第9話
酒場を出て、十分ほど経っただろうか。
僕らは一言も口をきかず、淡々と歩みを進めていた。ひとつの街灯すらない暗い路地は、月明かりだけが頼りだった。足元に気をつけながら歩いていると、魔女がふいに立ち止まった。
「ここよ」
そこは開けた空き地だった。奥には小川が流れていて、小さな木製の船が浮いている。ほんの少しだけ、故郷を思い出した。
あの街では、今日もゴンドラが流れているのだろうか。
水も時も流れるものだと、歌っているのだろうか。
人と恋は出会うものだと、歌われているのだろうか。
人と恋。水と時。
僕は本当に、もう一度あの人に会えるのだろうか。
――夜空には、おそろしいほど巨大な満月。
魔女は空き地の真ん中へ立つと、タバコを一本、虚空から取り出して、火を点けた。目を細め最初の一息を吸い込むと、深呼吸でもしたかのように、空に向かって大きく煙を吐く。とても不味そうに見えた。
「ここ、来て」
月光を背に、タバコを持った右手で、彼女は自分の足元を指した。すごく気だるそうだ。
少し緊張しながらも、言われるままにした。すると魔女は、僕のみぞおち辺りに左手を置き、右手はタバコの灰を捨て、まっすぐ僕を睨みつけてこう言った。
「死ねば、会えるわ」
次の瞬間、彼女の右手の中で何かが赤く光ったと思うと、その手にあったタバコは音もなく消え去り、魔女が放った貫き手は僕の体を貫いた。
体がびくん、と痙攣して同時に吐血した。赤黒い血が魔女の顔の右半分を染める。瞳は、あいかわらずまっすぐ僕を睨みつけていた。それは何の光も宿っていない、空っぽの瞳だった。
みぞおちに置かれた左手から、魔女は直接僕の体に干渉していた。それは僕の『ちから』を制御し、さらに体の自由も奪っていた。僕は魔女の『ちから』の前にまったく何の抵抗も出来ずに、ただ攻撃を受けるだけだった。
「これが、魔女の本当の『ちから』、よ」
肘までめり込んだ、血に染まった細い腕をゆっくりと抜きながら、赤い顔の彼女は言った。何が起こったのか未だに理解できない僕は、ただその行為を眺めるしかなかった。それは例えるなら、部分麻酔で手術をされているような、なんとも奇妙な感覚だった。痛みはなかった。きっと、死ぬ前というのはこんなものなのだろう。
僕の体から完全に右手を引き抜くと、魔女は左手をお腹から離した。とたんに両膝の力が抜け、すとん、と僕は地面に座り込んだ。じわじわと、黒い染みが広がっていく。
「魔女にも色々と仕事があってね。アタシは、『パシリ』の『ちから』を回収するのがそうなのよ。今まで不思議に思わなかった? 魔女は何百年も前からずっといるのに、どうして『パシリ』の数はこんなに少ないのかって」
返り血を拭おうともせずに、魔女は僕を見下ろしながら言った。ぱちん、と鳴らした真っ赤な指から、先ほど消えたはずのタバコが出現する。火はすでに点いていた。
目を細め最初の一息を吸い込むと、深呼吸でもしたかのように、空に向かって大きく煙を吐く。とても不味そうだった。とても気だるそうだった。とても悲しそうだった。
ふと、名前を聞いておこう、と思った。もう僕は『パシリ』ではない普通の人間だから、尋ねても不自然ではないはずだ。しかし体が言うことを聞いてくれない。声を出そうにも、口がパクパクと動くだけで、咽の奥からは、ひゅーひゅーとしか音が出ない。
しかし彼女は僕の意思を察したらしく、煙を吐くと、見下ろしながらこう言った。
「ケンオよ」
――夜空にはおそろしいほど巨大な満月。
その円の中心に彼女の顔はあった。その映像を最後に、僕は意識を失った。
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