黎明(れいめい)(2)


 「狭間」に引き込まれ、聖魔の結界の中でロスタルと剣を交えた所までは覚えている。白い妖魔の圧倒的な力にねじ伏せられ、朦朧となる意識の中で、ファランの姿を目にした気がした。


 それが……気づけば、誰かの腕に支えられて水の中に身を沈めている。


 咄嗟にそこから抜け出そうともがきながら、思うように動かぬ身体に苛立ちを露わにするシグリドの顔を、優しげな金色の獣の瞳が上から覗き込んだ。

『まだ無理に動こうとしては駄目よ。ずっと眠っていたのだから……火竜の子、ゆっくりで良いので泉から上がれますか? それとも、タリスニールに引き上げてもらった方が良いかしら?』


 泉……タリスニール……「嘆きの森」の?


「癒しの泉……? リアナン……か?」

 精霊とは言え、女の膝枕で眠っていたのだと分かると、シグリドは物凄い勢いで上体をひねり、その反動で身体を岸に向かって移動させた。驚くリアナンを尻目に、何とか泉から這い上がったところで力尽き、地面に転がるように倒れ込む。途端に、凍りついた地面と身を切られるような冬の風に、身体の震えが止まらなくなった。

『凍えてしまうわ、シグリド。風の精霊達に言って、乾いた衣服を用意させましょう……暖かい南の風は、天竜の娘について行ってしまったから』


 天竜の……? ああ、ファラン!

 

 シグリドは意志の力で強張こわばる身体を起こし上げ、片膝を立てて座り込むと、必死に辺りを見回した。

「何処だ、ファラン……無事なのか?」



 泉を取り囲む薄暗い森の奥で、何かが、ゆらりと動いた。

 しばらくして、炎の色の巻毛を風に揺らしながら、小さな娘が木々の間から姿を現した。隣を行く大きな赤褐色の獣に話しかけながら、ゆっくりと森の小道を歩いて来る。不思議な事に、娘が一歩足を踏み出す度に、さわさわと周りの木々が風に騒めきながら、夏の青葉の輝きを取り戻していく。

 突然、シグリドの姿に気づいた娘が、凍りついたように動きを止めた。

 次の瞬間、手にしていた薬草を宙に放り出して走り出した。


「シグリド……ああ、良かった……目が覚めたのね!」

 息も絶え絶えになりながら、ファランはシグリドに駆け寄って地面にしゃがみ込むと、懐かしい腕の中に飛び込んだ。その勢いで倒れそうになりながらも、シグリドはファランをしっかりと受け止める。

「しがみつくな……濡れるぞ、ファラン」

 ずぶ濡れのシグリドが躊躇ためらうのも構わず、ファランは胸に顔を押しつけると、せきを切ったように泣き出したまま離れようとしない。

 それが堪らなく愛しくて、思わず娘の腰に両腕を回して抱きしめた。ふわりと赤い巻毛が鼻をくすぐる。ようやく取り戻した娘が幻ではないのだと確かめたくて、シグリドはファランに触れ続けた。ふわふわの巻毛を掬い取って指に絡め、薔薇色の頰にそっと触れて柔らかい唇に口づけし、震える顔の輪郭を指でなぞって小さな肩を引き寄せ、細く滑らかな腕を大きな手で掴み、ゆっくりと手のひらを這わせるようにして小さな指先に向かって撫で下ろしていく……甘い花の香りに包まれながら、シグリドは生まれて初めて天竜に感謝した。

 ファランは愛しい人に触れられて、喜びに震える心が泣き声を漏らさぬように、そっと瞳を閉じた。



 ふと、シグリドが大きく息を呑んで手を止めた。

 左腕に触れていた指先が戸惑いがちに離れていくのを感じて、ファランは不安を覚えて目を開けた。困惑の色を濃くしたみどり色の瞳が見開かれ、喘ぐような重たい呼吸が漏れる。

 左手首から先を失くしたファランの姿を、黒髪の若者は愕然としたまま見つめていた。しばらくして、ゆっくりと手を伸ばして小さな身体を引き寄せると、腕の中にしっかりと掻き抱いた。

 いつもと同じ仕草のはずなのに、いつもと違うシグリドの様子に、ファランは戸惑いを隠せなかった。


 ああ、震えているわ……泣いているの?


「シグリド?」

 顔を覗き込もうとして頭を動かすと、大きな手で押さえ込まれて身動きが取れなくなった。仕方なく、ファランは頰をシグリドの胸に押し当てたまま、震える大きな背中に両腕を回して、まるで小さな子供をあやすように優しく撫で続けた。

「ねえ、シグリドったら」

「……その左手」

 大丈夫よ、と甘く優しい声が耳をくすぐる。シグリドは悔しさで心が押し潰されそうになり、大きく顔を歪めて唇を噛んだ。


 そばに居て、必ず守ると誓ったのに。

 争いに巻き込まれ、挙げ句の果てに治癒師の大切な手を奪われて……大丈夫なわけがないだろう、ファラン? 

