戦士の秘め事(4)

 愛しているわ。この砦を、この土地に息づく全てのものを。


 出来る事なら、大陸の危うい和平を支えるために人身御供とされる「砦の姫」を私で終わらせて。愛するものから引き裂かれる哀れな娘を、もうこれ以上、物見の塔から見送らずにすむように。

 愛しているわ。私の小さなアルスレッド。

 ああ、泣かないで……そう、良い子ね。

 タルトゥスの戦士は、どんな事があっても泣いては駄目。辛くても、悲しくても、王家の血筋を引く者らしく、いつでも誇らしげな微笑みを浮かべて、真っ直ぐ前を向いて歩いて行きなさい。



 

 嫁ぐ日の朝。

 生まれてすぐ母を亡くした弟を深い愛情で包み込み、慈しみ育ててくれた姉の姿が遠くの森に消え入るまで、唇を噛み締め、涙に曇った瞳で真っ直ぐ前を見つめたまま、幼いアルスレッドは最愛の女性ひとの言葉を魂に刻みつけた。



***



 朝食の席で葡萄酒の杯を手にしたまま、心ここに在らずと言った様子のアルスレッドが、はあっと大きなため息を漏らした。

「いい加減にしろ、アルスレッド。これで何度目だ? 腑抜けのようなお前は気味が悪い」

 いつもの快活さの欠片も見せぬタルトゥスの戦士の姿に、隣の席に腰掛けていたシグリドが眉をひそめた。


 グウェレインが身体の不調を訴えている、との知らせを受けて、ファランは早朝から『王の盾』夫妻の居室へ行ったきりだ。普段と変わらぬ様子で食堂に姿を現したアルファドは、大した事ではないよ、と穏やかに微笑んだ。

「リリアムも調子を取り戻したようでね。治癒師殿と一緒にグウェレインのそばについてくれている」

 アルスレッドの口元が、ひくり、と引きつった。

「完全に避けられている」

 がっくりと肩を落として再びため息を漏らす男の手から、シグリドが酒の杯を取り上げた。

「あれだけ叩きのめされれば、避けたくもなるだろうよ。まったく……遊びの相手なら、あの娘でなくとも、お前に群がる女はいくらでもいるだろう?」

「シグリドよ、お前までグウェレイン殿と同じ事を言う」

「事実を述べたまでだ。お前の事だ、リリアムの容姿に惚れ込んでいるだけなのだろうが……めておけ。『王の盾』とティシュトリアの姫の庇護下にある娘に手を出せば、遊びでは済まされんぞ」


 容姿に惚れ込んでいるだけ、か。


 ……ああ、そうだな。きっと、それだけの事だ。

 あの娘のことが頭から離れぬのも、美しい姿が心に焼き付いて消えないからだ。この腕の中で癒えぬ記憶に怯え震えていた娘の痛みを少しでもぬぐってやりたいと願ったのも、はかなげな姿に魅了されたからだ。

 ただ、それだけの事だ。

 生真面目過ぎる女に手を出すなど、愚かな男のすることだ。ましてや、平民でありながら貴族の男に殴りかかるような無礼極まりない娘などに、まかり間違っても、この俺が……






「恋、だと思います」

 グウェレインに薬湯を手渡しながら、満面の笑顔を浮かべ、自信に満ちた声でファランが告げた。


 まだ身体中の痛みを抱えながらも、あるじの様子を心配して傍らに付き添っていたリリアムが、ぎょっとして目を見開いた。途端に、その頰が真っ赤に染まる。

「きっとそうです。リリアムを運び込んだ時のお顔ったら……あんなに真剣で不安そうなアルスレッド様、初めて見ました」

「まあ、やっぱり、あなたもそう思う?」

 寝台に腰かけたまま、にっこりと嬉しそうに微笑えむ女主人と、「間違いありません」と大きくうなずく治癒師の娘を前に、リリアムは思わず目眩めまいを覚えた。


「それにしても、せっかくファランが気を利かせて二人きりにして差し上げたと言うのに、恋しい娘を抱きしめるだけで満足されるなんて……アルスレッド様ったら、よほどあなたが気に入ったのね」

「どうしてそうなるんですか、グウェレイン様! あの時は、私が取り乱してしまって、あの方はただ、私を落ち着かせようと……結果として、ああいう状況になっただけですから! 恋しいだなんて、そんな……ああ、もう、お願いですから、お二人とも、揶揄からかうのは止めて下さい!」

 気づけば、温かな腕の中に抱きしめられていた。まるで、泣き止まぬ子をあやすように。

 ただ、それだけの事なのに。


「あなたがアルスレッド様の腕の中で泣き崩れているのを見た時には、本当に驚いたのよ。アルファドやシグリド以外の男の前では一切弱みを見せないはずのあなたが……」

「ああ、もう……そんな……!」

 今にも昏倒しそうに頬を真っ赤に染めて身を震わせる女戦士と、その様子を面白そうに見つめる貴婦人の間に挟まれて、どうしたものかと困惑気味のファランが遠慮がちに口を開いた。

「とにかく、アルスレッド様が心からリリアムの事を心配されていたのは確かです。あの……グウェレイン様? 気分が良くなられたのでしたら、そろそろ食堂に行きませんか? リリアムも朝食はまだでしょう?」

