ウシュリアの祈り

 その巫女は、故郷を追われ、たった一人で大陸を彷徨さまよい歩くうちに、いつしか野の草花を用いて病や傷を癒すすべを身につけていた。


 流行り病に倒れた民を癒し、手にした青い石の光で大地のけがれをきよめ、壊滅寸前だった小さな砦を甦らせた異国の巫女を、砦の民は感謝の祈りと共に迎え入れた。

 不思議な力を持つ巫女に導かれ、砦の民は大地を耕し、豊穣の恵みに感謝を捧げ、戦火に追われ国を失った人々を温かく迎え入れた。

 やがて、砦は「美しき緑の大地プリエヴィラ」と呼ばれる小国へと姿を変えた。




 いくつもの国境を超え、いくつもの出会いと別れを繰り返し、ようやく辿り着いたこの美しい土地で、心優しき人々に囲まれて永遠の眠りにつくのも悪くない。

 願わくば、あの日、離してしまった小さな手を、もう一度だけ握りしめる事が叶うなら……神官達の追及の手を己一人に向けるため、手放してしまった愛しい我が子。素性の分からぬ身重の娘をかくまい、生まれ来る子の養父母となる事を申し出てくれた愛情深い老夫婦の元で健やかに成長したならば、今頃は……

 いや、よそう。もう遠い昔の事だ。「罪戯れ」であるあの子が、人の子として生き延びたかどうかさえ定かではないというのに。


 静かにため息を吐くと、思うように動かぬ身体を寝台の上で何とか起こし、窓の外に広がる美しいプリエヴィラの街並みに目をやって、年老いた巫女は柔らかな微笑みを浮かべた。

 いおりの扉が開かれる音がして、巫女は振り向きもせずに優しい声で話しかけた。こんな早朝に訪ねる者があるとすれば、一人しかいない。

「今朝も早いわね、フルム。いつもの薬湯を持って来てくれたのかしら?」


 砦の住人となった日から護衛として傍に居てくれた傭兵との間に一人娘を授かり、「天竜の夢ラスエルフルム」と名付けて心から慈しんだ。物静かで優しい夫を戦さで失った後、女手ひとつで娘を育て上げた。美しく成長した娘は、この春、初めて母になる。

 年老いた母の庵を毎朝欠かさず訪れる孝行な娘に、巫女は祝福の祈りを与える。母が夫を、娘が父を失って以来、それが二人の朝の決まり事となった。

 歌うように紡ぎ出される言葉が「天竜の祈り」であり、母がかつて「天竜の巫女」と呼ばれていた事を知るのは、父が亡くなった今、この国でフルムただ一人だ。

 二人だけの秘密よ、と悪戯っぽく笑う母を、幼ないフルムは不思議そうな顔で見つめたものだ。



 ゆっくりと巫女が扉の方に目を向けた。そこに娘の姿はなく、青味がかった黒髪の青年が優しい微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。その姿は、夜明けの薄明かりの中で不思議な青白い輝きを放っている。



 一瞬、ウシュリアは世界が動きを止めたように感じた。 


 あの頃に時が戻ったような錯覚さえ覚えて、巫女は老いて節くれ立った手を美しい妖魔へと差し伸べた。妖魔は微笑んだまま小さな手を取ると、愛しそうにウシュリアを腕の中に引き寄せた。

『愛する娘よ、地上でのお前の時は終わりを告げようとしている。民はお前の思いに答えてくれたか?』

 娘は小さく頷くと、胸元に身につけていた青い石を握りしめた。

「愛しい天竜ラスエル様、大地は実り豊かに育ち、心優しき民は己の力でしっかりとこの地に根を下ろしました。思い残す事と言えば、未だこの大陸の何処かで、戦さの風が吹いている……それくらいでしょうか」

 ラスエルは少し困ったように微笑んだ。

『なるほど……戯れも程々にせよと「戦さ鴉」をいましめねばなるまいな』

「いいえ、アプサリス様のとがではございません。全ては、我ら愚かな人の子の欲深さゆえ。戦士達の中には、あなた様に祈りさえすれば勝利を約束されると思い込んでいる者もいるとか」

