第2話
「いちばんの願い」はなかなか見つからなかった。だから少年もなかなか出ていかず、あれから三日経ってもまだ部屋に居座っている。
「タマ、もう少し音しぼってくれる?」
夕食後に机に向かったあたしは、テレビを見ている少年に声をかけた。猫にネコという名前も変な感じなので、とりあえずタマと呼ぶことにしたのだ。
「また勉強?」
リモコンで音量を下げながら、タマが言う。
「熱心だね。神様にでもなるつもり?」
「まさか。受験勉強に決まってるじゃない」
ずれた感覚に苦笑がもれる。
「ジュケンか。それって大変?」
「まあ、あたしが受けるところはね。このへんでは最難関だから」
参考書を準備しながら答える。なかなか目的のページがひらいてくれない。
「なんでわざわざ難しいところを目指してるの」
「なんでって……気に入ったから?」
答えてやったのに、返事がない。振り向くと、タマはテレビに見入っていた。画面の中では極楽鳥が踊っている。
机に向き直って、ため息をついた。本当の志望動機はもっと単純明快だ。友達が通っている大学よりレベルが高いから。ただそれだけ。
問題番号を書こうとしたら、シャーペンの芯がぱちりと折れた。
去年は友達と同じ大学を受験して、合格しなかったあたしだ。それなのに今年はレベルを上げようだなんて、無謀以外のなにものでもない。そんなことはわかっているけれど。
「ちゃんと寝ないと毛並みが悪くなるよ」
あくびまじりのタマの声に、はじかれたように顔を上げた。気づけば参考書の同じ行を何度も目で追っている。今日は早めに切り上げたほうがいいかもしれない。
歯を磨いて戻ってくると、タマはベッドの上で一足先に丸くなっていた。見透かしたようなことを言うくせに、寝顔はあくまでも幼い。温かい身体を足元に押しやって、あたしもベッドに入った。
一週間が経ったころには同居にも慣れた。最初は勉強中に後ろを振り返ってばかりいたものの、今ではタマがすぐそばでマンガを読んでいても平気だ。
べつに自分の順応力が高いわけではなく、たぶんタマの持つ「空気」のおかげだろう。見ればちゃんとそこにいるのに、うっとうしく感じないのだから不思議だ。まだ子どもなので気を使わなくていいし、逆によけいな気も使ってこないので楽だった。
「なに?」
視線に気づいたのか、タマが顔を上げる。
「ううん、べつに。それより、子どもは寝る時間じゃない?」
「……僕たちにとってはこれからなんだけどな」
不満そうにつぶやいてマンガを閉じる。言われてみれば猫は夜行性だ。
それでも、あたしがベッドに入れば足元にやってくる。まるでずっとそうしてきたかのように。あたしはうとうとしながら、飼い猫の顔を思い出していた。
翌朝、目が覚めると、時刻は七時を回っていた。遠くで人の話し声がしている。聞き憶えのある声だ。
「なによ、もう起きたの?」
目を擦りながら文句を言っても、タマの返事はない。
「愛梨?」
もう一度声がした。その声の主に思い当たったとたん、寝ぼけた頭が一気に覚めた。
「ねえ、起きてるの?」
ドアの向こうから聞こえるのは、母の声に間違いない。
「愛梨。聞こえてるんだろう?」
続く低い声は父だ。今日はたしか日曜なので家にいてもおかしくはない。でも、あたしが部屋に閉じこもるようになってからは二階に上がってくることなんてなかったのに。
「んん」
ふとんの足元が動いて、タマが頭を出す。
「どうした――」
「しっ、黙ってて」
寝ぼけ顔に乱暴にふとんをかぶせた。
「なあに? なんて言ったの、愛梨」
「ほら、やっぱり起きてるじゃないか」
ドアノブががちゃがちゃと音をたてる。
「入ってこないで!」
あたしは反射的に叫んでいた。自分でも驚くくらいにとげとげしい声音だった。考えてみれば、ドアには内側から鍵がかかっていて開くはずもないのだが。
「あのね、べつに出てこいって言ってるんじゃないのよ?」
なだめすかすように言う母の声には、かすかな怯えが混じっている。
「最近、動物の鳴き声がするから……その、お母さんは猫か何かをひろってきたんじゃないかって思ってるのよ? でも、お父さんがどうしても確かめるっていうから」
心臓がドクンと跳ねた。ばれていたのか。
「なにか問題?」