 なぜ、俺を責めない? 

 そばに居てお前を守る事も、血を流し痛みに震えるお前を抱きしめてやる事さえ出来なかった、役立たずのこの俺を…… 


「シグリド、ねえ、感じる?」

 ファランは胸の鼓動に耳を澄ませながら、静かにささやいた。

「私、あなたを両腕で抱きしめているわ。分かるでしょう?」

 シグリドは何か言おうとして言葉が見つからず、口惜しそうにため息を吐いた。

「大丈夫よ。ちゃんと腕は残っているんだし、左手がなくても、利き腕の右手があれば治療は出来るわ。だから……自分を責めては駄目よ、シグリド。あなたのせいでは決してないの」

 失った左手の代わりに取り戻した愛しい人の背中に優しく触れながら、ファランはもう一度、シグリドの胸に顔を埋めた。



 声を押し殺したまま涙が止まるまで、シグリドは腕の中の温もりを抱きしめ続けた。小さな娘の身体を押し潰さないように。これ以上、愛しい娘を傷つけないように……そう願いながら。

 


***



「ずっと眠ったままなんだもの。さすがに五日目の朝には、もう二度と目を覚まさないんじゃないかって不安になったわ……永遠にあなたを失うんじゃないかと思って、とても怖かったの」

 そう言うと、ファランの瞳から大粒の涙がはらはらと零れ落ちた。泣き腫らして真っ赤になった顔が痛々しい。

 

 シグリドが眠って居る間、傍らでずっと泣き続けていたのだ、とリアナンがそっと教えてくれた。

『泣き止んだと思ったら、ふらりと森の中に分け入って、両手一杯に薬草を集めて戻ってくるの。森の中を彷徨い歩きながら、目にした薬草を手当たり次第に摘み取っていた、とタリスニールが言っていたわね。それを潰して、口移しであなたに飲ませて。泣き疲れたら、また森を彷徨い歩く……その繰り返し。食べることさえ忘れていたから、心配した森の獣達が木の実や果物をここまで運んで食べさせていたのですよ』


 南の風が『癒しの泉』の上を優しく吹き渡っていく。真冬だと言うのに、初夏の日を思わせるような暖かな空気が辺りを包み込み、あまりの心地よさに、いつの間にかファランはシグリドの腕の中で眠ってしまったようだ。

 とろけるような眼差しを娘に向ける若者を見つめながら、リアナンは女術師の「呪詛かしり」から解放された日の事を思い出していた。

 決して諦めずに傍らで守り続けてくれたタリスニールの愛に包まれて、輝きを取り戻した、あの日。


『左腕の痛みに耐えながら「狭間」を抜けて、泉の中に飛び込んで……あっという間に溺れてしまったのでしょうね。小さな身体であなたを抱きしめたまま、どうする事も出来ずに……』

 碧色の瞳が息苦しそうに自分を見つめているのを知りながら、リアナンは言葉を紡ぎ続ける。

『一人なら……あなたを手離していたら、あんなにも苦しい目に遭わずに、息が切れる前に水面に浮き上がる事も出来たでしょうに……諦めなかったのですよ。最後の息を吐き出して、意識が途切れるその瞬間まで、天竜の娘は決して諦めず、あなたを決して離さなかった。離してしまえば、二度と戻って来ないと分かっていたから』 

 リアナンの言葉が、幾千ものやいばよりも激しくシグリドの心を貫いた。

 決して責められているのではないと、シグリドは分かっていた。差し出された小さな手を離してしまった負い目のある己の心に、『ファランを取り戻せたのは奇跡に近いのだ』とリアナンは諭すように教えてくれる……その奇跡を起こしたのは、腕の中の小さな愛しい魂なのだ、と。


「二度と俺の元には戻って来ないだろう……そう思って、何度も心が折れそうになった。やはり、お前は強いな、ファラン」

 愛しい娘にそっと頬ずりする若者が流した涙を、さらりと零れ落ちた黒髪が優しく覆い隠す。

「やっと取り戻したんだ……二度と離すものか」


 泉の精霊は慈愛に満ちた眼差しをシグリドに向けると、柔らかな微笑みを浮かべた。

 


