黎明(れいめい)(1)

 青白い炎が「神殿の丘」をあっという間に呑み込み、轟音を上げながら全てを焼き尽くそうとしている。


 王都の広場から、なす術もなくその光景を見つめていたラスエルクラティアの民の悲鳴がパルサヴァードの心を刺し貫いた。

 丘の上に美しくたたずんでいた神殿が、炎の中に虚しく崩れ落ちていく。その姿を心に刻みつけながら、女達は幼な子をしっかりと抱きしめ、年老いた者は静かに涙を流した。


 胸の奥の激痛に耐えながら、パルサヴァードは炎を見つめ続けた。

 丘に放たれた浄化の炎が、神殿と運命を共にした全ての魂を『安息の地』へと導く灯火ともしびとならん……心の中で、そう祈りながら。



***



 神殿の丘から撤退したティシュトリア軍を迎えたのは、悲しみに沈む民の姿だった。



 「天竜の大神殿」の再建に必要な物資の提供を申し出るエレミアに、パルサヴァードは穏やかに、だがきっぱりと首を横に振った。

「聖女ウシュリアの時代から、権威の象徴であった神殿こそ、忌むべきものなのです。何処に居ようとも、迷い無き心で祈りを捧げれば、聖なる天竜ラスエルは必ず耳を傾けて下さいます」

 疲れ切った戦士達に冷たい水や食べ物を差し出す女達を横目に、エレミアは冷ややかな視線を「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の若き王に向けた。

「なるほど……だが、警護の兵力は必要だろう。常備軍が壊滅状態の今、この国は他国の侵入を容易に許す状況にある。神聖政治に基盤を置くのがこの国の習いとは言え、祈りの力だけで国を守れるのなら、ザシュアのような術師をのさばらせる事もなかったはずだ。違いますかな、パルサヴァード殿?」

 皮肉めいた響きを持つエレミアの言葉に、パルサヴァードは苦笑しながら虚空を見上げた。


 備えよ、と大いなる存在の声が心に響く。

 だが、不思議な事に、どこにも痛みはない。幼い頃から慣れ親しんだ痛みの代わりに、穏やかな喜びが心の奥底から沸々と湧き上がってくる。

 その声は、民と共に歩もうと心に決めたラスエルクラティアの王に、もう一度、優しく語り掛ける……共に生きるために、備えよ、と。


 パルサヴァードは感謝の祈りをささやくと、精悍な顔立ちの戦士の王を真っ直ぐに見つめ返した。

「ご存知の通り、この国は、自ら志願し故国を離れた信仰心の厚い戦士達によって、数千年もの長きに渡り守られ続けて来ました。今回の騒動で多くの罪なき命が奪われ、大陸の民が聖竜の庇護に疑問を抱いたとして……責められるべきは、神官達の横暴を見過ごして来たこの私一人。聖なる天竜は今も変わらず、我ら小さき人の子らを天上から見守っておいでです。いつの日か再び、古き良き慣習の下、この地を守ろうとする者達が現れると信じて、私は大陸の平和を祈り続けましょう」

 祈りの言葉は風に乗り、広場に居た者達の間を優しく駆け巡り、その想いに心を揺さぶられた戦士達がラスエルクラティアの若き王に驚嘆の眼差しを向ける。


 その様子を、エレミアは拍子抜けしたような顔で眺めると、がしがしと金色の髪を掻いて含み笑いを浮かべた。

「……まったく、言葉の力とは恐るべきものだな。己の身を守るすべさえ持たぬくせに、言葉で以って、あなたは人心を魅了し、あの娘は心身の傷を癒す……もしや、パルサヴァード殿には赤毛の妹御など居られぬかな?」

 思わず漏らした自身の笑い声に戸惑いながら、パルサヴァードは表情をほころばせた。

「あのように心優しい妹が居れば、どんなにか穏やかな日々を過ごせることでしょう……王よ、ファランは見つかったのですか?」

 いや、とエレミアは少し顔をしかめて、隣で騎乗するイスファルに、ちらりと目をやった。

「あの娘を取り戻すと息巻いていた火竜の若者も、戦さの混乱の中で行方知れずでな……娘の方は酷い怪我を負っていたらしいが、タイースが保護した直後、自ら姿を消したそうだ」


 睦まじい二人の姿を思い出して、パルサヴァードの胸をうずくような痛みが走り抜ける。と、同時に、不思議な違和感を感じた。心の中に優しく響く、悲しむ必要などないのだと告げる声を、確かに聴いた。

