戦士の秘め事(5)

 結局、リリアムは朝食の席に姿を現さなかった。館の一角や王城の回廊ですれ違う事はあっても、視線さえ合わさず逃げるように立ち去っていく娘と言葉を交わすこともままならず、アルスレッドは悶々もんもんとした一日を過ごす羽目になった。



 夜も更けた頃。

 寝台の上で物思いにふけっていたアルスレッドが、扉を叩く音に気づいていぶかしげに立ち上がった。


 扉の外に佇む女戦士を目にした途端、世界が一瞬、動きを止めたような錯覚を覚えた。心の動揺を気取られぬよう願いながら、アルスレッドはおもむろに栗色の髪を掻き上げて、静かにリリアムを招き入れた。

「どうした? グウェレイン殿に何かあったのか?」

「え? あ、いいえ……そうではなくて……剣を持つ者として、度重たびかさなる非礼をびたいと思いまして。明日の早朝、タルトゥスに向けて出立されると、つい今しがたグウェレイン様からうかがったもので」

 今まで向けられていた怒りに満ちた表情とは明らかに違う、しおらしく、守ってやりたいとさえ感じさせる謙虚さをまとった娘を前に、アルスレッドは戸惑うと同時に、身体の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。

「……リリアム、お前、分かっているのか? こんな夜更けに、若い娘がたった一人で男の居室を訪ねるなんぞ、夜這いと思われても仕方ないぞ」

 途端に、リリアムは顔を真っ赤にしながら、ぶんぶんと首を横に振った。

「よ、夜這いなど……とんでもない! 違います……断じて違います! 大人気おとなげない振る舞いだったと反省してお詫びに伺っただけです! あなたとお会いするのも、これが最後になるでしょうし……」

「最後? 何の事だ?」

「グウェレイン様にお誓いになったのでしょう? 二度と私の前に姿を現さぬと」


 ……なるほど。あの姫に何か吹き込まれたか。あの父にしてあの娘あり、だな。


 短い沈黙の後、アルスレッドは困ったように目を細めて首をかしげ、小さな笑い声を上げた。

「お前には悪いが、そんな誓いを立てた覚えなど全くない」


 リリアムは、あっと息を呑んで両手で口元を抑えると、驚愕に潤んだ目を大きく見開いた。

「ああ、私ったら……何て馬鹿な……!」

 女主人の思惑にまんまと乗せられた事に気づき、咄嗟とっさにその場を立ち去ろうときびすを返した女戦士を、アルスレッドがすかさず捕らえて、力任せに小さな身体を腕の中に引き寄せると扉を閉めた。

「なあ、リリアム。お前、恋しい男がいるのだろう?」

「な、何の事ですか! 突然、そんな……」

 熱い眼差しで見つめられて、リリアムの鼓動が速まっていく。 

「やはりな。アルファドか?」

「ええっ? 嘘……そんな……どうして……」

「いつも目で追っている」

 悔しそうに舌打ちして、アルスレッドはリリアムの身体に回した両腕に力を込めた。逞しい腕に捕らわれて、リリアムは身動きひとつ取れない。

「いつも誰かを探しているようなお前の視線が妙に気になってな。初めはグウェレイン殿を探しているのかと思ったのだが……お前が見つめる先には、いつもアルファドが居た」

 

 数日前に出逢ったばかりの男に心の内を見透かされ、リリアムは恥ずかしさのあまり、その場に倒れ込んで叫び声を上げたい気持ちに駆られながら、何とか冷静さを装って、怒りに震える眼差しをアルスレッドに向けた。

「不毛だな。あの二人の間に入り込む隙などないのは、お前が一番良く分かっているだろうに」

「……そんな事、あなたに……あなたなんかに言われなくても……!」


 愛しい人をいくら想っても、それが片恋でしかない事ぐらい分かっている。

 想い続ければ苦しみが続く事も。それでも……


「どんなに好きになっても……叶わないと分かっていても……」

 アルスレッドをにらみつけていた琥珀色の瞳から、涙があふれては、ぽろぽろと頰を伝い落ちていく。悔しさと情けなさで押し潰されそうになって、リリアムは思わずうつむくと必死に声を絞り出した。

「あの方を想う……この気持ちは、あなたになんか……」

「分かるさ」

 驚きのあまりはじかれたように、リリアムは涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。そこには、貴族然とした物言いからは想像できない、何とも寂し気な表情でこちらを見つめるアルスレッドがいた。

 リリアムの胸の奥が、きゅっと痛む。

「本当に愛しい女ならば、俺の方が見返りを求める。全てを俺に捧げてくれ、とな」


 ……え?