 癒しを必要とする者達の魂を思って、ウシュリアの瞳が悲しみに翳った。


『炎と鉄を手に入れた人の子らは、欲望の赴くままに生きる事を選んだのだな。それもまた、世のならい……さて、我が魂の伴侶よ、そろそろ戻らねば』

 天竜は娘を軽々と抱き上げて庵の外に出ると、大きな翼を広げて、ふわりと夜明けの空へ舞い上がった。

『我らは天上から、人の子らの行く末を見守るとしよう』




 今朝はなぜだか寝過ごしてしまった。心配性の母の事だ、もしかしたら身重の娘を案じて一人で起き上がろうと無理をしているかもしれない……大きく膨れた腹を重そうに抱えながら、フルムはいつものように薬湯の入った杯を抱えて母の元へと向かっていた。

 小高い丘の上に建つ小さないおりが目に入った途端、大きく開け放たれたままの扉に気づいて、フルムは胸騒ぎを覚えながら急ぎ足で庵の中に掛け込んだ。

「母様!」

 フルムの手から薬湯の杯が音を立てて転げ落ちた。

 母の姿が、何処にもない。

「ああ、どうしましょう……母様、何処なの?」

 フルムは未だ母の温もりが残る寝床に触れ、そこに残されていた青い石を震える手で拾い上げると、胸元に引き寄せて握りしめた。母が肌身離さず身につけていたその石は、朝の光の中で美しい輝きを放っている。

 温かな石の光に包まれて、なぜだか、フルムは不安な心が少しずつ和らいでいくのを感じていた。


 ふと、母の優しい声が聴こえた気がして、フルムは窓の外に広がる夜明けの空に目を向けた。



 *** 



 青い石の輝きが増すほどに、ザラシュトラは熱くたぎる血が激流のように身体中を駆け巡る感覚に襲われた。鼓動が早鐘を打ち、あれほど途切れそうだった気力が研ぎ澄まされていく……

 聖魔の結界に阻まれ、意のままにならなかった使い魔達の息遣いを間近に感じて、女術師は勝ち誇ったように薄笑いを浮かべ、くくっと喉の奥で不快な音を立てた。



 あの光は……何だ?


 エスキルはタルトゥスの戦士の攻撃をかわしながら、ザラシュトラの結界からあふれ出す青い光に目をやった。恍惚とした表情で佇む女術師を包み込むその光に、周りに居る全ての者が目を奪われ、ひと時、動きを止めた。


 沈黙を破ったのは、毒竜達の咆哮だった。

 女術師の呪詛に再び魂を鷲掴みにされた使い魔達は、もがき苦しみながら神殿の壁や天井に大きな身体を何度も打ちつけ、あるじの頭上で狂ったように旋回を繰り返している。

 今にも崩れ落ちそうな程に亀裂が走った壁と天井を支える円柱が、少しずつ傾き揺らぎ始めているのを目にして、エスキルは顔をしかめて声を張り上げた。

「ザラシュトラ! これ以上、神殿内で毒竜達を暴れさせるな!」

 分かっています、と女術師の唇が動くのを目にした瞬間、ひゅんと鋭い音が耳元をかすめた。

 エスキルは舌打ちすると、ティシュトリアの若者の刃が届かぬ後方に素早く飛び退いて、頬を伝い落ちる血を苛立たし気に拭い取った。

「同感だ。あの化け物共が神殿を壊すのが先か、俺がお前の首を取るのが先か……よそ見をするな、エスキル!」

 痛みに震えるファランの姿を思い浮かべ、アルスレッドは込み上げる怒りを剣に込めて攻撃の手を緩めず、エスキルを女術師の結界ぎりぎりまで追い詰めて行く……



 青い石を両手で捧げ持ったまま、ザラシュトラはゆっくりと水鏡を覗き込んだ。

 神殿の丘で繰り広げられる戦いの最中さなかにあるエレミア王と、その傍らで獣人達を次々に斬り捨てていく「王の盾」の姿が水面に揺らいでいる。女術師は獲物を追い詰めた獣の如く瞳を輝かせると、慎重に呪詛の言葉を紡ぎ上げ、頭上を舞う毒竜達に向けて解き放った。

