秋に惑う

戦士の秘め事(1)

 ……美しい。


 その姿に、アルスレッドは柄にもなく心を奪われた。


 

 夜明け前の薄暗がりの中、月明りだけを頼りにオトゥール山麓に広がる森の中を隣国ティシュトリアへと馬を進めながら、ふと喉の渇きを覚えた。

 幼い頃から慣れ親しんだこの森は、アルスレッドにとっては庭のようなものだ。確か、近くに泉があったはずだ……そう思いながら馬を降り、手綱を引いて鬱蒼うっそうと生い茂る木々を掻き分けながら歩みを進めて行く。

 木々の騒めきに混じってわずかにせせらぎの音が響き始め、辺りの空気が冷んやりと涼しさを増した頃、森の緑に抱かれるようにして静かに横たわる泉のほとりに辿り着いた。


 澄んだ水を片手ですくって喉の渇きを癒し、水面に映る満天の星の煌めきに目をやって少し微笑むと、アルスレッドは愛馬にも冷たい水を飲ませようと手綱を引き寄せた。が、次の瞬間、水面を渡る波紋が岸に向かって滑るように押し寄せているのに気づき、素早く剣を引き抜いて目を凝らした。

 その視線の先に、ゆらりと影が浮かび上がる。

 

 銀色の月明りに照らし出されて青白く輝く後ろ姿は、確かに女のものだ。腰まで届く長い髪が裸身を覆い隠すように絡みついている。

 女は少し首をかしげると、しなやかな腕を伸ばして濡れた髪を片方の肩へと掻き寄せた。美しい背中が露わになるのを目にして、アルスレッドの背筋を、ぞくりと冷たいものが駆け抜けた。

 こんな森の奥で、しかも夜も明けぬうちに一人で泉の中にたたずむ女だ。人の子であるわけがない……だが、ラスエルクラティアでの戦いの最中さなかに相まみえた「魔の系譜」達のような禍々まがまがしさは、欠片かけらも感じられない。


 もしや、森に棲む精霊だろうか? 

 それにしても……美しい。



 あわよくば、貴族の愛妾として贅沢な日々を手に入れようと、「タルトゥスの右腕」の前に喜んで身を投げ出し、泡沫うたかたの恋に溺れる娘達の丸みを帯びた柔らかな身体とは全く違う。目の前に佇む女の肢体は彫像のように研ぎ澄まされ、力強さとしなやかさを兼ね備えている。それは、戦場で抱いた女戦士達の鍛え上げられた肉体をアルスレッドに思い起こさせた。


 『精霊と交わった人の子は、非業の死を遂げる』とは、七王国時代の昔から「大陸」に伝わる故事だ。

 女のすらりと伸びた白い腕、引き締まった細い腰の下に続く形の良い曲線に惚れ惚れと視線を走らせながら、アルスレッドは名残惜しそうな表情を浮かべると、静かに後退りを始めた。


 まったく、惜しいな。ふるいつきたくなるほどの女なんだが……人の子でないものに手を出すほど、俺も愚かではない。


 そう思った矢先、木の枝に鞭打たれ愛馬が怯えたいななきを上げた。

 その声に、泉の女がこちらを振り向いた。驚きと怒りを含んだ女の鋭い視線は、アルスレッドの姿をしっかりと捕らえていた。

「丸腰の女に背後から忍び寄るとは……なんと卑怯な! さしずめ傭兵崩れの夜盗だな? 斬り捨ててやるから出て来い!」

 一糸まとわぬ姿のまま、女はアルスレッドを見据えると、ティシュトリアの言葉でそう叫んだ。

「ああ、くそっ……ティシュトリアの戦士か? どうりで……」


 良い身体つきをしているはずだ。でなければ……いや、まったく……惜しいな。


 アルスレッドは場違いな言葉を脳裏に浮かべながら、ひらりと愛馬の背に飛び乗ると、今にも飛び掛かりそうな勢いでこちらに向かって来る女戦士を後に、もと来た道を目指して一目散に馬を走らせた。



***



 夜明け前にティシュトリアに到着したアルスレッドは、レティシアから預かった親書を王城の護衛に手渡すと、その足でファランとシグリドが暮らす『王の盾』の居館に足を向けた。



「節操がないにも程があります。女性の水浴をのぞき見て、そのまま逃げ出すなんて……」

 朝食の席に腰掛けて、葡萄酒の杯を片手に頬杖を突くアルスレッドの横で、貴族らしい上質な外衣のあちこちに絡まった木の葉や枝屑を丁寧に取ってやりながら、ファランが呆れたような声を上げて眉根を寄せた。