「だからこそ、俺が心から愛しいと想う女は決して手に入らない。出逢う前から、あいつの心は他の男のものだったから」


 それって……ファラン殿のこと? 本気で、心からあの方のことを……?


「おかしいだろう? 俺に抱かれたいと願う女は愛情など感じずとも抱けるのに、本当に抱きたい女には手出しさえ出来ずにいる」

 はあっ、と情けなさそうにため息をついた男の口元に、ゆっくりと穏やかな微笑みが浮かぶ。

「それでも、あいつの幸せにほうけた顔を見ていたら、それで良かったのだと思えてくる。不思議なものだな」



 ……ああ、同じだ。

 この人も、同じように叶わぬ想いに焦がれ、苦しんでいる。なのに、いつも明るい陽の光のように輝いて……

 だからこそ、この人の腕の中は、こんなにも温かくて心地よいのかしら。


「お前の祈りはちゃんと届いているさ。グウェレイン殿が幸せなのは、誰の目にも明らかだろう?」 

 大きな手がゆっくりと背中を這い上がり、金茶色の髪を指に絡め取りながら、くしゃり、と優しく頭を撫でる。それが不思議と心地良くて、リリアムは気づかぬふりをしたままアルスレッドの胸に顔を埋めた。

「だから、リリアム。今度はお前自身のために祈ってみてはどうだ?」

 腕の中の娘が、ぴくり、と震えた。

「泣きたい時は泣けばいいし、悲しい時は誰かにすがって泣いていいんだ。なあ、リリアム。戦士である前に、お前は女だ。女に戻って良い時に、片意地を張るな」

 やがて、噛み締めた歯の間から嗚咽おえつらして震え出した娘の身体を、アルスレッドは静かに抱きしめた。

「愛しいな。リリアム、どうしようもないほどお前が愛しくなってきた」


 ……美しい。

 心から、そう思った。

 その容姿だけでなく、敬愛するあるじを誇らしげに見つめるその瞳が。 

 舞うように剣を振るう研ぎ澄まされた身のこなしが。

 恋焦がれる男に寄せる切ない想いが。

 そして、目の前で怒りに震えながら涙を流す、はかなげなその姿が。

 この娘の全てが、美しく、愛しい。


「リリアム、そのままでいい。無理に自分の心を偽わるな。あの二人のそばに居るのが本当は辛いのならば、いっそ、タルトゥスに身を寄せてはどうだ? お前ならばレティシアの良き相談相手となるだろう。ティシュトリアの客人として歓迎しよう」

「……それは……そんな事は……出来ません」

「何故だ?」

 泣き腫らした瞳が、ゆっくりとアルスレッドに向けられた。

「この国は、幼かった私から全てを奪ったけれど……今の私を育ててくれたのも、この国です。ティシュトリアを……グウェレイン様のおそばを離れるつもりなど、私にはありません」

「……俺がお前を欲しいと願ってもか?」

「アルスレッド様! ご冗談も程々に……」

「悪いが本気だ」

 真っ直ぐにこちらを見つめるとび色の瞳にかげりも迷いも一切ない。リリアムの心が大きく揺れた。心の中の騒めきが、抑えきれないほど大きくなっていく。

「ああ、そんな……そんな事、急に言われても……アルスレッド様、駄目です。あの方以外を想うなど……私には、まだ……」


 ふっ、と優しい息遣いと共に、心地よく響く低い声がリリアムの耳元で熱くささやいた。

「まあ、良いさ。少なくとも、好いた男の事を想いながら他の男に抱かれるような女ではないと分かって、安心した」

 そう言いながら、アルスレッドはもう一度、腕の中の娘をしっかりと抱きしめた。

 開け放たれた窓から、ひやりとした秋の夜風が流れ込んで来る。火照ほてった頭と身体を冷ましてくれれば良いのに……そう思いながら、リリアムはしばらくこのまま、タルトゥスの戦士の腕の中に身をゆだねることにした。 

「あの……アルスレッド様、ご存知ですか?」

 温かい胸に顔を寄せたまま、リリアムがささやいた。

「ティシュトリアでは、平民であろうが、敵国の捕虜であろうが、訓練に耐え得るだけの力と意思の強さがあれば、戦士として重用されます。女であっても、自分の意思で生きて行くことが出来るのです」