 ぽっかりと口を開けた「狭間」の闇に使い魔達が消え入ると同時に、神殿の丘の上空がぐらりと歪む。突如、戦士達の頭上に現れ出た毒竜達の姿にエレミアが苦々しく顔を歪めるのを目にして、ザラシュトラは狂喜に心を打ち震わせながら、毒竜達の魂に語り掛けた。

「どうだ、ティシュトリアの血の匂いは格別であろう? さあ、好きなだけ喰らうがいい」

 女術師の脳裏に、王城での最後の夜の記憶が鮮やかに蘇る。

「我が王国に災い成した者達の血筋を根絶やしにするのだ……スェヴェリスの嘆きと怨念を思い知るが良い!」


 恩讐に彩られた叫び声に応えるかのように、石の輝きが大きく揺らぎ、燃え盛る炎のようにうねりながら青白い輝きを増した。

 途端に、業火に両手を焼かれるような激しい痛みに耐え切れず、ザラシュトラは思わず小さな悲鳴を上げて石を放り出した。が、使い魔達の魂の戒めがゆっくりと解けていくのを感じて、青白い炎を吐き出しながら地面を転がり続ける石を必死に目で追い続ける。

 何が起きたのか分からぬまま、ようやく意を決して、石を取り戻そうと一歩踏み出した。


 不意に、周りの空気が大きく揺らぎ、むせる程の血の匂いが辺りに漂い始めた。


 ザラシュトラは咄嗟に白いローブで口元を覆い隠したが、目の前がかすむほどの臭気に、激しく咳き込みながら地面にしゃがみ込んだ。

 遠くで、使い魔の断末魔のような咆哮が聞こえる。

 女術師はなんとか平静さを取り戻すと、いぶかしげに周りを見回した。天上にきらめく星々の下、夜闇に赤々と燃え上がる炎が地上を覆い尽くしている。


 

 ……ここは、どこだ? 

 

 薄紫色の瞳を凝らして、もう一度辺りをうかがう。

 ラスエルクラティアの神殿の中でないのは明らかだ。

 ふと、足元に転がっている青い石が目に入り、それが静かな光を湛えている事に気づいて、拾い上げようと恐る恐る手を伸ばした。その瞬間、背後から馬の駆けるような音が聴こえた。

 思わず振り返ったザラシュトラのすぐそばを、恐ろしい雄叫びを上げながら、異国の戦士達が軍馬デストリアと共に駆け抜けて行く。

 女術師は凍りついたように動きを止め、瞳を大きく見開いたままゆっくりと立ち上がった。

 

 ここは……戦場だ。


 ザラシュトラは石を拾い上げると、早まる鼓動をなんとか抑え込みながら、もう一度、辺りを見回した。 

 地面を埋め尽くしているのは、父王の居城で何度も顔を合わせた覚えのある術師達と、その使い魔のむくろだった。喉を焼くほどの熱風と血肉の焼け焦げる臭いに吐き気を催して、崩れ落ちるように地面に膝まづく。

 激しく嘔吐し、呼吸を乱したまま、ふと、目の前に転がるものに目をやった。

 血に染まった術師のローブに身を包んで仰向けに倒れている男が、恐怖と恨みに満ちた形相でこちらを見つめている。かっ、と見開かれた紺碧の瞳に命の輝きは既になく、口元は今にも呪詛を解き放とうとするかの如く開かれたままだ。

 ザラシュトラの瞳から涙があふれ出た。

「……父上? ああ、なんてこと……父上!」



 己の悲鳴で我に返ったザラシュトラは、祭壇の前に置かれた水鏡の前にしゃがみ込み、水面に映る泣き腫らした己の顔を見つめていることに気がついた。


 あれは、あの夜の……城が焼け落ちたスェヴェリス最後の夜の記憶だ。

 あまりにも生々しい幻は、この手から止め処なく流れ込む石の力が見せたものか? 