ふとんの中でタマがささやく。大問題だ。この光景を目にしたら、両親は間違いなく卒倒する。それどころか、子どもを家に連れ込むなんて犯罪じゃないか。
とにかく、意地でも鍵を開けないでおこう。そう決意した直後、またドアノブが音をたてた。しかし今度は音色が違う。金属と金属がぶつかり合うような音だった。
「本当にこの鍵で合ってるのか?」
父の声に、まさかと耳を疑う。この部屋の外鍵があるなんて聞いていない。でも、現に今、父の手にそれがあるとしたら――。
勢いよくふとんをめくった。ベッドに寝たままのタマが、びっくりしたようにこちらを見あげる。
「出てって」
小さく、鍵が外れる音がした。
「お願いだから出てって!」
ドアが開くのと、足もとのぬくもりが消え去るのはほぼ同時だった。
「あら、なにもいないの?」
母は入り口から身を乗り出して室内を見回した。その脇から父が大股で踏み込んでくる。大きな身体を折り曲げて机やベッドの下をのぞき込むのを、あたしはただうつむいてやりすごすしかなかった。
犬や猫どころか、動物の毛一本さえ見当たらないのを確認して、ようやく父は納得したらしい。部屋を出ていくとき、こちらに背を向けたまま「悪かった」とこぼした。
ふたたび閉まったドアに、あたしは内側から鍵をかける。もう大して意味なんてないけれど。
ドアに背中を預けて、室内を見わたす。なに一つ変わっていないのに、汚されたような気がした。
タマの姿はどこにもなく、声も気配もしなかった。狭いはずの部屋がやけに広々として見えた。
「タマ」
小声で呼んでみても、反応はない。超能力ものの映画なら、なにもないところから瞬時に現れるところなのに。
「本当に出ていっちゃったんだ」
不思議と笑いがもれた。
「はは……せいせいした」
これで勉強に集中できる。寝るときだって安眠できるし、夕食も一人分食べられる。元通りの気ままな生活を取り戻したのだ。
いつの間にか、テーブルの上に朝食の載ったトレイがある。母が置いていったのだろう。さっきのいざこざはひとまず頭の奥に押しやり、箸を手に取る。
外は辛気臭い雨空だ。右手で卵焼きをつつきながら、左手でテレビをつける。やっていたのはどうでもいい芸能ニュースだが、女子アナのかん高い声が耳に心地いい。
やがて話題がペット特集に移ると、あたしはチャンネルを変えた。アップで映っているのは、タマが気に入っていたお笑い芸人だ。昨日の晩も決めぜりふを真似しては嬉しそうに笑っていた。
「タマ」
どうしてこんなにも思い出すのだろう。卵焼きに箸を入れても、窓に目をやっても、タマの顔ばかりが浮かんでくる。
トレイを廊下に出して、机に向かった。途中で時計を見ると昼近くになっていたが、問題集のページはあまり進んでいない。いらついて足をばたつかせれば引き出しにすねをぶつけ、すねをさすって起きたら頭をぶつけた。けっきょく夕方まで粘ったものの、時間の無駄にしかならなかった。
灰色の空が黒く変わっても、タマは帰ってこなかった。あたしはいつも通り一人で夕食をすませ、いつも通り一人でテレビを見て、いつもより早めにベッドに入った。しかし、湿気のせいかなかなか寝つけず、寝返りばかり打っている。
壁紙の継ぎ目を見つめて、ふと思う。
――みんな夢だったんじゃないだろうか。
一人の時間が長かったせいで、脳が幻を作り出したとか。考えただけで背筋が寒くなるけれど、ありえないことじゃない。
「……末期だ」
つぶやいたとたん、脳裏で何かがまたたいた。
違う。それでは説明がつかない。
『最近、動物の鳴き声がするから――』
母はたしかにそう言ったけれど、あたしは動物の鳴き声なんて聞いた覚えはない。
もしも、タマの言葉があたしにしかわからないとしたら。たとえば、他の人には単なる猫の鳴き声に聞こえていたとしたら。
ぐるぐるした頭のまま、むくりと起き上がる。鼓動が速い。近くにあったカーディガンを羽織ると、足音を忍ばせて階段を下りた。
玄関の扉を開けたとたん、湿った空気が流れ込んでくる。まるで植物園の温室に入ったかのように息が苦しい。最初はゆっくりと歩いていたが、しだいに早足になり、町内を抜けたときには走りだしていた。
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