「それも、お前がこの国を離れられない理由の一つなのか?」

「いいえ、そうではなくて……あの……もし、いつの日かアルスレッド様が奥方を迎えられて……お子が出来た時、それが女の子ならば……どうぞ、ティシュトリアにお連れ下さい。私が育てて差し上げます。そうすれば、『砦の姫』にならずにすむのでしょう?」



 答えもなく、押し黙ったままのアルスレッドに気まずさを感じて、リリアムが不安げに顔を上げた瞬間、アルスレッドの大きな手が頰に添えられた。

「なるほど……それは思いつかなかった」

 にやり、とほくそ笑むアルスレッドを目にして、リリアムは嫌な予感に襲われた。

 次の瞬間、逃げる間もないほど素早く唇を奪われ、痛い程に抱きしめられた。

「決めたぞ、リリアム。俺の子を産んでくれ」

「……え? ええっ? ちょっと……ちょっと待って下さい! どうしてそうなるんですか? 私は、あなたが正妻を迎えられてお子が出来たらと例え話をしたまでで……」

 恥ずかしさで声が震えるのを感じながらも、リリアムはなんとかアルスレッドの腕の中から逃げ出そうと必死にもがいた。

「俺とお前の子、だ。平民のお前を正妻に迎える事は出来んが、愛妾としてなら問題はない。砦の外にお前のための館を建ててやろう。息子が生まれれば『砦』の戦士として俺が立派に育て上げよう。女ならば、お前がティシュトリアの戦士として育てて……おい、どうした、リリアム?」


 するり、と逞しい両腕をすり抜けると、リリアムは真っ赤に染まった顔に怒りの表情を浮かべて、アルスレッドの頬をしたたか殴りつけた。



***



「まったく、もう! どうやったら二度も同じところを殴られるんですか? それも、同じ女性に……アルスレッド様ったら、聞いてます?」


 寝入りばなを叩き起こされて不機嫌な夫を優しくなだめながら寝床に押し込むと、ファランは夜着の袖をまくって冷たい水を張った桶に浸した布を固く絞り、痛々しく腫れ上がったアルスレッドの頰に押し当てた。

「アルスレッド様、もしかして……わざとリリアムを困らせてます?」


 好きな女の子に意地悪ばかりする、小さな男の子みたいに。


「何の事だ?」

「素直に好きだと言えばいいじゃないですか」

「言ったさ。で、このざまだ」

「本当に?」

「俺の子を産んでくれ、と」

「いきなり、それですか?」

「愛妾としてなら問題ない、とも」

「いつもの口説き文句ですね。女が嫌う言葉だと教えて差し上げたのに……」

「男なら俺がタルトゥスで育てる。女なら砦の外の館でお前が育ててくれ、とも」

「……殴られて当然です。それじゃあ初めから『正妻にするつもりも、一緒に暮らすつもりもない』と言っているようなものじゃないですか」


 ああ、もう……どうしてこの人は、こんなにも不器用なのかしら。心根は真っ直ぐなくせに、貴族の誇りが邪魔をして素直になれないなんて。  


 冷たい布を頰に当てたまま不機嫌そうに顔をしかめる男を前にして、まるで大きな子供をあやす母親の気分だわ、とファランは密かに苦笑した。


 この戦士の恋の行方を静かに見守って行こう。グウェレイン様も味方になってくれるはず……


「あなたは、愛する人の前で素直になれる子に育ってね」

 腹の膨らみに手を置いて愛しげにささやくファランの姿を見つめながら、アルスレッドは心の中に湧き上がる熱い想いが、目の前の娘に抱き続けていた感情とは確かに違う事に気がついていた。

 心に想い描くのは、きらめく金糸の入り混じる髪をなびかせてたたずむ、しなやかな身体の美しい女戦士。

 ふと、アルスレッドの顔に優しい微笑みが浮かび上がる。


  

 ……恋しい女が二人になった。


 どちらの心も、他の男への想いで満たされている。一人は愛する男の妻となり、やがて母となる。もう一人は、つけ入る隙もない……今は、まだ。

 

「それでこそ、追い求める甲斐があると言うものだ」

 癒し手の娘に聞こえぬように小さな声でつぶやくと、アルスレッドは窓の外に広がる秋の夜空に視線を移し、満足そうな笑みを浮かべながら銀色に輝く孤高の月を仰ぎ見た。



 

 リリアムが「砦」の戦士を心に想いながら泉で祈りを捧げ、吟遊詩人が「タルトゥスの右腕」の逞しい腕に抱かれる唯一無二の女戦士の名をうたうようになるのは、もう少し先のお話。




〜戦士の秘め事〜 了

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