「妖魔達がファランを『天竜の娘』と呼ぶのだと、パルヴィーズ様が仰っていました。王はご存知でしたか?」

 突然、熱に浮かされたような表情でささやく神官の王の声に、エレミアが怪訝な顔を向ける。

「……何の事だ?」

 とろけるような微笑みを浮かべながら、パルサヴァードはまるで祝福を与えるかのように両の手のひらを虚空に向けて差し伸べた。

「天竜の加護を持つ娘は、翼をもがれた地上の竜を追って行ったのでしょう。案ずることはありません。天が結んだ絆は、永遠に続いていくのですから」



***



 妖獣狩人達は、情勢が落ち着くまでラスエルクラティアに留まることを決めたようだ。

 王都軍の一部を残し、別れを惜しむ民の声を後に、エレミア達は帰路に着いた。真冬の嵐が吹きすさぶ中、術師達が編み上げた結界に守られたティシュトリア軍の足取りは軽く、出陣してから二度目の新月を迎えた朝、懐かしい故国の地を踏んだ。 

 


 王都の正門で待ち構えていた「王の目」にエレミアとアルスレッドの警護を任せ、イスファルはタイースと共に隊列を率いて兵舎へと向かった。戦士達にねぎらいの言葉を掛けて遠征軍を解散させ、ようやく久方ぶりの我が家へと馬を進める。

「パルヴィーズ様はシグリド達の帰りを待ち侘びているであろうな」

 ぽつりとつぶやいたイスファルの言葉が、タイースの心に重く伸し掛かった。

 戦場とは言え、すぐ隣に居たはずのシグリドが行方知れずとなり、ようやく見つけたファランを目の前で傷つけられ、まともな治療も施せぬまま姿を消すのを止められなかった。己の不甲斐なさに嫌気が差し、ぎりぎりと唇を噛み締めた。


 思い詰めた表情で無言のまま馬を進める息子を横目に、イスファルはパルサヴァードが告げた言葉を思い起こした。


『天が結んだ絆は、永遠に続いていくのですから』

 

 あの時、エレミアは渇望するように虚空を見上げた。その脳裏に浮かんだのは「砦の姫」の姿だったのだろう……だからこそ、若き神官の王に異論を唱える事もせず、速やかにラスエルクラティアを離れたのだ。全てを見通すようなあの瞳に、心の内を覗かれる前に。


 人に見えぬものを見る王、か。厄介なものだ。


「タイースよ、パルヴィーズ様には包み隠さず、お前が見たもの全てをお伝えせよ。タルトゥス王家に繋がるあの御方に、隠し立ては効かぬぞ」

 黄金色の髪の麗しい貴人が時に見せる、冷酷な眼差し。恐らく、パルヴィーズもパルサヴァードのように「全てを見通す眼」を持っているのだろう……厄介な賓客を抱えたものだ、とため息を吐いたイスファルが、館の前に佇む人影に気づいて思わず苦笑する。


 馬上の二人に美しく微笑みかけるパルヴィーズの足元で、黒い山豹レーウが座り込んだまま、くわっと大きな欠伸あくびをした。



***



「今、何と……?」

 玉座に腰掛けてパルヴィーズの話に耳を傾けていたエレミアが、思わず声を詰まらせた。


「シグリドとファランは共に『嘆きの森』の守護者の庇護下にある、とグラムが申しております。シグリドはかなりの深傷ふかでを負っているようで、此方こちらから迎えに行ってやりたいのですが、私一人では如何いかんともし難く……そこで、是非ともお力添えを頂ければと、お願いに上がった次第です」

 不思議と心を惹きつける声で流暢に語るタルトゥスの貴人は、話し終えると優雅に頭を垂れた。

 


 イスファルが謁見を願い出ていると警護の兵が告げたのは、エレミアが王城に戻って半刻も経たぬ頃の事。

 「王の間」に控えていたイスファルとタイースに旅の埃を取り払った様子はなく、なぜかタルトゥスの貴人と黒豹を伴っていた。王の伝令に呼び出されたアルスレッドが取るものも取り敢えずと言う様子で現れたところで、パルヴィーズが言葉を紡ぎ始めた……



