台紙に大なり小なりのアルファベットが書いてあって読みづらい。
「なんだか、ピカソみたいですね」
「知らないと言っていたわりに知っているじゃないか。そう、私はね、ピカソが好きなんだ。彼の作品はどの時代のものも好きだが、特に好きなのは、ゲルニカの時代から晩年の時代の作品かな。ゆえに、その名刺もそんな風なデザインなんだ。読みづらいだろうけどね、目立つだろう? ど派手で、頭にガツンと残るようなデザインさ」
グリーンはお気に入りなんだとウインクした。確かに目立つ。記憶にも残りやすい。赤梨は受け取った名刺を大切に制服の胸ポケットに入れた。
長々と話し込んだので、もう話すこともなくなっただろうと思っていると、グリーンは深くため息をついて、視線を足元に落とした。
「しかしもったいないなあ。日本では今、桜が咲いているだろう。私は桜が大好きでね。この目でゆっくり見たかったんだが、仕事も客も待ってくれない。この季節になると、どうにか日本に行こうと画策するのだが、金持ちは無駄に時間を持て余しているからね。ほとんどとんぼ返りになってしまう。まったく、こっちの身にもなってほしいくらいだ。あいつらと来たら、どうせ飾るだけ飾ってそれで自己顕示欲を満足させているだけだというのに、一端の批評家のようにああだこうだと言ってくるんだよ。
君もそういう経験があるだろう? 本当に絵の価値をわかっているのかもわからないような年寄りが、これは違う、これはいい作品だと大きな声で高らかに言うのさ。何がよくて何が悪いかなんてちっともわかっていないのに、どう心が動いたとか、そういうことも全くもってさっぱりなのに世間がそれを気に入るか否かで認めるか認めないかを決めつける。
こないだなんて、もうすぐ八〇になる、とある企業の会長が一つ絵を買ってね。それが実は
ふん、とグリーンは鼻で笑った。けれども、と続ける。
「それが実情だ。本当にいいものを見つける人間というのは少ない。良いものというのは必ずしも有名なものではなくていいんだ。けれども人は数を求める。誰かが良いと言ったらそれを良いという。どこまでいっても、それじゃあいいものは新たに現れることはない。
そこで、私の出番というわけだ。私のように画商をしている人間がこれはいいものだと新たに芽を育てる。そしてそれが花開く日を待ちわびる。君の絵もいつか私に買わせてくれよ? 繊細で儚くて、侘び寂びをわかっているような、日本人の心のような絵だね。けれどもそれでいて、大胆だ」
赤梨の手元にあったスケッチブックをちらりと見てグリーンはウインクをした。赤梨は慌ててそのスケッチブックをリュックの中に隠すように強引に片づけた。
「見てたんですか」
「見てたから話しかけたのさ! いい絵を描くね。私好みの絵だ。といってもまだデッサンの最中だったろうから、もう少し完成形を見たいところだけれども。それに、その姿を見るにまだ学生さんだろう? 日本は制服をこよなく愛する国と聞く。君のその服は制服というやつだろう。その年でそれだけ描けるなら将来が楽しみだよ」
にこりとグリーンは笑って、またコーラをがぶりと飲んだ。がふっと空気を吐き出して、これ以上は太っちゃうから我慢しないとね、と名残惜しそうにコーラの入っていたカップをボトルホルダーに置いた。
「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえるのは久々ですごく嬉しいです。でも、もう、描くのやめようかな、って思ってて」
「どうして!?」
仰々しいくらいグリーンは身を仰け反らせてみせた。目を見開いて信じられないとでも言わんばかりに首を振る。それから赤梨の方に身を乗り出す。
「せっかくそれくらい描けるのにもったいないよ!」
赤梨はそりそりと頬を人さし指で描きながら、苦笑いをした。まさか初めて会った人にこんな話をするとも思っていなかったし、初対面の彼がここまで食いついてくるとも思っていなくて心が少し痒かった。
「実は、その……俺、今スランプっていうか。自分の想像したものを描けなくて。模写なら全然、出来るんですけど、でもただの模写ならそれは写真で十分だし」
「君には魔法の筆が必要なのかもしれないね」
「そうですね。それがあれば、俺にもいろんなものが描けるかもしれない」
赤梨はぎっと手を握った。深爪が手のひらに食い込むほどに強く握った。魔法の筆——そう呼ばれるアイテムが自分の元にあったなら今頃自分はどんな絵を描いているだろうか。自分の想像した世界を真っ白なキャンパスに思う存分描けているのだろうか。
グリーンが赤梨を見つめた。穏やかな目で、それは画商としての顔なのか、幾ばくか歳を重ねた大人の顔なのか。
「生きているような絵はね——それこそ名画、と呼ばれるものだがね、それは魔法の筆によって描かれたなんて、さっき言ったがね、要はそれくらい、画家が魂をすり減らしたということさ。
きっと今の君のように思うように描けなかったり、何もアイデアが浮かばなかったり、人生において苦難があったり、時には死にたいと思うこともあっただろう。それでも絵を描く、世界を描くということに執着して見つけた答えがその名画だったのではないかな。
だから君もこれからも絵を描き続ければいつかそんな絵が描ける日が来るんじゃないかね」
空になったカップを口に当ててグリーンは中の小さな氷をしゃりしゃりと食べる。
「どうでしょう。俺にはそうは思えなくて。特別な才能があるわけでもないし。俺は別に画家の家に生まれたわけでもないし、家は普通の家庭だし」
「そんなことを言ったらだいたいの画家は画家の家に生まれたわけではないよ。それに君のご両親は君のことを応援しているから、君は今この飛行機に乗っているわけだろう? 普通の学生はそう易々と海外旅行はできないと思うがね」
「そう、ですね。それはそうです。でも、俺決めたんです。モナ・リザを見て、その時どう思ったかで続けるかやめるか決めようって。俺もこんな絵が描きたいって思ったらこれからも描き続けます」
「賭けてもいい。君はきっと、そう思う」ふふんとグリーンは胸を張った。
「なんで初対面なのにそこまで自信満々に言えるんですか」
「目を見ればわかる。君は絵が好きだ。それもとびっきりに好きな子だ。そして本当は今も絵が描きたくてうずうずしている。だからこそ今苦しいんだろう。描きたいのに描けない、そのジレンマの中で苦しんでいる」
着陸を伝えるアナウンスが流れた。機体が少し傾いた。
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