第10話


 いつだったか、ケンオに聞いた。


 おまえは、将来どうするつもりなんだ? と。


 確かそのころの僕は、まだ両親も健在で、自分の進路についてえらく悩んでいて、日ごろ遊び呆けている彼女に、侮蔑交じりにそう尋ねたのだ。


 けれど、ケンオは即答した。


「わたしは、世界中を旅するのが夢だわ」


 にっこりと笑って、まるで詩を朗読するかのように、よどみなく、きっぱりと言い放った。


 僕は、そんな彼女が羨ましかった。




 目を開けると、そこにはケンオがいた。真っ白な空間の中で、僕たち二人だけがいる。僕らはお互いに手が届きそうな距離で向かい合って立っていた。ケンオの姿は、あの日と全く変わっていなかった。そして、あの時と同じように、少しだけさびしそうな目をしていた。


「ほんとうに、よかったの?」


 いきなり彼女は聞いてきた。


「ほかの人は、みんな今ごろ必死になって、日常と戦っているわ。勉強したり、仕事をしたり。ポゥくんだって、お医者さまになるつもりだったんでしょう? こんな夢みたいなことを追いかけて、ほんとうによかったの?」


 僕は思わず笑ってしまった。なにを言っているんだろう、この人は。良いも悪いも、この道を選ばせたのはあなたじゃないか。僕は言ってやった。


――お前は、世界中を旅するんだろ? 僕は、お前を探すのが夢なんだよ。それが日常なんだ。


「……わたしのせいね、ごめんなさい」


 医学部へ進学する道は捨てた。親の遺産を使って、僕は旅をはじめた。金が足りなくなれば、その街で働いた。『パシリ』の『ちから』を使えば、ほかの人より少しだけ多く稼ぐことができた。


 街から街へ水のように流れ、時が流れ続けた――きっと、他人から見れば無為な三年間。


 それでも僕にとっては、ケンオを探す、夢のような三年間だった。


 その結末がどんなものであっても。


――選んだのは、僕だよ。誰のせいにもしない。僕の生きる目標が、他のみんなと少し違ったってだけだ。


 彼女はなにも喋らなかった。黙って、うつむいた。


――ケンオ……。後悔しているのか?


 彼女は答えない。そんなケンオの姿を見て、僕はなんだか腹が立ってきた。


――……なにを今さら悔やんでるんだよ。探してほしいって言ったのはお前だぜ。


 わずかに目線だけを上げて、泣き出しそうな声でケンオは答えた。


「そ、そうだけど! わたしのワガママでポゥくんは……! お父さんとお母さんを死なせた『カスト』を研究するって、大切な目標もあったのに……!」


 それはもう、わかってしまっていた。 『カスト』がどんなものなのかなんて、三年前のあの時に。


――だから、今さら何言ってんだよ。いいか? お前はあの時はじめて、僕に心から頼んだんだ。すごい嬉しかったんだぜ。ケンオが僕を頼りにしている、って。


 僕は一息入れて、続けた。


――いいからお前はそこにいろ。そこから動くな。僕が、絶対に見つけてやるから。どうせ、いま自分がどこにいるかすら分からないんだろ?


「う、うん。よくわかったわね」


 自分でも不思議だった。しかし、何故か確信があった。


――わかるさ。『パシリ』とは言え、お前の『ちから』を全部いただいたんだ。それと、ごめんなさい、なんて言うなよ。三年間、お前だけを探していたこっちがむなしくなる。どうせ口に出すなら『ありがとう』とかそういうのにしてくれ。


 ケンオはぱちぱちと目をしばたいて、うん、と頷いた。そして、やけにしみじみと言った。


「ポゥくん……なんだか大人になっちゃったねぇ」


 僕は吹き出した。これではどちらが年上だかわからない。彼女がこれほど子供っぽく見えるなんてちょっと信じられないが、同時に嬉しくもあった。ずっと前を歩いていた彼女に、追いついた気がした。父の言葉を借りれば、なるほど確かに、この魔女さんは『可愛い女の子』だ。


――そりゃそうだ。こっちじゃ、三年も経ってるんだ。お前の歳を追い越したぜ。


「そっか……。もう、ポゥくんて呼べないのね。わたしは、あのころのままだから」


 少しだけさびしそうにつぶやいた彼女に、僕は冗談交じりにこう言った。


――もう僕の方が年上だからな。たっぷりいじめてやるから楽しみにしておけよ。


「あー。ひっどぉい!」


 ケンオがそう言って笑うのを見て、僕も笑った。そしてふと、夢がかなったな、と思った。 ただ僕は、ケンオとこうして仲良く話せれば良かったのかも知れない。それは、彼女が僕の家にいたころには出来なかったことだった。あのころの空白を、僕は取り戻したかった。


――必ず、探し出すから。


 僕がそう言うと、彼女は「……うん。ごめ――」と言いかけて、口をつぐんだ。ゆっくりと微笑んで、言い直す。


「ありがとう。ポゥくん。待ってる」


 それだ、と僕は思った。その言葉を聞きたかった。彼女がそう言ってくれるだけで、僕の中にある、すべての迷いと悩みはかき消える。たとえ彼女の、そのさびしそうな青い瞳が「わたしたちは、もう二度と会うことはない」と物語っていても――。


 ケンオの、その一言。ただそれだけで、僕は夢を追いかけることが出来る。


 手を伸ばして、ケンオの頬に触れようとしたが、それはかなわなかった。指の先が彼女に届くまさにそのときに、ケンオはいきなり顔を近づけて、僕の唇に自分のそれを押し当てた。


 ばちっと、電撃がとさかから脊髄を通って足のつま先まで抜けていった。鼻の先、すぐそばで感じた彼女の呼吸は、間違いなく、僕が記憶していたものと一致していた。

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