駕籠屋の化け猫
なつのあゆみ
第1話
青い月光が文机に差し込む。黄ばんだ半紙の中では、黒猫が背中の毛を逆立て、目はカッと開き、長く鋭い牙を見せ、三又の太い尻尾をうねらせていた。
佐吉は己が描いた化け猫を前に唸った。
よく描けていると師匠には誉められたが、妖怪絵としてすご味が欠けている仕上がりに納得できない。佐吉は浮世絵の弟子で、瓦版の口絵を得意とする。彫り物の下絵も評判がよく、弟子たちの中ではよく依頼を受ける方だ。
化け猫の下絵は、駕籠屋の若者から受けた。江戸に来たばかり、田舎臭さが抜けない若者で、弟子入りした頃の自分が重なった。
駕籠かきの背中には彫り物がなくっちゃあ恰好がつかねぇ。一つ変わったのを彫りてぇんだ。旦那は化け猫をご存じで?
猫は長生きすると化けるってぇ、おいらの里では語り継がれていまさぁ。なんでも尻尾が三つに裂けて、人の言葉を話すようになるんだと。
旦那ぁ、おいらは黒の化け猫を描いてほしいんです。
若者は粋がりながらも、日に焼けた芋臭い顔で愛嬌よく笑ってそう依頼した。
へいへい、任せとけ。
そうは言ったが、佐吉は動物の絵を不得意とする。しかし自分に依頼されたのだから、得意とする他の弟子に仕事を回す気はしなかった。速さが売りの瓦版に信頼されている佐吉は、仕事が早い。三日も悩むのは珍しく、せっかち者の血が騒いでいた。
依頼した若者はのんきな気質で、三日遅れているが文句は言わない。そのうち、忘れられて他の絵師に依頼が行っては嫌だなぁ、と思い佐吉は溜息をついた。
今夜の満月は、青光りして、きれいだ。
佐吉は文机の前で唸っているのに疲れて、立ち上がり、提灯を手に外へ出た。誰もが寝静まった夜、一人でぶらりと外へ出るのが好きだ。
江戸の町の支配者になったような気分がする。
江戸は騒がしく、佐吉は瓦版の口絵の仕事に追われる日々を過ごしている。お侍の生首やら美女の死体やら、血生臭いものをたくさん書かされた。田舎のそこそこ裕福な家でのんびり暮らしていたならば、描くことはなかっただろう絵ばかり。三男坊の佐吉は家を継ぐ望みもなく、楽しみは墨と筆で草花を描くことだけで、鮮やかな浮世絵に憧れて江戸へ来た。
憧れていた師匠は酔狂で、兄弟弟子は曲者ばかり、毎日は騒がしく過ぎていった。
ぶらぶら歩いていると、曲がり角で光るものがあり、佐吉は足を止めた。二つの光る緑は、猫の目だ。とっさに観察したい、と思った。
提灯を照らすと走り出したので、追いかける。猫は飛ぶような早さで、あっという間に見失った。
長屋の間の路地で、佐吉は息を切らして立ち尽くす。
猫の鳴き声がした。
足にぬるりとした感触あり、下を見ると猫がいた。緑の目で佐吉を見つめると、にゃーん、と鳴く。抱き上げようと手を伸ばすと、猫はするりとかわして離れると振り返り、じっと佐吉を見た。
緑の目に、不思議に魅かれるものがある。猫が歩きだす。引っぱられるように、佐吉はついていった。猫は軽やかな足取りで、尻尾を左右に揺らしながら歩いてく。
ずいぶんと歩いて、猫が立ち止り、にゃーんと鳴いた。そこは佐吉が暮らす長屋の前だ。どうやら一周してきたらしい。 やれやれ、猫に歩かされて疲れた。
「散歩は終わりだよ」
佐吉は猫に言って、戸を開けた。わずかな隙間に身をすべらせ、猫が中に入った。こら、と叱って提灯を狭い部屋にかざして猫を探すが、いない。
文机の前に、影あり。
照らすと、小柄な若者が座していた。