 その仕草が妙に愛らしくて、アルスレッドは赤い巻毛に手を伸ばし、くいっと引っ張って娘の顔を覗き込んだ。

「おいおい、覗き見とは人聞きの悪い」

 小さな娘を引き寄せて両腕の中に囲い込んだアルスレッドが、じたばたともがく娘のひたいに軽く口づける。

「ああ、もう……アルスレッド様ったら! そんなだから節操がないって言われるんです!」

 腕の中からなんとか逃げ出して、顔を真っ赤にしながら声を荒げる娘に、アルスレッドは意地の悪い笑顔で応えると、ふっくらとした娘の腹に目をやった。その上にそっと置かれた先の丸まった左腕が、時折、愛しそうにゆっくりとふくらみを撫でる。


「アルスレッド様、我が国きっての治癒師を揶揄からかうのはそれくらいになさいませ。せっかくの温かい食事が冷める前に、どうぞ召し上がれ」

 涼やかな声が食堂に響き、側仕えの者達が会釈する先に、ゆるやかに編まれた黄金の髪を肩に垂らした優雅な貴婦人が佇んでいる。アルスレッドはおもむろに立ち上がり、大きく膨れ上がった腹を抱えてゆっくりと歩く「王の盾」の奥方に左腕をそっと差し出すと、優しく支えながら席に着かせた。

「『タルトゥスの右腕』のは女達のもの……と吟遊詩人が唄っていましたが、本当にそのようですわね。我が夫が見たら、きっと嫉妬いたしますわ」

「褒め言葉と受け取っておきましょう。グウェレイン様にはお変わりなく」

 降嫁したとは言え、現国王の娘であるグウェレインを前にして優雅に振る舞うアルスレッドの姿に、ファランは思わず頰を緩めた。普段は驚くほど高慢で、どんな時でも我が道を貫き、周りの者を翻弄させて面白がるくせに、貴族の誇りだけは決して忘れず、女にはひたすら甘い……アルスレッドらしくて、なんだか可愛らしいとさえ思えてくる。これだから、憎めないのだ。

「『様』はしてと言ったでしょう? 『王の娘』はもう辞めたの。今はアルファドの妻、ただのグウェレインよ」

「では、『王の盾』の奥方様。朝食の席にお招き頂き光栄です……とでも」

 にやり、と悪戯いたずらっ子のような笑顔を浮かべるアルスレッドを見て、ファランは苦笑した。



 朝の鍛錬の熱も冷めやらぬままの姿で、いつの間にか食堂に現れた黒髪の戦士に気づいて、アルスレッドが挨拶代わりに軽く片手を上げた。

「よう、シグリド。相変わらず朝から新兵しごきか? 『ティシュトリアの飼い犬となった黒竜が、妖魔の代わりに新兵をなぶり殺しにしている』などと言う物騒な噂がアルコヴァルの王都にまで広がっているぞ」

 シグリドは、だから何だ? と言わんばかりに凍てつく視線をタルトゥスの戦士に投げると、瞳を輝かせながら微笑む妻の元に歩み寄って愛しそうに口づけし、もう一度アルスレッドに視線を戻して、その隣にどっかりと腰掛けた。

 いつもの無愛想な表情に輪を掛けて不機嫌な「火竜」の姿に、先ほどのファランとの戯れ合いをどこまで見られていたのだろう、と気まずく思いながら、アルスレッドは少しだけ肩をすくめた。

「お前の子を身籠った女に手を出すほど、俺も死急しにいそいではおらんよ。なあ、ファラン、『砦』の外にお前のための館を用意してやるから、さっさと腹の子を出して俺の元に来い。こんな愛想のない男と共に居ても……」

「アルスレッド様、葡萄酒の香り付けに、朝摘みの新鮮な毒草を入れて差し上げましょうか? しばらくの間、そのお口がしびれるくらいで、命を奪う程の効力はありませんから」

 にっこりと微笑む妻の恐ろしげな冗談に、さすがのシグリドも少しだけ表情を崩した。



 しばらくしてアルファドが姿を現わし、アルスレッドに軽く会釈してグウェレインの方へと足を運ぶ。その後ろに控える護衛らしき戦士が、タルトゥスからの客人をちらりと垣間見た。

 見る間に表情を変えたアルスレッドが「参ったな」と小さくつぶやくのを耳にして、シグリドは怪訝そうに眉をひそめた。と、同時に、護衛の戦士が、ひいっと引きつったうなり声を上げる。

