しあわせの猫さま

鮎村 咲希

第1話

 安っぽい笑い声に眠りから引き戻された。薄闇の中でテレビがまばゆい光を放っている。

 やけに毛羽立ったシーツだと思ったら、身体の下にあるのは布団ではなく服の山だった。どうやら衣替えの準備をしている途中で眠り込んでしまったらしい。終わったら英語の問題集に取り掛かる予定だったのに。

 カーテンを閉めて、照明を点けた。狭い部屋には服が散らばり、まるで空き巣に入られたみたいだ。ベッドの上まで服に占領されている。

 とりあえず寝る場所を確保しなければ。

 主の代わりに枕を使っているカーディガンをつかみ、背後の衣装ケースめがけて放り投げた。

「うにゃっ」

 乱暴な仕打ちに、カーディガンが奇妙な悲鳴を上げる。――そんなはずはない。

 恐る恐る後ろを振り向き、衣装ケースの中をのぞき込む。入っていた夏物はみんな出したはずなのに、プラスチック製のケースにはぎっしり中身が詰まっている。蓋のようにかぶさったカーディガンから肌色のものがはみ出した。人の手だった。

 手は握りこぶしになり、高くつき上げられた。カーディガンをかぶったケースの中身が盛り上がるように身を起こす。「中身」は軽く身震いしてカーディガンを床に落とした。

「んー、よく寝た」

 ケースに詰まっていたのは、十二、三歳くらいの少年だった。ぼうっとした顔でケースの縁に寄りかかっている。

 叫びたいのに、驚きすぎて声が出ない。後ずさりしても、すぐに背中がベッドに突き当たってしまった。パイプがきしんだ音に少年がこちらを向く。

「そんなに怖がらないで」

 やわらかい微笑みに、吊りぎみの目尻がゆるんだ。

「襲ったりなんてしないよ。いまだって、きみが起きるまで待ってたんだからさ」

 待ってるうちに寝ちゃったけど、とつけ足して苦笑する。

「あんた、誰?」

 やっと口に出した言葉はどうにも頼りなく響いた。わざわざ聞かなくても、答えなんて分かりきっている。泥棒、変態、殺人鬼――そのどれかだ。

 しかし、少年はケースに入ったまま襲ってくる様子もない。あたしがどうしていいかわからずにいると、少年は不意に真顔になった。

 そして、

「僕はネコ。きみの願いを叶えるために来たんだ」

 はきはきとした調子で言ってのける。

 ――これは泥棒のほうがマシかもしれない。

 頬が引きつるのが自分でもわかった。

「えー、つまり……あんたはランプの精だって言いたいの?」

「なにそれ? 僕は幸せの神様だよ。正確にはその見習いだけど」

 ネコと名乗った少年は不思議そうに答える。

「猫は死ぬと、修行して幸せの神様になるんだ。でも、僕は早く死んだから経験が足りなくて」

 特別に補習を命じられたのだという。

「猫だったときにいちばんお世話になった人の、いちばんの願いを叶えてこいってさ」

「お世話になった人って……それがあたし?」

 まるでおとぎ話だ。十九にもなってこんなのを信じるなんて馬鹿馬鹿しい。頭ではそう思っていても、いつの間にか話に引き込まれている自分がいる。

 少年の見た目のせいかもしれない。吊り目ぎみの大きな瞳は、表情が変わるたびに青味を帯びたり、黄色がかって見えたりする。漆黒の髪は長めで、やわらかそうに空気を含んでいる。衣装ケースに収まる姿は段ボール箱に入れられた捨て猫を連想させた。