「お、おまえは誰だ! 何をしている!」
佐吉が怒鳴ると、若者はにんまりと笑った。
「失礼いたします。あっしはさっきの猫でございます」
奇妙なことを言う。
佐吉は落ち着いて座っている、若者に提灯の光を当てた。釣り上った大きな目や、先がやや尖った小さな鼻、薄い唇など確かに猫のような顔をしている。
紺の着流しは袖が体に合っておらず、手は袖に隠れてしまっていた。散切りの頭で耳があるべき所は髪に隠れていたる。
奇妙な風体の若者を前に、佐吉は言葉をなくす。
「旦那、あっしが猫だという証拠をお見せしやしょう」
若者が袖から小さな手を出して、頭を二、三度こすった。すると黒い猫の耳がぴょこんと飛び出た。わっと佐吉が声を上げると、若者は両の口角をにんまりと上げると頬から細い髭がぴっ伸びてきた。
「お、おまえは……あやかしの者か」
「いかにもそうでございますが…旦那に悪戯はいたしませんよぅ。絵師の旦那にあっしを描いていただきたいのです。御代はこれ、この通り」
猫は懐から小判を一枚出し、掌に乗せ、佐吉に見せた。輝きは本物の小判であるが、まやかし物かもしれぬ。恐る恐る手にとると、重みがあった。
「旦那の評判はよう存じております。そのお人柄も、お優しいとお聞きして、あっしのようなあやかしの者にでも、旦那はお相手をしてくださるかと期待して、参ったのです」
猫の話しぶりには、足元にすり寄ってきたような、気を引く甘さがある。
「旦那は、夜の散歩の癖があると聞きまして、お待ちしていたのです」
猫が目を細めて笑う。
「おまえは、化け猫なのか?」
佐吉はようやく、猫の前に腰を下ろした。
「いかにも。人間様は化け猫といえば、こっちの姿だと」
猫が文机から、佐吉の描いた化け猫の絵を手にとり、顔の横に並べた。
「勘違いされている。あっし共からしましたら、これは化け猫の序の姿。人間様でいったら赤ん坊みたいなもんでさぁ」
「おまえが化け猫の本当の姿だというのか」
「いえ、あっしも未熟者。何百年と生きた化け猫は、そりゃあ凄いもんです。人間の耳を作って髷結って、りっぱな侍姿になりやす。あっしみたいな手前は、人間の耳を作れず、こうして人前に獣の耳を出す始末……」
猫が髪をかきあげて見せた耳があるべき場所は、つるんとして何もない。
佐吉はぞっとした。
「な、ならば、何百年と生きた化け猫は、人の世で何くわぬ顔で生活しているというのか」
「そうでございます。異様に鰹節が好きという侍あれば、それは化け猫かもしれませぬねぇ」
けらけらと猫が笑った。口角から牙が出て、光る。
「ば、馬鹿を言うな。獣が人のように生きれるはずがない!」
佐吉が大きな声を出すと、猫は袂で口を隠し、目を大きく見開いておびえた顔をした。
「旦那を怒らせる気はありません。このしがない化け猫の風情に、少しばかりご慈悲をいただけないかと……あっしの姿を描いて欲しいのです」
猫はしおらしく言った。
「何も怒ってはおらぬ。なぜに姿を描いてほしいと?」
「里の文につけたいのです。あっしが元気で、このように少しは化け猫として成長したと。あっしはまだ読み書きが不自由ゆえ、文で十分に無事を知らせることができやせん。
そこで、旦那にあっしを描いて頂き、里へ送りたいのです」
「あやかしでも文のやり取りをするのか」
「いたしやす。なかなかに筆まめですよ。あっしのこの姿を描いていただけたなら、この絵のような化け猫の姿になりやしょう。旦那の絵仕事の助けになるかと」