「……で、その話をもたらしたのが、その黒豹だと?」

 エレミアはパルヴィーズの足元にうずくまるグラムに目をやると、呆れ果てたように薄笑いを浮かべた。

「パルヴィーズ殿、いかにタルトゥス王家の血筋である御方とは言え、正気を疑われるような言動は慎まれた方が御身のためですぞ」

 明るい空色の瞳が冷ややかさを増すのを目にして、イスファルが王の耳元でささやいた。

「『嘆きの森』は、妖魔でさえ手出しのできぬ聖域と言われております。そこにかくまわれているとなれば、聖なる天竜の恩恵を受けたと考えるのが妥当かと。あの黒豹は、聖魔より遣わされた使い魔ではないかと存じます」

「イスファルよ、お前まで戯言は止せ。あれがシグリドの連れていた黒豹である事くらい、俺にも分かる。パルヴィーズ殿の言葉の真偽を問うているのだ。第一、あの森はタルトゥスの砦を抜けた先にある。レティシア殿から領内を通る許可を頂くために、真っ当な理由が必要な事くらい、お前も……」


義兄あに上」

 それまで、事の成り行きを静かに伺っていたアルスレッドが声を上げた。

「ご心配には及びません。私が同行すれば済む事です。シグリドは我があるじレティシアの覚えもめでたく、助けが必要とあらばタルトゥスの兵を動かすことも可能かと」

 不意に、エレミアが眉をひそめる。

「ほお……タルトゥスの姫は、あの火竜にご執心という訳か」

 それには答えず、アルスレッドは真っ直ぐな眼差しを王に向けた。

「共に戦場に立った者に救いの手を差し伸べるのに、正当な理由など必要でしょうか? 遠い昔、たかが側妻そばめに過ぎぬ女戦士の亡骸を故国に送り届けた慈悲深き王に、そうすべき正当な理由などなかったはず……ただ激情に突き動かされるまま、そうせずにはいられなかったのでしょう。義兄上、違いますか?」


 その言葉に、エレミアが玉座を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、怒りに震えながらアルスレッドを睨みつけた。

 が、一歩前に進み出たパルヴィーズが、左眼に浮かぶ奇妙な輝きも露わに王を見据えると、エレミアはあらがえぬ大きな力に押し戻されるように、どさりと玉座に沈み込んだ。 

 不可思議な力で己を押さえつけた男に驚愕と憤怒の表情を向ける戦士の王をよそに、パルヴィーズが歌うように語り掛ける。

「砦の姫とティシュトリアの若き王の物語は、聴く者の涙を誘います。黒竜と炎の精霊の物語も、また然り……語り部として心苦しいのは、全ての物語に教訓があると思い込む者の多さでしょうか。深い情愛ゆえの衝動が語り継がれていくのに、真っ当な理由など御座いません。教訓にならずとも、誰かを想って行動を起こそうとする心にこそ、人は涙し、共感を覚えるのです」

 黄金色の髪の貴人は穏やかに微笑むと、貴族らしい優雅な所作で王に一礼し、ゆっくりと後退りした。


 玉座に両肘を預けて頭を抱え込んでいたエレミアが、大きなため息をついた。

「ああ、くそっ……皆して俺を丸め込む気でいるのだな? もう良い、好きにしろ。パルヴィーズ殿、必要なものがあれば遠慮せずに言ってくれ。すぐに用意させよう」

「ありがとうございます。それでは、荷馬車を一台と、アルスレッド殿、そしてタイース殿をお借り致します」

 アルスレッドがにやりと笑みを浮かべて、呆気にとられた様子のタイースに目配せした。




 パルヴィーズ達が慌ただしく立ち去った後、不機嫌そうに玉座に座り込んだままのエレミアが、何かを思いついたように口を開いた。

「イスファルよ。タルトゥスの姫はまだ独り身であったな」

「確か、次の春に成人を迎えるかと」

「そうか。ならば、丁度良い」

 悪巧みする子供のように、くくっと笑い声を上げる王を前に、イスファルが大きなため息を漏らす。

「まだ世の汚れを知らぬ年若い姫君ですぞ。アルコヴァルとの絆を結ぶためとは言え、王よ、さすがにそれは……第一、アルスレッド様がお許しにならぬでしょう。姉君を側妻に堕とした男に、従妹まで奪われるとなれば……」


 孫ほど年の離れた娘に手を出すなどティシュトリア戦士としての面子に関わる、とでも言いたげな渋り顔のイスファルを横目に、エレミアは、面白そうに不敵な笑みを浮かべた。

「イスファルよ。相変わらず、お前は頭が固い」

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