***



 どこからともなく、物凄い勢いでこちらに駆け寄ろうとする獣の気配に気づいたシグリドが、鋭い視線を辺りに走らせた。


 突如、森の奥から黒い獣が姿を現し、あるじの姿を見つけて喜び勇んで走り寄ると、脚に絡みつきながら甘えるような鳴き声を上げて身体をこすりつけてきた。

 驚いた顔でグラムを見つめていたシグリドが、そばを離れようとしない黒豹レーウの艶やかな毛皮を、優しく、ゆっくりと撫でる。


 しばらくして、森の奥からひづめの音が響き始めた。

 それが荷台を引く馬の足音らしいと気づく頃には、森の小道を通って二頭立ての荷馬車が姿を現した。ゆっくりとこちらに向かって進んで来るその横を、遠目にも軍馬デストリアと分かる大柄な馬に乗った戦士が颯爽と駆け抜けて、シグリドの姿を認めて大きく手を振る。

「よお、シグリド! なんだ、もう目が覚めたのか。お前が気を失っている間に、ファランをさらってタルトゥスに連れ帰ろうと思っていたんだが」

 アルスレッドの声が妙に嬉しそうに辺りに響いた。その背後で、タイースが荷馬車を御しながら、呆れた眼差しをタルトゥスの戦士に向けている。その横に腰かけていたパルヴィーズが、にっこりと優雅な微笑みを浮かべた。貴人の肩には不敵な面構えの銀灰色の鴉がちょこんと止まり、荷馬車が揺れる度に大きく身体を揺らしながら、落とされまいと必死にしがみついている。



「立てるか、シグリド? 何ならファランは俺が抱えてやっても……」

 赤い巻毛に触れようと手を出すアルスレッドに凍てつく視線を向けると、シグリドはまだ眠っているファランをそっと抱き上げて、起こさないようにゆっくりと荷台へ運ぶ。タイースが手綱をパルヴィーズに預け、シグリドに手を貸してファランを荷台に横たえた。

「……怪我の具合は?」

 心配そうに声をかけるタイースの視線は、小さな寝息を立てる娘に注がれている。

 シグリドは少しだけ表情を和らげて、大丈夫だ、と小さくつぶやくと、ひらりと荷台に飛び乗った。


「お前が酷い怪我で動けない、とパルヴィーズ様が言うものだから、わざわざ迎えに来てやったんだが……なんだ、馬にも乗れそうな勢いじゃないか」

 アルスレッドが、荷台に繋がれている青鹿毛の馬の隣に自分の馬を寄せ、背中を軽く撫でてやる。

 よく見れば、それはエンティアだった。あるじの姿を見つけたシグリドの愛馬が、嬉しそうに首を上げ尻尾を高く振り上げた。その隣で、少し迷惑そうな顔で蹄を踏み鳴らしているのは、パルヴィーズの愛馬スフィルだ。

「俺の馬は分かるが……スフィル、お前、何故そこに居る?」

 不機嫌な様子の栗色の妖獣を、シグリドは怪訝な表情で見つめた。気位の高い「魔の系譜」が、ましてや、聖魔アプサリスの眷属であるスフィルが、大人しく荷台に繋がれるなど考えられない。

 タイースが苦笑いしながら、スフィルの手綱を握り直した。

「アルスレッド殿の軍馬をエンティアと一緒に荷台に繋ごうとしたら、いきなりこいつが暴れ出した」

 当たり前だ、と言わんばかりに妖獣が歯を剥きだし、鼻息も荒く地面を蹴った。その様子に、タイースは耐え切れずに、くくっと軽やかな笑い声を上げた。

「どうやら、恋しい女をアルスレッド殿の馬に横取りされると思ったらしい。まあ、主が主だけに、分からんでもないが……」



 周りの騒がしさに、ぼんやりと目を覚ましたファランの瞳が、少し不安げに宙を漂う。が、すぐに探し続けていた人の温もりを感じて、小さな声でその名を呼んだ。途端に、吐息がかかりそうな程にシグリドが顔を近づけて、しいっと静かに息を吐き出す。

「起きるな、ファラン。そのまま寝ていろ」


 ……もう少し、お前を独り占めさせてくれ。


 そう、耳元でささやかれ、驚いて顔を上げたファランを、みどり色の瞳の若者が腕の中に捕らえた。


 ああ、新緑の森の色だわ。とってもきれい。

 そう、いつだってこの人は私をこうして抱きしめるの。とても力強く、それでいて、とても優しく……


 ファランは安堵の吐息をつくと、名残惜しそうに瞳を閉じて、黒髪の火竜に身体を預けた。



 ふわふわの赤い巻毛に顔を埋めて、小さな身体を抱きしめたまま、シグリドは腕の中の娘の温もりを懐かしむように、柔らかな微笑みを浮かべた。


 もう少し……いや、ずっと、このままで。




〜第3部 静けき黄昏〜 了

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