「あら、食堂は駄目よ。アルスレッド様と顔を合わせるわけにはいかないの」


 何故? と言いたげに首を傾げるファランを横目に、グウェレインは側仕えの者に朝食を部屋に運ぶよう命じると、おどけた表情を浮かべて肩をすくめた。

「ほんの少しだけ、あの方に釘を刺しておいたの」

 怪訝な表情のリリアムの横で、グウェレインの瞳が妖しい輝きを増したのに気づいたファランが眉をひそめる。

「心配しないで。遊びのつもりなら二度とリリアムの前に姿を現さないと誓って、とお願いしただけよ」

「……グウェレイン様は、アルスレッド様とリリアムの仲を取り持つのではなかったのですか?」

「あら、そのつもりよ。有能な狩人ほど、狩るのが困難な獲物を追い求めるものでしょう?」

 ふふっ、と妖艶な微笑みを浮かべたグウェレインが、美しいだけの姫ではないのだと改めて気づき、ファランは苦笑した。



 しばらくして、朝食を運び込む女達に手を貸そうとリリアムが主の側を離れた隙に、ファランがそっと耳打ちした。

「グウェレイン様がアルスレッド様の肩を持つなんて、意外でした」

「あら、どうして? あんなにも魅力的な殿方を逃す手はないでしょう? リリアムは男性に対して消極的だから、あれくらい強引な男でないと駄目なのよ。それに……」

 ふと、言葉を詰まらせると、グウェレインはかすれた小さな声でささやた。

「罪滅ぼし、かしら」


 あの子から、愛しい男を奪ってしまった事への。


 寂しそうに窓の外に視線を向けた麗しい女性ひとの心が痛みに震える声を、ファランは確かに聞いた。




 二人の妊婦の旺盛な食欲に圧倒されながら朝食を共にする女戦士に、ファランが声をかけた。

「ねえ、リリアム。アルスレッド様が正妻を迎えようとなさらないのは何故だか分かる?」

「一人の女に縛られるのがおいやなのでしょう。あの方の奥方ともなれば高貴な身分の女性でしょうから、無下に扱うわけにもいかないでしょうし」

 ファランは少し残念そうに首を横に振った。

「愛する者を、鳥籠とりかごの中に囲い込む事が出来ないからよ」

 思いがけない言葉に、リリアムは驚きも露わに治癒師の娘を凝視した。

「『砦の外にお前のための館を用意してやろう』と言うのが、アルスレッド様の口説き文句なの」

「……最低ですね」

「そうでしょう? 出会った頃は私もそう思ったわ。だから、ある時、尋ねてみたの」


『どうして砦の外なんですか? 愛する女性をそばに置きたいとは思わないんですか? エレミア様のように、大切に後宮に隠しておこうとは思わないんですか?』


「するとね、呆れ返った顔でおっしゃったの」


『冗談だろう? 籠の中に押し込められて自由を奪われた鳥より、危険を承知で大空を舞う鳥の方が美しいに決まっている』


「後になって、あの方のお姉さまが『砦の姫』としてエレミア様に嫁がれた、とレティシア様が教えてくれたの」

 砦の姫、と聞いて怪訝な顔をするリリアムに、グウェレインが優しく言葉をつないだ。

「人質として他国に嫁がされる姫達を、タルトゥスではそう呼ぶのよ。覚えているわ、アレスティア様ね」

 懐かしげに目を細めて、記憶を辿るかのように宙を見つめる。

「凛とした気品と戦士の強さを併せ持つ美しい女性ひとだったわ……女の情念渦巻く後宮に閉じ込められるのを拒んで王都軍に身を置かれたのだけれど、父上は『側近』として片時も離さなかった」


 『恋多き王として知られるエレミアの心を奪った愛妾が、実は戦士だった』とは、王都軍の女戦士達が好んで語り継ぐ作り話だとばかり思っていた……リリアムは驚愕の眼差しをグウェレインに向けた。

「タイースからの手紙に書かれていたの。レティシア様の兄上が亡くなられた時、タルトゥス王家の血を引くアルスレッド様が領主の座を継ぐ事も出来たはずなのに、そうしなかったのは、『砦の姫』であるレティシア様が故郷を離れずにすむようにとお考えになったからだろう、って。正妻をお迎えにならないのも、ご自身に嫡出の男子が出来ればレヴェリア姫から次代の領主の座を奪ってしまうと恐れているからでしょうね。タルトゥスでは相続権は男子優先なのよ」

「でも、もし生まれた子が女なら……」

「新たな『砦の姫』となるだけよ。いずれにせよ、レティシア様が領主でいらっしゃる限り、姫君の意にそぐわぬ事は全力で阻止されるでしょうけれど」

 

 呆然とするリリアムに、治癒師の穏やかな声で、諭すようにファランが語りかけた。

「『タルトゥスの右腕のは女達のもの』……吟遊詩人達が好んで奏でる恋唄だけれど、アルスレッド様を知れば、あんなもの、ただの戯れ歌だとすぐに分かるわ。愛する女を籠の中に閉じ込めて自由を奪ってまで自分のものにしようとはなさらない。情が深くてお優しい分、とっても不器用で、れったいほど真っ直ぐなのよ」

 心から信頼する大切な友を誇らしげに思って、ファランは嬉しそうに、輝くような笑顔を浮かべた。


 その輝きを見つめるリリアムの心が、甘やかにざわめいた。

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