 だが、何故だ? 何のために……


 ザラシュトラは忌々しそうに両手で石を覆い隠した。だが、光は容赦なく漏れ出して、じわり、じわりと心の奥底を照らし出す。まぶしすぎるその輝きに身を焼かれるような痛みを感じて、女術師は得も言われぬ恐怖に憑りつかれ、手にしていた石を思わず水鏡の中に投げ入れた。

 光は水面から溢れ出し、あっという間に結界の中をまばゆい輝きで包み込んだ。

 結界の亀裂をすり抜けて、光は神殿の闇を食い尽くしながら、やがて天井まで至り、雪の結晶のようにきらきらと輝きながら、疲れ切った戦士達の上に優しく降り注ぐ。


 ああ、これは……この光は……


 青白く燃え上がる浄化の炎にも似た石の輝きに、ザラシュトラの魂が大きく身震いし、悲鳴を上げた。



***



 痛む左腕を右手で押さえ込んだまま、ぐったりとタイースに身体を預けている小さな娘の顔を、青い光が優しく撫でた。


 ファランはゆっくりと目を開けて、心配そうに覗き込むタイースに力なく微笑むと、光の方へ顔を向けた。その先に、大きな水瓶の前に巫女装束に身を包んだ女王が座り込んでいる。

 何かに怯えるように身体を震わせているザシュアの心が、まるで迷い子のように悲鳴を上げているのを感じ取って、ファランは小さくささやいた。

「タイース様……起こして頂けますか?」

 まだ無理をするなと言いたげに、眉を潜めて首を横に振るタイースを真っ直ぐに見つめると、ファランはもう一度、治癒師の声でささやいた。

「あの方の……女王の心が、悲鳴を上げて……泣いているんです」

 

 ……ああ、そうだ。

 この娘は、生まれついての治癒師なのだ。己の身がこんなになってさえ、救うべき命を前にすれば、見過ごすことなど出来ぬのだ。


 複雑な表情で娘の顔をしばらく見つめていたタイースが、傷ついた左腕に負担が掛からぬように気遣いながら、ファランの上半身を優しく抱きしめて、ゆっくりと小さな身体を起こし上げた。

「あまり、無理をするなよ」

 大丈夫、と小さくささやいたファランの目に、もはやタイースの姿は映ってはいない。青灰色の瞳が見つめるのは、女王の心の奥底から陽炎かげろうのように浮かび上がった記憶の欠片だった。



 斬り裂かれた翼をなおも広げてあるじを守ろうとする妖魔の女と、その背後で泣き叫ぶ黒髪の少女。


 燃え上がる谷間を見つめる白銀の戦士に寄り添い、逞しい背中を愛しげに見つめる栗色の髪の女。


 人とも獣とも区別のつかぬ姿の使い魔と獰猛な妖獣達を従え、叶わぬ想いに身を焦がす黄金色の髪の乙女。


 

 ファランの瞳から涙が零れ落ちた。

 ……ああ、なんて、孤独で、悲しい人。

 ほころびだらけの心を癒そうともせず、ただ、世界を憎み、呪い続けるために生きて来たなんて。

 どうして、そんなにも自分を苦しめるの?

 あなたの瞳に映っていた世界は、こんなものではなかったはずだわ。 


「ねえ、お願い……思い出して」

 ファランは静かに、祈るような声を絞り出した。


 ぴくり、と肩を震わせたザラシュトラが、ゆっくりとこちらに顔を向ける。

 それを目にして、タイースの背筋に冷たいものが走った。この距離で、消え入りそうにか細い娘の声が、結界の中にいる女術師の元に届くわけがない。

 どうやら、女術師の視線は、宙を漂う光の結晶に向けられているようだ。腕の中に抱えている治癒師の娘は、小さな声でささやき続けている。

「憎み続けても、呪い続けても、悲しいだけ……憎しみからは、新たな憎しみしか生まれないわ。悲しみは、新たな悲しみを呼ぶだけ……ねえ、お願い、思い出して。あなたが望んでいた世界は、もっと美しかったはずでしょう? あなたを愛してくれた人達を……あなたが愛した人達を……お願い、思い出して」

 


 ザラシュトラは己の魂が青白い炎の輝きに焼かれていくのを感じて、声にならない悲鳴を上げた。


 止めろ……止めてくれ……!