 そういえば、昔飼っていた猫も狭いところが大好きだった。

「もしかしてタマなの?」

 安直な名前は、当時小学生だったあたしがつけたものだ。

「そうかもね。残念だけど名前は憶えてないんだ」

 少年はさびしそうに微笑む。

 もしかして本当にタマなんじゃないだろうか。タマはオス猫で黒白模様だった。それに、飼い始めて何年もしないうちに病気で死んでしまったのだ。

「ところで、すごい散らかりようだね」

 あきれたようなため息にわれに返ると、少年がケースから出て辺りを眺めまわしているところだった。

「少しくらい片づけたら? こんな部屋じゃ誰も呼べないでしょ」

 そう言って床からつまみ上げたのは水色のブラジャーだ。あたしは悲鳴とともに少年からブラを奪い返し、お尻の下に隠した。

「勝手に触らないでよ!」

 散らばる服をかき集めようと手を伸ばして、そのままぴたりと動きを止める。

「そんなの放りだしとくほうが……」

 不満そうに言いかけた少年も、続く言葉を飲み込んでドアを見た。

 その足音はさらさらと擦れるように響く。スリッパを軽く引きずって歩く癖のせいだ。音はだんだんと近づいてきて、ドアのすぐ向こうで消えた。

愛梨あいり、ごはんよ」

 この遠慮に満ちた声を聞くたび、あたしは自分がライオンかなにかになったような気になる。

「そこに置いといて」

 猛獣らしくつっけんどんに返してやった。しばらくするとトレイを床に置く音がして、足音が遠ざかっていく。

「いまの、お母さん?」

 足音が完全に聞こえなくなってから、少年が口をひらいた。

「まあね」

 苦く笑ってあたしが答えると、「ふうん?」と首をかしげてみせる。細めた両目はなにもかも見通しそうな光をたたえていたが、それはすぐに花のような微笑みに溶けて消えた。

「さて、今日はどこで寝ようかなあ」

 疑問形で言いつつも、すでにその視線はベッドに向いている。

 まさか泊まっていくつもりなのか。

「……冗談でしょ?」

 あたしは広げた両腕でベッドを死守しようとする。子どもとはいえ、見知らぬ男と一緒に一晩過ごすなんて考えられない。

「言ったじゃない、願いを叶えるために来たって。きみの願いが無事に叶うまではここにいるよ」

 少年は当然とばかりに言った。しなやかな歩みで近づいてくると、隣に腰を下ろす。伸ばした左腕が少年の背中に触れて、あたしははじかれるように手を引っ込めた。

「わかった、願いを言えばいいんでしょ」

 動揺を隠して少年をにらみつける。

「今すぐ出てって」

 これなら文句ないだろう。そう思ったのに、少年は首を横に振る。

「それはできない」

「なんでよ!」

「言ったよね? 僕が叶えるのは『いちばんの願い』だって。いまのは違うよ」

「そんなことない」

 自分の願いなんて自分がいちばんよくわかっている。そう訴えても、少年は面倒くさそうに首を振るばかりだ。

「まあ、また明日までにでも考えといてよ」

 少年は大きなあくびをすると、なにやら作業にかかった。ベッドから勝手にカバーをはぎ取り、衣装ケースの中に敷き込んで簡易のベッドを作る。そこに入って丸くなると、規則正しい寝息をたてはじめた。

 あたしは散らかった部屋に取り残された。これはきっと夢だ。悪い夢だ。そうでないなら、新手の詐欺だ。

 夕食が済んだら早めにベッドに入ることにしよう。夢の中で寝ようとするのも変な感じだが、そこは深く考えないでおく。どうせすぐに夢とわかるのだから。


 目が覚めてわかった。残念ながらこれは夢じゃない。足先に感じる温もりがそう教えている。

 起き上がって布団をめくると、ベッドの足元で丸くなっていた少年は「ううん」と色っぽい声を上げた。

「せっかくいい気持ちで寝てたのに」

「こっちは気分最悪だけどね。どうして入ってくるのよ」

「明け方、ちょっと涼しかったからね。いつもこんなに早く起きてるの?」

 少年は枕元の目覚まし時計を見る。なんとなく強引に話をそらされた気もするが、たしかにまだ六時前だ。いつもより一時間近くも早く起きてしまったことになる。

 それもこれも少年のせいだ。あたしはベッドに転がる少年に殺気のこもったまなざしを向けるが、しかし少年は気にする様子もない。

「朝ごはんってまだ?」

 無邪気な微笑みで返されて、怒るのも馬鹿らしくなってしまった。

「あんた、もの食べるの?」

 たしか幽霊とか言ってなかったか。

「食べるよ。それに幽霊じゃなくて、神様見習い」

「神様ねえ」

 もちろん完全に信じたわけじゃない。けれど、ここはいっそ流れに乗っかってみることにした。

「じゃあ神様」

 あたしは少年に向かって両手を合わせる。

「来年の入試で、第一志望の大学に合格させてください」

 それはごく単純な願いで、すぐに思いつかなかったのが不思議なくらいだった。本当に叶うというなら、これほど嬉しいこともない。ゴールのないマラソンのような受験勉強ももうしなくていいのだ。

 しかし、少年はゆっくりと首を振る。

「その願いは叶えられないよ。きみの『いちばんの願い』とは違うみたいだから」

 その淡々とした口調は、あたしのどこかにあるスイッチに触れた。

「この詐欺師! インチキ猫!」

 投げつけた枕を少年は器用に避ける。とばっちりで被弾したテレビが木馬のように揺れた。

「気は済んだ?」

 少年は上目づかいにこちらを見た。枕はかすりもしなかったというのに、まるで直撃を受けたかのような顔をしている。憐れんでいるのだ、と思った。

「『いちばんの願い』ってなによ」

 独り言のつもりだったのに、そうはならなかった。

「それはきみにしかわからない。僕にわかるのは、それが『いちばんの願い』かそうでないかだけだ」

 そう言うと、少年は起き上がって伸びをした。音もなくベッドから下りて窓際に駆け寄る。シャ、と勢いよくカーテンをひらいた。

「ちょっと、やめてよ」

 あふれる朝の光にあたしは目を細める。その重ねたオブラートのような光に包まれて、少年は立っていた。

「鳥が飛んでる」

 空を見上げて、懐かしそうにつぶやくのが聞こえた。

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