第3話

 街灯の光の中で霧がたなびいている。雨が降っているのだ。ぬるい水滴が全身にまとわりつき、肩や背中をじわじわと濡らしていく。

 走りながら、何度も後ろを振り返る。振り返ったら振り返ったで、今度は正面に誰かがいるのではないかと思う。広い海の真ん中に投げ出されたような、変な心地がした。

 けっきょく誰とも会わないまま目的地に着いた。街灯に照らされた青い柵の向こうは、ほぼ闇一色だった。柵を抜けて少し進むと、闇の中にひときわ黒い影となって、鉄棒やジャングルジムが浮かび上がってくる。

「タマ?」

 呼びかけても返事はない。しゃがみ込んで、すべり台の下に丸くあいた穴をのぞいてみる。そこは昔タマが捨てられていた場所だったが、探している少年の姿はなかった。

 ため息が出る。勢いよく出てきたはいいけれど、ここのほかに探すあてはないのだ。

 しかたなく、公園を出て、どこへ向かうともなく歩きはじめた。さまようようにただ足を動かしていると、半年前のことを思い出してしまう。友達と受験結果を報告し合った日も、こうして一人で歩いて帰ったのだ。

 ちょうどいまみたいに、行き当たりばったりの道をたどって。雨の代わりに、粒の大きな雪が舞っていて。道行く人はみんな空ばかり見上げていたから、涙を見られなくてラッキーだった。

「……そんなとこに気使うくらいなら、合格させてくれっての」

 言葉は闇に溶ける。まあ、神様なんてべつに信じてないけど。

 でも、神様と言い張る少年のことはもう少し信じてあげてもよかったかもしれない。

「ねえ……帰ってきなよ」

 もう出てけなんて言わないから。

 泣きだしそうになった、そのときだった。

「ふわああ」

 背後で妙な声がして、瞬時に振り返る。誰の姿も見えない。闇に目を凝らすと、地面の近くで黄緑色の光が二つひらめくのが見えた。

「呼んだ?」

 光の正体はタマの瞳だった。歩道の脇にだらしなく寝そべったまま、もう一度大きなあくびをしてみせる。

 びっくりしたのと安心したのとで、あたしはその場にへたり込みそうになった。

「な、なんで……」

 言いたいことは山ほどあるのに、言葉が続いてくれない。

「あれ、もう夜? ちょっと寝すぎたかな。なんか、このへんの景色見てたら眠くなっちゃってさあ」

 嬉しそうに笑みを浮かべて、タマはまた寝る態勢に入ろうとする。コンクリートの上で背中を丸めるその姿に、ある光景がよみがえってくる。心の奥深くに埋もれていた記憶だ。

 あの雪の日、泣きながら歩いていたあたしは猫の死体を見つけた。まだ子猫といってもいいくらいの大きさだった。車にはねられたのだろう、道路脇に倒れたままぴくりともせず、漆黒の毛並みにも雪が積もりはじめていた。

 見つけたときには、つくづく縁起が悪い日だと思った。それでも立ち去ることができなかったのは、ほかの通行人が誰一人として気に留めなかったせいかもしれない。あたしは猫を道の脇に運んで、保健所に電話をかけた。やがてそれらしき車がやってきたのを確認すると、家に帰ったのだ。

「お世話になったって、そういうことか」

 どうしていままで思いつかなかったのだろう。冷静に考えれば、二、三歳で死んだタマが少年の姿で現れるのも不自然だ。猫の二歳は立派な成猫なのだから。

「あんた、あのときの猫だったんだね」

 そっと頭をなでてやる。やわらかな髪は濡れていたけれど、触れているうちに体温がにじんでくる。タマは気持ちよさそうに頭をすり寄せてきたかと思うと、突然、身震いして水滴をまき散らした。

「ちょっと、びしょ濡れじゃない」

「そりゃそうだよ。雨が降ってるんだから」

 タマは汚れるのもお構いなしに、歩道であおむけになった。

「ほら、帰るよ」

 あたしはため息まじりに右手を差し出す。六月とはいえ、濡れたままでは風邪を引いてしまう。

「そうだね、帰らなきゃ」

 口ではそう言いつつも、タマは手を取らない。厚く重なった雲の彼方を見通そうとするように、ただ空を見ていた。

 そして思いついたように身体を起こすと、こちらに向かって微笑んでみせる。この世のものとは思えない艶やかさに、あたしは息が止まりそうになった。

「うん、帰るよ。きみの『いちばんの願い』は無事叶ったみたいだからね。これで正式な神様に昇格だ」

「帰るって――天国にってこと? でも、あたしはなにも叶えてもらってなんか」

「きっとそのうちわかるよ。今回は補習に協力してくれてありがとう。それじゃ」

 少年が顔の横に右手を上げると同時に、その姿がかき消えた。着ていたTシャツと短パンがぱさりと地面に落ちる。どちらもあたしが貸したものだった。

 突然すぎて言葉が出ない。ひろい上げた服を片手に、その場に立ちつくすしかなかった。

 しかし、おもちゃ箱をひっくり返したような頭の中も、時間とともに整理されていくものだ。周囲の景色がだんだん目に入ってくる。耳の奥でかすかに鳴っていた雨音も、身体を包み込むように広がっていった。

 真夜中の住宅街で、あたしは一体なにをしているのだろう。

 道が青白く照らされたかと思うと、濡れた走行音をまとって車が走り抜けていく。とぎれとぎれに屋根から滴る雨音。顔に降りかかる生ぬるい水滴。雨に煙るマンションの黄色い明かり。長い間触れていなかった感覚に、鼓膜や皮膚がぴりぴり震えた。

「『いちばんの願い』……か」

 本当はずっと出たかったのかもしれない。自分で自分を閉じ込めた、あの部屋から。

 暗闇の中で空を見上げる。もちろん星なんて見えないけれど、雨音にまじって自分の息遣いを感じた。まるで運動したあとのような乱れっぷりに、苦笑せずにはいられなかった。

 家に帰る道のりは思った以上に長い。自転車のライトや犬の声に必要以上に驚いてしまい、上げた悲鳴が雨で響いてまた驚いた。カタツムリが殻をはがされたら、こんな気分になるのだろうか。どうにも心もとないが、この感じを憶えておこうと思った。

 いままでの参考書は全部捨ててしまって、自分に合ったものに買い直そう。ついでに、どこかで黒い招き猫を見つけてくるつもりだ。

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しあわせの猫さま 鮎村 咲希 @Ayu-nyanko

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