「どうした、リリアム?」

 アルファドの問いに答えるよりも先に、リリアムと呼ばれた女戦士はきびすを返すと、その場から立ち去ろうと席を離れたアルスレッドにおもむろに近づき、逃すまいとするように目の前に立ち塞がった。女の真珠色の肌が見る間に赤味を帯び、息遣いが荒くなるのを目にして、アルスレッドは大きくため息をつくと、観念したように両手を上げた。

「先程は……その……申し訳ない。まさか、あのような場所で、夜更けに女が一人で水を浴びていようとは……」

 いつになく気まずそうな口調のアルスレッドをよそに、リリアムは怒りに燃える琥珀色の瞳でタルトゥスの戦士をにらみつけた。 


 次の瞬間、女戦士のしなやかな腕が、ひゅんと動いて、アルスレッドの頬をしたたか殴りつけた。



 突然の事に呆然としながら、なんとか体勢を保って倒れまいとする貴族の男と、両のこぶしを固く握りしめたまま立ち尽くす女戦士の姿に、その場に居た全ての者が凍りついた。シグリドが、素早く動いたリリアムの腕をひねりあげて床にねじ伏せなければ、頭に血が上った女戦士の手でアルスレッドの端正な顔は見るも無残なことになっていただろう。



 ……しまった。

 もう二、三発殴らせてやってから、止めるべきだったな。


 恋敵の痛々しげな顔に目をやって、シグリドはわずかに冷たい微笑みを浮かべた。

 


***



「まったくもう……タルトゥスにお帰りになる前に、もう一度、リリアムに謝って下さいね」

 真っ赤に腫れ上がった男の頰に濡らした布を押し当てると、ファランは道具箱から取り出した薬草を手早く擦り潰し、葡萄酒に混ぜ込んでアルスレッドに手渡した。

「痛み止めです。文句言わずに飲んで下さい」

 少し怒ったような口調の娘には逆らわぬのが身のため、とタルトゥスの戦士も承知しているらしく、眉根に皺を寄せて薬酒を飲み干すと、小さく「不味まずい」とつぶやいて杯を置いた。


 「隣国からの使者」を殴りつけた女戦士が、騒ぎを聞いて駆けつけた衛兵達の手で引きずり出された後、人払いをした食堂で事の成り行きを渋々と語るアルスレッドの言葉に耳を傾けていたアルファドが、静かに口を開いた。

「あれは少々潔癖すぎるきらいがありましてね。あの者の無礼はお詫びしましょう。ですが、見も知らぬ男の目の前で、意に反してあられもない姿をさらしてしまった年若い娘の心情をお察し頂き、今回の事は水に流して頂きたい」

 アルスレッドは苦笑すると、濡れた布を取り替えながら非難するような眼差しを向ける癒し手の娘に目をやった。

「水に流すも何も……非は俺の方にある、と先程から痛い程に思い知らされていますよ」

 心配そうな顔で夫を見つめていたグウェレインが、小さく安堵のため息を漏らした。


「しかし、なんだって夜も明けぬうちから、あんな森の奥深くの泉に……」

 痛みに顔を歪めながら、アルスレッドはテーブルに両肘をついて頭を抱え込んだ。

「私のため……だと思います」

 その場に居た者達の視線が向けられるのを感じて、グウェレインは申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「旅人にとっては喉を潤すための泉でしかないのでしょうが……我らティシュトリアの民にとって、あれは祈りの泉なのです。誰にも見られずにみそぎを済ませ、天竜に祈りを捧げることが出来れば願いが叶うと言われています。リリアムは優しい子ですから、生まれ来る子のために祈ってくれていたのでしょう」

 産み月の近い大きな腹を愛しそうに撫でる「王の盾」の妻を前に、アルスレッドは少しだけ後ろめたさを感じて顔をしかめた。

「……で、俺がそれを邪魔したという訳か。ならば、殴られても仕方あるまいな」


 間が悪いとしか言いようがない。だが、そのおかげで、あの娘に出逢えたのだ。天竜の思し召しとでも言うべきか。

 いや、しかし、あれだけの女だ。男達が放っては置かぬだろう。既に連れ添う相手が居てもおかしくはない。

 ……だから何だ? 

 奪い取れば良いではないか。獲物を前にして手出しもせず退しりぞくなど、「タルトゥスの右腕」の名折れだ。


 腫れ上がった頬に手を当てて、月明りの下に浮かび上がったなまめかしい裸身を思い起しながら、アルスレッドはゆっくりと不敵な微笑みを浮かべた。




 アルスレッド様ったら、新しい悪戯を思いついた小さな子供のようなお顔をしているわ……


「お願いですから、これ以上、困らせないで下さいね」

 戦士の心の内を読み取ったファランが、ちくり、と釘を刺すように、アルスレッドの耳元でささやいた。

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