 この魂は我が王国の嘆きの記憶……裏切りと殺戮の嵐で踏みにじられた我が王国の怨念を刻み込んだ魂を、浄化の炎などに焼かれてなるものか。

 七王国の血筋を根絶やしにするまで、世界を憎み続けてやる。

 私を、「スェヴェリスの花」と呼ばれたこの私を、こんな化け物にしたこの世界を呪い続けてやる。

 スェヴェリスの花と……


『スェヴェリスの花、偉大なる術師の娘よ……』


 ザラシュトラの魂を焼き尽くそうとしていた青白い光の炎が、何かをかたどるように大きく揺らめいた。

 やがて、炎が長身の戦士の姿を浮び上らせると、悲痛な叫びを上げていたのが嘘のように、女術師の魂は炎に魅入られた。


『ああ、なんて美しいのかしら……』


 ……ああ、そうだ。あの日、あの人を初めて見た時、そう思った。

 月の光のように銀色に輝く髪が風に揺れて、美しいと思った。

 私に向けてくれた悲しい色の瞳さえ、美しいと……

 

 そうだ……世界はあんなにも美しかったのに。

 私は、どれだけのものを失ってしまったのだろう。

 父上、アシェラ、何処に居るの?


 

 薄紫色の瞳から涙が零れ落ち、ザラシュトラの心がまた、悲痛な叫び声を上げた。



 ***



 明らかに正気を失った虚ろな表情で宙を見つめる女術師を横目に、エスキルは正面から斬り込んで来たアルスレッドの一撃を長剣で受け止めると、顔を歪めて苦しげな声を絞り出した。

「この俺を、ここまで追い詰める奴がまだ居たとはな……」

 呪詛の戒めから解放された一匹の毒竜が「狭間」から飛び出し、結界の亀裂を喰い破ろうと鋭い牙を立てている事に、ザラシュトラは全く気づいていない。


 何かがおかしい……


「惜しいが、お前との勝負はお預けだ」

 エスキルはアルスレッドの長剣を払い避けると、薄笑いを浮かべて後退り、背後の結界の中へ飛び込んだ。


 呆気にとられたまま、つい今しがたまで対峙していた若者が女術師に駆け寄る姿を間近にして、アルスレッドは小さく舌打ちすると、ファランを抱えて地面に座り込んでいるタイースの元へ走り寄った。



 ファランの瞳に映っているのは、まだ幼さを残す黒髪の少女。

 紺碧の瞳から大粒の涙を流しながら、誰かを探しているようだ。


『父上……アシェラ……ねえ、何処に居るの? アシェラ、ねえ、アシェラったら……あの人は何処?』


 その言葉に、ファランは、はぁっと大きく息を呑んだ。

「タイース様、シグリドは……あの人は何処ですか?」

 痛みをこらえて震える声に、タイースの心が揺らぐ。愛する娘が傷つけられて黙っているような男ではない。そのシグリドが、未だ姿を現さないとすれば、やはり……

「タイース様?」

 青灰色の瞳に不安の翳が過ぎる。娘の息遣いが荒くなるのに気づいたタイースが、小さな身体をしっかりと抱きしめた。

「突然、姿を消した。恐らく、あの白い妖魔が……」

 

 ロスタルが、シグリドを?

 ああ、そんな……嘘でしょう?


 込み上げる涙でかすむ瞳で虚空を見つめたまま、ファランは愛する人の名を心の声で呼んだ。


 シグリド……何処に居るの、シグリド?

 あなたの指笛が、私の名を呼ぶのを聴いたわ。

 お願い、もう一度、私の名を呼んで……



 どれだけ心を澄ませても、あの指笛はもう聴こえない。ファランは心が引き裂かれそうになりながら、遠い昔、傷だらけの「火竜」に初めて出会った日の事を思い出した。


いたい人の事をおもってごらん。その人が君を呼ぶ声が聴こえる?』


 あの日、「狭間」で迷子になっていた私をシグリドの元へと導いてくれた優しいシエル。どうか、お願い。あなたが愛した弟の元へ、もう一度、私を……



 頭上に揺らめく「ほころび」に目をやって、黒髪の火竜を想いながら、ファランは「狭間」の彼方に心を翔ばした。

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