猫は先ほどのしおらしい様子が嘘のように、明るい調子で言った。化け猫の姿をこの目で見て描ければ、あやかしの絵に足りなかったす凄みが出るかもしれない。
「よし。引き受けた。朝が来るまでに描いてやろう」
「ありがてぇ! 本当にありがてぇ、これで里に無事と成長を知らせることができます」
猫がぺこぺこと頭を下げる。
いいからきちんと座れと言いつけると、猫は張り切った若者の顔になった。月灯りと蝋燭ではまだ暗いので、猫に提灯を持たせる。いっそう明るく所で見た猫は、人に化けた若者とは思えない。肌など毛むくじゃらだったとは思えぬほど、瑞々しい。先ほどのひげは、どこに引っ込んだのやら。
佐吉は古い紙を畳の上に敷き重ね、その上に一枚のきれいな紙をおろすと、若者の姿を目に焼き付け、紙に写した。筆に墨を含ませ、目で紙に焼き付けた若者の姿をなぞっていく。
「おまえは化け猫になる前は、野良猫か? それとも飼われていたのか?」
佐吉は視線を筆先に向けたまま、問うた。
「あっしのような貧乏臭い猫ですが、お武家様のお嬢様に可愛がられておりました。黒助と名付けられ、お優しいお嬢様の遊び相手を勤めさせていただきました……あの頃は毎日がのんきなもので、幸せでござんしたよ」
猫が日向で眠っているように、目を細めた。その柔らかさを佐吉は筆に加える。
「おまえの名は、黒助と申すのだな」
「ええ」
「黒助、猫はなぜ、化けるのだ」
「さぁ。あっしにもわかりません。……今夜は月が明るいですねぇ。夜更かしのつまみに、あっしの生まれ育ちを語りやしょう」
月が呆けたような、長い夜だ。黒助は語る。
両親共が黒猫の黒助は、髭の先まで真っ黒で、カラス猫だ縁起が良いと、反物屋から武家にもらわれてきた。その家には五才になる娘がおり、子猫を可愛がった。
首に鈴をつけられ、にゃあと鳴いては可愛いと誉めそやされ、人間様よりも良い扱いで、艶の良い成猫になった。お嬢様は十八で嫁ぎ、黒助は寂しくなった。
お嬢様にも子が生まれ、黒助は生まれてから二十年目を迎えた。黒助は死期を悟った。
武家屋敷から死ぬために家を出ようとした満月の夜、黒助は己の異変に気がつく。
尻尾が二つに裂けていた。
これは化け猫になる、と予感して急いで家を出た。
老いていたはずの体に力がみなぎり、小鳥など前足を全力で伸ばせば仕留められた。屋敷を出て黒助は野良の化け猫となり、神社仏閣の境内を点々とした。
尻尾は三又に裂け、体は大きくなり、力が溢れるのを感じる。自分にもどうにも威勢を制御できず、人間を襲おうかというころ、生き別れの兄弟に出会った。
兄弟も化け猫になっていた。
再会を喜び会い、兄弟が言うに。
おまえが化け猫になるのを待っていた。再び我らと暮らそうぞ。ついて行くと、一番上の兄は人の姿をしており、家と畑を持っていた。おまえもいずれ、人の姿になる。
それまでの辛抱じゃ。
兄弟たちと畑仕事をして暮らすうち、人の言葉が話せるようになり、満月の夜、むやみに三又の尻尾を振っていると、人間の男の姿になっていた。
兄たちにようやく仲間入りしたと喜ばれ、畑仕事に精を出し、より人間に近付くために努力した。力がついてくると、黒助は都会で生きる化け猫に会ってみたくなった。
兄弟たちも勉強してこいと後押ししてくれ、少しの金を持たしてもらい、江戸へ来た。
化け猫は群れず、師弟関係を結ぶことを嫌がる。黒助は遊郭で奉公をしつつ、人の世に溶け込み裕福な暮らしをしている化け猫から、術を盗もうと渡り歩いている。
