第6話
「そうかい、ありがとう。僕も、ケンオのことは大好きだ」
――どうせ本気じゃない。
心の底から溢れてくる、深く閉じ込めたはずの感情を押し殺しながら、僕は精一杯つめたく言った。
「本当よ。わたし、ポゥくんのこと、好きよ」
じっと見つめてくるケンオ。その瞳には、表情を殺した、冷たい貌をした僕が映る。僕は僕を睨みつけながら、思う。自分は、ポゥ・ティアーノ・ロッシは、いつからこんな人間になってしまったのだろうか。くだらない噂からケンオを守ることが出来なかったときからだろうか。彼女の変化を、直視することも制止することも出来なかったときからだろうか。
嬉しいときは嬉しいと、素直に言えれば良いのに……。
「やめろよ。くだらない」
僕は目を逸らした。本当に、もうやめてほしかった。これ以上は、耐えられない。
しかし、ケンオが次に発した言葉に、僕の頭は急速に冷静さを取り戻すことになる。
「だからね、ちょっと、お願いがあるの」
彼女の中のずる賢い蛇が、ちろちろっと舌を出したのだと思った。そうなのだ。結局はそういうことなのだ。「あなたが好き」と言えば、なんでもしてもらえる。彼女はそう思っているのだろう。
なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。いったい僕はなにをしているんだろう。いったい僕はなにを期待していたのだろう。相手は、魔女ではないか。ひとを惑わすためだけに生まれてきたような、魔女ではないか。まじめに相手をしていては、馬鹿を見る。
「……なんだよ。なにをしてほしいんだ? 言っておくけど、いくら親の資産があるからって、そんなに金は出せないからな」
軽蔑しきった口調で言うと、彼女はわずかに首を振った。
「ちがうわ。そんなんじゃない」
そして、それまで見たことも無いようなほど、寂しそうな顔をして、ケンオは呟いた。あの言葉を。
「たとえ、わたしが死んでも、わたしを探してほしい」
その瞬間、『あの二人』の顔が脳裏に甦って――魔女の顔とダブって見えた。
「…………!」
怒りを覚えた。生まれてはじめて、この例えがぴったりと、僕に当てはまった。
声すら出なかった。ただ唇をぶるぶる震わせて、拳を握っていた。喋ることすらままならない。
「お願い、ポゥくん。聞いて――」
「聞けるか!」
ようやく口からでた言葉が、それだった。
「やめろよ! 絶対にそんなこと言うな!」
ケンオを睨みつけて怒鳴った。全身の血が脈打って、かーっと頭に上っていく。僕はこれ以上ないほど、心の底から激怒していた。
いきなり怒鳴られたにもかかわらず、しかしケンオは全く動じていなかった。しかも萎縮するどころか、にっこりと笑ってこんなことを言い放った。
「やっぱり、ポゥくんは優しいね」
「ふざけんな!」
その態度が、僕の神経を逆なでした。本当に良く燃える油を火に注いだ。思わず僕は立ち上がり、またも怒鳴る。今にもぶん殴ってしまいそうだ。
「取り消せ! おまえ――今すぐにっ!」
「うん。ごめんね。今のは取り消すわ。忘れて」
まるでこうなることがわかっていたかのように、あっさりと彼女は承諾した。
「んああ!?」
「だから、ごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げた。下げたまま、もう一度「ごめんなさい。ゆるして」と言った。
「ぐ…………」
謝罪する彼女の姿がやけに不憫に見えてしまった。まるで、僕が酷い悪人で、彼女のことを一方的に攻撃してるような気にさえなってきた。
ケンオに謝られた僕は、これ以上彼女に怒りをぶつけることも出来ず、ただぶるぶると肩を震わせていた。思いっきり握った拳の中で、爪が手のひらにささって痛い。……涙が頬をつたった。
僕は泣いていた。
「くそ……」
何か言いたそうなケンオから、顔をそむけた。袖で涙を拭う。自分が情けなかった。しかしそれ以上に、簡単に『死ぬ』とか言う奴が許せなかった。とくに、こいつにだけは絶対に言われたくはなかった。
「お父さんとお母さんのこと、思い出したのね」
悲しそうな口調で、ケンオが言った。
「……わかってるなら、言うなよ……」
ぼそぼそと呟いて、ベッドに腰掛ける。泣き顔を見られたくない僕は、彼女には背を向けた。涙はすぐに引いた。泣いてしまったからだろうか、不思議にも、僕の怒りは収まりつつあった。ゆっくりと、時間の流れが元に戻っていった。
父と母は――他界していた。『カスト』に侵されて。
そうとも。僕は笑ってしまうほど単純な男だ。両親を死なせた病気を研究するために、医者になろうと決めたのだ。
やがて。
「――落ち着いた?」
後ろから、ケンオが優しい声で問う。僕は黙っていた。
こんなに感情的になったのは久しぶりだった。人前で涙を流すのも。そのせいか、僕の中のケンオに対する『壁』が、消えたような気がした。
――僕は本当は気づいていたんだ。
ケンオの、さびしそうなあの目を。
ワルいやつらと付き合って、それなりに楽しいはずなのに。ふとした時に見せる、あるいは隠しきれなかった、さびしげな横顔を。自分はどこまでいっても、彼らと同じにはなれない。そう、心のどこかで割り切っているような、あの表情を。
それは、ケンオが魔女であるがゆえの壁で、流れ者であるがゆえの壁で、生来の天涯孤独であるがゆえの壁で、そしてなにより、彼女自身が作り出した決定的で絶望的な区別意識の壁だった。
だからこそ。そんなケンオだったからこそ。僕は、彼女から本当に目を背けることが出来なかったのかもしれない。
僕が嫌悪していたのは、現実を放棄して遊び呆けていたやつらと馴れ合いで付き合っていた彼女ではなく、ケンオを孤独から救えなかった僕自身なのだから。
ふいに僕は、ケンオをいつまでも家に置いていた理由を言おうと思った。もしかしたら、今のケンオの心無いひとことだって、彼女のただの悪ふざけのひとつかもしれない。さっきの「ポゥくんが好き」というのも、タチの悪い冗談なのかもしれない。しかしそれでも、言おうと思った。この気持ちを認めるのはプライドが許さないのだが、しかしそれでも、伝えようと思った。
「僕はお前が好きなんだよ……。だから、そんなこと言うなよ……」
振り返ると、ケンオがいた。確かに、そこにいた。さびしそうな目をして、うん、と頷いて、ゆっくりと顔を近づけてきた。唇が触れる瞬間、鼻の先すぐそばで彼女の呼吸を感じた。それは、僕が記憶する、彼女の最期の呼吸だった。
二日後、僕は彼女の言葉を思い出していた。
――わたしが死んでも、わたしを探してほしい。
あの夜は、怒ったり、泣いたり、告白したりで、そんなことを深く気にする余裕などなかった。しかし、よく考えれば不思議な物言いだ。死んだ人間を探す……。それはつまり、『いま、この状況の事を指していっていたのだろうか』。
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