仲間は臭いでわかるが、なかなか尻尾を出さず難儀する。
黒助の語りが終わるころ、絵姿は完成していた。化け猫の若者の奇妙にもかわいらしい感じが、よく出た。最後に印も力強く押してやった。
「さすが旦那だ。これはあっしを生き写しにしたよう……ほぅ、なんとも……」
猫は月光に絵をかざし、ほうほう、と溜息をついて見いった。そこまで喜んでもらえると、絵師としても悪い気はしない。
「さて、化け猫姿を見せてもらおうか」
へい、と返事をすると、黒助はカッと目を見開いた。三又の太く黒い尾が現れ、たちまち黒助の姿を隠す。佐吉は息を飲む。底から地響きが起こり、胸を突き上げるような轟きが起こる。大きな黒猫が、口を大きく開けて牙を見せ、三又の尻尾を振っている。ぎらりと光る目を向けられ、ひっと佐吉は短く叫んだ。
黒猫は笑うように目を細める。
さぁ、旦那。あっしの化け猫姿ですぜ。
黒助の声がして、佐吉は震える手で筆を手にした。口をついて出た叫び声をごまかすように咳払いをして、手に力を込めて野太い線で化け猫を描く。三又の尻尾が揺れるたびにくらくらした。身の丈約四尺、虎のように太い前足で地面に踏ん張り、背中の長い毛が逆立ち猫が呼吸をするたびに揺れた。
生臭い息を吐く口の中は赤黒く、鋭い牙生え、喉の奥は真っ暗だ。身の丈ほどある六本の髭は針金のように鋭い。表面がぬらぬらとした鋭い目は、緑色の沼に一本黒い線を引いたようで、見つめいると沈みそうだ。
佐吉は恐怖心を紙に染みこませるように、毛の一本一本を描いた。
旦那、これは彫り物の下絵ですかい。あっしの化け猫姿が駕籠かきの若衆に背負われるたぁ、愉快愉快。
黒助の笑い声は、佐吉の内臓を揺さぶった。
「……最後に一つ、教えてくれるか」
夜が明けた。黒助は着物を着なおし、帯をきつく締め、その場でうんと伸びをした。佐吉は目の充血を感じる。
「なんでございましょう?」
「江戸には……一体、どれくらい化け猫が人として暮らしているのだ」
両の袂の先で口を隠し、へへ、と黒助が笑う。
「それは、知らない方がようございます」
目を見開き、口は今にも咆哮を上げんばかり、牙は白々と、ちょいと上げた前足の爪は鋭く五本、黒い毛は艶やか、三又の尻尾が獲物を探しているかのようにうねっている。
背景には赤牡丹で、黒をよく引き立たせた。
駕籠屋の化け猫、と若者は人気になった。おい、化け猫呼んでくれい、と酒臭い息で呼ばれれば猫のような身軽さで若者はやってくる。
若者は江戸の人気者となり、田舎臭さは消えて、粋な若者となった。
奴の顔は、どことなく猫に似てきたんじゃないかい。
掛け声はにゃあにゃあというそうだ。
あいつが顔を洗ったら、明日は雨か。
噂話に佐吉は興じることができない。
佐吉の彫り物の下絵仕事は増えて、瓦版もよく売れたと、絵師としての盛りを迎えた。絵の仕事を佐吉は真面目にこなした。
「旦那、あっしら化け猫のことは、人に話さない方がよいですぜ……」
佐吉は化け猫駕籠屋の若者の顔とすれ違うとき、決まって俯く。黒助にもらった小判は、弟分にやってしまった。放蕩弟子は花街にて、一夜で使い果たしたそうだ。
佐吉は里の家族の手紙を書いた。
終
駕籠屋の化け猫 なつのあゆみ @natunoayumi
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